貴妃の脱走

川上桃園

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貴妃の脱走

前編

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 人生は一度きりだもの。一度くらい好きに生きたっていいじゃない。
 
 貴妃の緋杏ひあんはそう思い立って、後宮を脱走した。時は折しも先帝の息子が立太子し、実質的な国の統治権が現皇帝から太子に移行する頃。まともに夫の顔さえ知らない名ばかり妻の緋杏の存在は紙よりも薄かった。金糸銀糸の衣服を脱いで、下働きの質素な服を身につけて、彼女らが後宮を出入りするあとにくっついていけば簡単に抜け出せてしまった。
 
 実は田舎の官吏の家出身で何の後ろ盾もない彼女。都をまともに見るのも初めてだった。ふわふわと雲の上でのように歩く彼女の肢体はひどく頼りない。この調子でよくもまあ抜け出せたな、と言えるほどだが、何のことはない、門番がたまたま欠伸をして注意力散漫になっていたところに彼女がやってきただけ、全くの運なのである。

「おじさん、お饅頭ください。あと、お仕事ください」
 
 小腹がすいてやってきた茶店に入って、饅頭と仕事を注文すれば、恰幅のよい主人は眼を真ん丸に見開いた後、

「お嬢さんは見たところいいところの出に見えるが、どうしたんだね」
「一度くらい自由に生きてみようと思って。でも、それにも先立つものが必要でしょう? 食べ物とお金は大切だもの」
「おうちの人は?」
「うーん。結構大きなところに住んでいたんだけれど、あそこにいてももう私がやることがないから、そこまで真剣に探してくれないと思うのよねえ」
 
 一応貴妃に誰かがつかなければならなくて、たまたま自分がそれについただけ。それに貴妃になるとき、最低限「貴妃」でいなければならない期限を告げられている。それが先帝の息子が立太子するまで。正式に後宮を退下する命は来ていないけれど、多少フライングしても大丈夫だろう。

「うん、そうだねえ」
 
 主人は顎髭を撫でながら思案し、緋杏の顔をじっと見ていたが、始終笑顔の彼女にほだされたのか顔を綻ばせた。

「売り子として入ってもらおうか。お嬢さんは美人で愛想もよさそうだ。二三日みてみようかね」
 
 前の売り子が急に辞めてしまった穴を埋めようとしていた主人はまさに彼女を天の配剤のごとく思っている。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。礼儀正しくお辞儀した緋杏はこうして、市の一角にあるとある茶店の売り子として、新たな人生を始めることになったのだった。






「貴妃様が後宮を脱走されました」
 
 ごく当然のことながら、貴妃脱走の件は瞬く間に知られることになる。第一報を受けた夫である皇帝は――これもまた当然のごとく――はあ?と聞き返した。

「この扉の先にはいないのか」
「はい」
「庭にも?」
「はい」
「後宮にも?」
「はい。……現在、貴妃様は逃亡中でございます」
 
 皇帝である良晶りょうしょうは扉へと伸ばしかけた手を引っ込めた。やがて形容しがたい怒気がその身を包み込む。

「お前たち宦官は何やってるか! 高位の妃一人もまともに管理できんのか!」
 
 報告をした宦官は震えあがった。いえ、あの、とごもごも言いたがるが、皇帝の怒りになすすべもない。元来が切れ長で眼光鋭いだけに、怒った時の目力と言ったら、人を射殺せそうなほどなのだ。

「で、ですが、あのお方は妃とは名ばかりで、皇帝に一人も高位の妃がいないのも外聞が悪いからと、いうことで……。それに陛下の寵愛も受けるようでもなく、どこか抜けているというか、そういうご気性ですので、まさか後宮を逃亡、などということは、思いがけず……」

「……余がどうして、妻を持とうとせず、子を成そうとしなかった理由を知っておろうな」
 
 側近として名を連ねる彼のこと。皇帝の真意はわかりすぎるほどわかっている。
 先帝が亡くなった時、最近太子になった穆(ぼく)脩(しゅう)はほんの子供だった。帝王学など何も知らない。そこで彼が大きくなるまでの繋ぎとして皇帝にたったのが、先帝の弟にあたる良晶である。穆脩が成長し、朝廷で確固たる地位につくまでに良晶に子ができれば、天下騒乱のもととなってしまう。そのために彼は自重してきたのだ。
 
 もちろんでございます、と答えた宦官に皇帝は傲岸な笑みを浮かべた。

「余は決して女を好まないわけではないぞ。……ようやく好いた女と気兼ねすることなく仲睦まじくなれると思い、ここへやってきたのだが……そなたの失態ぞ?」
 
 はは、と宦官は小さな体をさらに小さく縮こまらせた後、あれ、と顔を上げた。

「恐れながら申し上げますが……まさか、貴妃さまを」
「……一目ぼれだ」
 
 良晶はついと目をそらせた。冷たい顔はそのままながら、首筋がほんのり赤く色づいている。
 宦官は目ん玉が飛び出しそうになった。開いた口がふさがらない。でも確かに思い当たる節はある。貴妃が庭に出ているところを建物の陰から見ていたり、部屋で刺繍をしているところを円窓の下からこっそり覗いていたり、貴妃のいない部屋に忍び込んで焚き染められた香の匂いを嗅ぎつつ、新しい香木を内緒で置いて行ったり……あれ、なんで今まで気が付かなかったんだ。

