貴妃の脱走

川上桃園

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乙女の独走

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   どこかぽけっとしたところのある緋杏にも、しっかりとした趣味がある。
 そして、趣味のためなら、時間を惜しまない。
 彼女に一日休みが与えられたとき、その使い方は主に三つ。一つは、住み込み先の饅頭屋の奥方に連れられて、物見遊山に出かけること。二つ目は、「晶さん」とともに街をそぞろ歩くこと。……最後の一つは、画商に顔を出すことだ。

「すみませーん」

 緋杏は薄暗い店内を見渡しながら、のんびりと声をかける。
 すると、妙に頭のてかった老人が腰を曲げたまま、黙って緋杏へと手招きする。
 彼女は、嬉しげに一つ頷いて、とことこと歩く。まばらにいる客を避け、壁にかけられた掛け軸や、棚の竹篭の中にある巻物をちらちらと眺めながら、店の奥へと行く。
 そこには、大きめの作業机が構えていて、老人はそのそばに杖をつきながら立っている。
 机には、五六本の巻物が巻かれたままに置いてあった。

「こんにちは、おじいさん」

 緋杏はむっつりとしている老人に笑いかける。

「今日も、見せていただけませんか?」
「……買う気もないのにか」
「うん」
「……はぁ」

 深い溜め息。買いもしないのに、品を見せる。不毛な行為である。だとて、老人にもそう無下にできぬ理由がある。残念なことに、彼女は昔馴染みの店で働いているのだ。しかも、その昔馴染みは、彼女を娘のように気に入っている。

(見た目はただの、吹けば飛ぶような軽そうな娘なんだがねえ……。「軽い」を「儚い」と取り違えているんじゃねえか、あいつ)

 童子そのものの、きらきらとした眼で彼女が巻き物の紐を次々と解いていく。

(絵の善し悪しなんて、わかんねえだろうなあ。あぁ、価値がわからん者(もん)に見せることほど不毛なことはねえわな)

老人はどっかりと粗末な椅子に座って、机の上に頬杖をつく。向かい側では、巻き物の両端を持った娘が、うーん、と中に描かれた絵を見つめている。口元は緩みがち、今にも微笑みかけそうな。

「おじいさん。最近、一番流行っている絵師って誰かしら?」
「ああん? あー、相変わらず、元画院画家の遊山人(ゆうさんじん)が圧倒的だよ。寧布衣(ねいふい)といった新進画家も出てきているが、彼らはどうにも俗っぽいもんだから、高官の受けが悪い」
「ふうん。……じゃあ、この人は?」

 大きな黒目が指し示す先には、先ほどからずっと眺めていた巻き物がある。
 老人は虚をつかれたような顔をし、しげしげと中の絵を見る。少しばかり、内心で驚いた。

「この絵は……遊石(ゆうせき)じゃねえか」

 遊山人の後を継ぐと目されている弟子である。まだ世に出てきたばかりだが、その一作二作の山水画が目の肥えた知識人たちを唸らせた。今後、大いに注目すべき絵師の一人。……そして、間違いなく、少女に見せた巻き物の中で最も価値が高い逸品を制作している。

「遊石、と言うのね」

 緋杏は確かめるように呟いた。
 画面には、番の鳩が二羽向かい合うように舞っている。羽毛の一本一本、つぶらな瞳まで繊細な線で表現され、薄い着色を施されている。決して目立つような描き方をしていないのに、思わず惹きつけられて見入ってしまう。

「私、この絵が一番気に入ったわ。ありがとう、見せてくれて」
「はいはい。でも、それはすでに売約済みでね、数日中にはどっかの蔵に仕舞われちまうだろうよ」
「と、いうことはこれが見納めになってしまうわね」

 緋杏はちょっぴり残念そうな顔をして見せて、名残惜しげに絵を巻きなおす。老人の手に返して、ぺこりと頭を下げた。

「じゃあ、これで失礼します、おじいさん。また来ます」
「いや……そんなに来なくてもいいのだがなあ」

 老人の独り言は、幸いにも彼女の耳には入らない。彼女は相変わらず、綿の上を歩くようなおぼつかない足取りで店を出た。……そして、今度は別の画商の元へと向かうのだ。




 ふらりふらり。緋杏は見ている者が不安になるような歩き方をするが、街に下りてしばらく経った分、実際に人にぶつかることは少なくなった。か細い体は変わらないが、心根はわずかながら、たくましくなっている。 
 歩きなれた街の雑踏を、ふんふんと鼻歌を口ずさみながら、あれやこれやと店先を覗いている。
 美味しそうな串焼きの匂いにつられ、大道芸人の宙返りに拍手をおくり、売り子の声に引かれて装身具の露天に目を走らせる。虹がかかるさまに似た橋を渡って、次の画商へ――と。

「あ! あの!」

 緋杏は自分の背中に声が投げられたように感じて、後ろを振り向く。強く射抜くような視線に出くわした。

「この先の、画商に、御用が、あるのでは、ない、でしょうか!」

 怒っているようなきつい口調だが、なぜか勢いづくようにぶちんぶちんと言葉を短く切られていた。 小脇に包みを持った、職人が着るような簡素な身なりをした背の低い若者が彼女の目の前に立っている。目鼻立ちが整った、なかなかの美人であった。
 緋杏が何かを言う前に、相手はさらに続ける。

「それでしたら、私、と、一緒に、参りませんか!……私は、絵師で! 顔が利くので!」

 ぎゅっと脇をきつく締めて、頬は絵の具よりも真っ赤っか。相手がどれだけの勇気が振り絞った結果であるか、わかろうというものである。
 緋杏は目をぱちくりとさせている。細い首をこてんと傾け……じいっと、相手の顔と服装を不思議そうに眺めて、一言。

「ねえ、あなた…………どうして、女の子なのに、男の子の格好をしているの?」
「へっ。ええっ?」

 雑踏の中、互いに見つめ合った。
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