花魁道中いろは唄

白鷹 / ルイは鷹を呼ぶ

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第零章

焉んぞ想ひ語るるに

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幻の蛇がとぐろを巻いて全ての罪を覆い隠すかの様に黒煙はぶすぶすと音を立てて燻っている。やがて黒い物体は地面を這うのに飽いた様に渦を巻いて空へと昇っては消える。

若山遊郭炎上。
文政十二1829年。

―――三月中旬に江戸を焼き尽くした大火事の怨念が飛び火したのかと噂も広がる年末の出来事だった。
その火災があってかどうか、時は天保に改元される。

鹿威しの音が辺りに響き渡り、小さな水音も聞こえる庭園が見える部屋。十二畳はあるだろう、大きな部屋に敷かれた柔らかな布団の中で少女はゆっくりと目を覚ました。
発熱した少女の頭を水で濡らした手拭で冷やそうとしていた青年になりかけた少年、涼之丞すずのすけは「あっ」と小さな声を挙げて少女の顔を覗き込む。

美しい少女だった。
抜ける様な白皙に大きな瞳、二皮目にまつ毛が瞳に影を落とす程に長い。すらりとした鼻は少し控えめ。小さな唇は、今は血色を失ってむらさきに変色しているがしっかり目を覚ましたのならば鮮やかな朱を刻むだろう。
眠っている時から美しいと感じていた涼之丞だったが、目を開いた少女は更に魂消るという言葉がそのまま当て嵌まる程の美貌を咲かせていた。

「わっちは、
「……ん?」

少女はえもいわれぬ様な美しい声で、全く訳の判らない言葉を話した。

「そさまのお名をお伺いできんしょか?」

これは何となく意味が判ったのか、涼之丞はにこりと笑顔で答えた。

「わしは涼之丞と申す。そなたのことは何と呼べばよい?」
「わっちは、竜胆と申しんす。———若山はどなんなりんしたか?」

少女の言葉の使い方に一貫性を見出して涼之丞は、つい先日まで業火に包まれていた尾張南部の遊郭を思い出した。
堀があったこと、塀に囲まれていたことが幸いして隣接する町への被害はなかったものの、遊郭の中は軒並み酷い有様で燃え残りなど何一つ見付からなかった。逃げ遅れた者、炎に包まれて死んだ者などは未だ確認出来ていない。

「調査は、父が一任されているのじゃが詳しいことは何も聞いておらぬのじゃ。その、そなたを父が助けたっていうのは聞いたがそれだけで」
「父?」
尾張各務ヶ原守おわりかがみがらのかみでこの城の城主じゃ」
各務ヶ原守かがみがらのかみ……、尾張各務ヶ原守おわりかがみがらのかみ? じゃあ新之助しんのすけ様のご子息様? 言われてみれば面影がありんすな」

澄んだ瞳で質問ばかりを矢継ぎ早に投げ掛ける少女に少々辟易する。

「君は、聞いてばかりだね」

すると少女は美しい唇をムッと噤んで眉根に皺を刻む。

「聞かれるのが嫌なら部屋から出て行ってくんなまし」

一体全体どんな躾を受けたら他人の家でこの様に手前勝手な言葉が出て来るのだろう、と思う程には傲慢だ。加えてそう言ったきり、ぷいと顔を背けてしまうものだから、少女の顔を見ていたいと願う涼之丞は少々焦り気味に謝罪の言葉を口にする。

「す、済まぬ……、その、わしもそなたのことを知りたいと思っておるのじゃ……、じゃからわしばかり語るのはつまらぬと思うてじゃな、その……、そなたの話を聞かせてくれぬじゃろうか?」
「わっちには、語れるものなどありんせん。全てを失ってしまいんした。何も、残っておりんせん。もう、何も……、残ってはおりんせん」

竜胆の瞳からじわりと涙が浮かび、見る間にそれは溢れて頬を伝い、枕を濡らす。
軽率だったと涼之丞は後悔した。
焦土と化した若山遊郭。そこから救出された少女ならその焔に全てを奪われたことなど容易に想像がつくだろうに、失った物の多さを考えるずにただの興味で傷を抉ってしまったのだ。

「……済まぬ」

ただ静かに涙を流す少女にどの様な言葉を掛けていいのか判らずに涼之丞は袴の上に置いた手をぐっと握りしめるしか出来なかった。

「その、腹は減っていないか? そなたは三日三晩眠っておったのじゃ。台所に行って腹に優しい物を作って貰って来る」

そう言って立ち上がる涼之丞を竜胆が呼び止めた。

「涼之丞様」
「……ん?」
「想い出しか……、残っておりんせん。聞いてくんなんすか?」

傷付いた心のまま未来を棒に振ろうとしているのではない。竜胆はきちんと現実を受け止めて、今を進もうとしているのだ。
油断をすれば今一度零れそうになる涙を必死に堪えて、竜胆は涼之丞を真っ直ぐな瞳で見る。

「勿論だ。聞かせてくれるのなら一晩でも二晩でもずっと聞く」

ほんの少し垣間見えた心を掴みたくて、涼之丞は必死に堪える。

「それはわっちが辛い。寝かせてはくれんのか?」

くすっと小さな笑い声を漏らす。

「その前にそなたは食事をせねばならぬ。粥を貰って来るゆえしばし待っておれ」

そうして涼之丞は四半刻もせずに温かい粥をもって再度部屋に戻って来る。飯炊きをどれだけ急かしたのだろうと不憫に思いながら、竜胆は温かい粥を口元へ運んだ。



「わっちは、母の顔を知りんせん———」

粥を食べながら、竜胆はぽつりぽつりと過去を語り始めた。
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