「あの、陛下これからどうするおつもりで」
 
 聞くよりも早く、皇帝の足取りはすでに別のところに向かっている。

「貴妃を探す。口説く。以上だ。行ってくる。不在の誤魔化しを頼んだ」
 
 皇帝の足についていけず、宦官は転んで鼻の頭を擦りむいた。でも皇帝は気づいてくれなかった。その虚しさと忠誠の報われなさに涙が出てくる。とぼとぼと皇城に向かう彼の背中には悲哀の二文字がよく似合っていた。



 

 皇帝たるもの、仕える権力は総動員するべきである。良晶の行動は素早かった。信頼のおける臣下数名に貴妃探索を命じ、自分も町に出たのである。
 一日目、二日目はすべて空振りに終わり、三日目になってやっと行方がつかめた。
 なんと彼女はある茶店で売り子として働いていた。さすがにそこまで庶民と混じって暮らしているとは思わなかったため、情報が遅れたのである。
 
 良晶はもちろんすっ飛んで行った。恰好は質素な苦学生風。よくよく見ればそれも衣は最高級品ではあるが。容姿と合わせてみれば、大望を抱いて上京してきた知性あふれる科挙受験者である。皇帝であるが故の気の大きさはやはり隠せなかった。
 
 彼の足が茶店の前で止まる。そして、一歩店の中へと――踏み出せなかった。良晶は顔を顰めた。そしてもう一度……やはりできなかった。

「何故だ……」
 
 皇帝は道端で頭を抱えて呻いた。――答えは簡単。好きな女の子を目の前にして、勇気を振り絞り切れないだけなのである。女と遊んだ経験はたっぷりあれど、初恋らしき思いを抱いたのも初めてであるため、勝手がまったくわかっていないのだ。

 道行く人々が噂していく。あそこにいる彼、顔は涼しげでカッコイイのに、行動が情けなく見えるわね。プライドの高い彼のこと、きっと睨んでみればたちまち相手は退散していくが、情けなさに変わりなし。

「あの……大丈夫ですか」
 
 そこへ親切に声をかけたのは、かの茶店の主人。人のいい彼は、自分の店の前に何やら思いつめた様子で立っている男を心配して、わざわざ声をかけたのだ。

「ここの店のご主人か」
 
 そうですよ、と彼は頷く。ところで、この店に入られないのですか。

「いや、な。入りたいのだが、どう声をかけてよいのかわからず……」
「はい? どなたにですか」
 
 そういった直後、軽やかな声が茶店から聞こえてくる。

「お待たせいたしました! お茶をお持ちしました」
 
 良晶には聞き間違えようもない。愛する妻の声だった。

「緋杏……」
 
 彼は窓枠にかじりつく。すると、隙間から町娘のように元気に働く緋杏の姿が見えた。結い上げた髪や首や指にも、何の装飾品もついていないが、それでも彼女は陽だまりのように笑って、輝いてみえた。そして、触れれば折れてしまいそうな華奢な体には不安になった。たった二三日の間だが、やつれてはいないだろうか。具合の悪いところはないだろうか。

「あの子のお知り合いで?」
「夫だ」
 
 は、と主人の目が見開かれたあと、そうでしたか、ご夫君でしたか、あの様子だとまだ独身であると踏んでいたのですが……と独り言のように呟く。実質の夫婦ではないが、良晶は黙っていた。

「迎えに来られたのですよね。……でしたら今声をかけますので」
 
 手を上げようとした主人の腕を、慌てて良晶が抑え込む。
「駄目だ、まだ心の準備が……」
 
 ああそうですな。主人は得たりといった顔でうんうんと何度も頷いた。

「そりゃあ、愛想尽かされて逃げられた奥さんを連れ戻すのですからね。何と声をかけたらいいか……迷いどころですなあ」
 
 愛想尽かされて逃げられた……。確かにそれは正しいが、そこにはたぶんに誤解が含まれている。何しろ相手は良晶の顔さえ知らない。

(やはり一度はまともに顔を見せるべきだっただろうか。しかし、面と向かって微笑みかけられたら、すぐに歯止めが利かなくなった気がするな)
 
 積年の思いは一度火が付いたら止められない。すでにそんな予感がしている良晶である。

「いざとなれば、泣き落としにかかるしかないか」
 
 皇帝の威厳はいずこへ。口に出してみれば、それこそ自分の発想に泣きたくなる。

「いや、ご夫君。その顔で泣き落としをなさるとは……」
 
 きゅんきゅんする光景ですな。茶店の主人の言葉に良晶は脱力した。
 この様子を見ると、とことん人のいい男らしい。良晶は思い切ってある程度の事情を話して協力してもらうことにした。





「ははあ、成程。つまり、ご夫君の家の事情とやらで、まともに細君に会うことすらままならず、ようやく会えるようになったら家出してしまった、と」
 
 事情を呑み込んだ主人が総括する。

「問題は、あの子がご夫君の顔を知らない、ということですか」
 
 ふむ、と顎髭を撫でながら思案していた茶店の主人は、ではこういうことにいたしましょう、と爪先立ちで良晶の耳に囁いた……。
 

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