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ハウニーコートの恋
燃え尽きる恋
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翌日の午前中。身支度をしながら今日の予定を二人で話し合っていると、ふいにドアのノッカーが叩かれる音が響く。先に準備を終えていた彼が廊下に出たが、すぐに私のところまで戻ってきた。
「カトリーヌ嬢だ。さっそく君を誘いに来たらしい」
「本当?」
「身支度にはまだ時間がかかる?」
「髪を止めるピンがまだうまく挿さらなくて……」
「僕がやるよ。どこ?」
結局、彼にも手伝ってもらって身支度を終えた。廊下に出てくると、「朝早くから申し訳ありません」とカトリーヌ嬢が動きやすい服装で立っている。
「マティルダ様。よろしければテニスをしませんか? それか、サイクリングでも構いません。ご一緒にいかがですか?」
「行ってみたらどうだ?」
隣で彼がすかさず口を挟む。カトリーヌ嬢はにこにこしながら「アドルファスさんもぜひご一緒に」と誘うと「マティルダ嬢の機嫌次第かな」と言った。彼女の期待の視線を一身に注がれた私はテニスかサイクリングかの二択で迷うこととなった。
結果、先日とは違い、今度は市街地に近いところでサイクリングをすることになった。ホテルからふたたび自転車を借り出したが、ここで問題が発生した。
誘いの本人であるカトリーヌ嬢の自転車の腕が思いのほか不安定でまっすぐ進むはずの道で蛇行運転をしだすのだ。
「ど、どうしましょう。先日、上達したばかりなのに……」
萎れた花のようになっている彼女に夫が助け舟を出した。
「少し練習していきましょう。すぐに慣れますよ」
彼は彼女の自転車の後方を支えながら彼女の運転に合わせて走り出す。カトリーヌ嬢はかわいらしくきゃあきゃあ叫びながらも楽しそう。
私? 私は颯爽と自転車にまたがれる人だから二人を傍で見ながら観察したり応援したりすることぐらいしかやることがない。今はもやもやする、と呟きながら道端で放し飼いになっている鶏にちょっかいをかけている。
「お待たせしました! やっとコツが掴めたのでもう大丈夫です」
ややあって、はつらつとしたカトリーヌ嬢が私のところにやってきた。
「アドルファスさんのおかげです。ありがとうございます」
「どういたしまして」
彼はとてもフラットな対応をしているが、彼女の視線はもう私を通り越してもう彼の方へ行っている。
それでも、私の気のせいだと言えるのだろうか?
表向きは和やかな友人同士の交流が二日ほど続いた。そして、とうとうハウニーコートを離れる日がやってきた。
列車は昼間の便を取ってあるが、ホテルを出発するのは朝だ。送れる荷物はホテルから送り、残りの荷物をトランクケースに入れ、薄い霧の立ち込める中、チェックアウトを終えて外に出る。外にはすでに駅に向かう四頭立ての馬車が迎えにきている。
その前で彼女が侍女を連れて待っていた。
「もうお帰りなのですね。本当にあっという間でした。マティルダ様、ありがとうございました。この数日は気が紛れてとても楽しかったです。またお手紙を書きます」
「いいえ。こちらこそ。カトリーヌ様がいると飽きることがありませんでした」
内心はずっとひやひやしていたけれども、彼女は最後まで好感の持てる完璧な令嬢だった。それこそ、不安がっていたのも考えすぎだったのかもしれない。
彼女は今度、アドルファスを見た。
「アドルファスさんも、お元気でいらしてください」
「はい。カトリーヌ嬢もお元気で。……さあ、行こう」
夫は私の肩を抱いて馬車に乗り込もうとした。
だが、次の瞬間、振り返る。
「あ、あれ……?」
同じく振り返った私が見たのは、真珠のような涙をぼたぼたとこぼすカトリーヌ嬢。彼女の右手は夫のコートの裾をしっかりと握り、本当に不思議そうな声音で、
「どうして、泣いているんでしょう。変ですね。……お二人が行ってしまうからさびしいのかしら」
「……カトリーヌ嬢?」
夫の声が上ずった。
「アドルファスさん、この気持ちはなんでしょう? 胸がきゅっと締め付けられて……いなくなってほしくないと思っているんです」
カトリーヌ嬢は隣の私が見えていなかった。はじめて会ったあの時のように。
ああ、私のカンがまずいと告げている。ここはハウニーコート。恋の生まれる場面はいくらでもある。この瞬間をずっと警戒していた!
「カトリーヌ様! 大丈夫ですか!」
大声を出し、ハンカチを彼女に差し出す。夫がおずおずと差し出そうとするその前に。
「さ、これで涙を拭いてください。せっかくかわいらしい顔をしているのですから、笑顔の方が似合いますよ。ね?」
彼女は私を見て、はっとなった。
「あ……マティルダ様」
彼女の顔面が蒼白になる。そして「ごめんなさい、ごめんなさい」と私に縋りついて泣き出した。
それはさながら溜め込んだ恋心をすべて流しだすような激しい泣き方で、彼女を慰めながら私自身も罪悪感で泣きそうになる。
彼女は一途に彼のことを好きになってしまっただけ。それを知って押しとどめた私が一番醜い。私は彼女を止められるほど彼を想っているわけではないのに、「結婚」という形式でその自由な心を傷つけている。
涙も枯らして、魂さえも半分抜け出した彼女を無言の侍女が引き取り、二人を乗せた馬車はようやく出発する。汽車の時刻が迫っていた。
馬車の中が陰鬱な雰囲気になっていたのは言うまでもない。
「……だから言ったではありませんか」
彼は疚しさを隠すように視線を逸らした。
「すまないマティルダ。正直、危なかった。あんなに必死に恋われたことはなかったから」
「反省してください」
「ああ。だから泣くな」
「泣いていません!」
「そんな時も意地を張るなよ。もうぐっちゃぐちゃじゃないか」
これは悔し涙だ。憧れのハウニーコートに行けたのに、よりにもよって夫に恋が生まれようとしていたなんて。他人事なら応援もできたが、こればかりは絶対に無理だ。
「結局、出会う順番の問題なんですよ……。もしも私より先に彼女と出会っていたのならきっと」
私がお邪魔虫の立場になることもなかったはず。ただの知人であった私は彼らの婚約にも特に何も思わないで会ったときに「おめでとうございます」とドライに言えた。もうそんな私には戻れない。
「ただの仮定の話じゃないか。実際どうなっていたかはそれこそ神のみぞ知ることだ。マティルダにはマティルダの魅力があるし、僕はちゃんとわかっている。君の方が大事だから僕はカトリーヌ嬢を慰めなかったし、その気にもならなかった」
「その言葉を忘れちゃいけませんよ。いいですか、アドルファス。あなたが愛を語るなら私にしてください、それ以外はダメですからね」
「当たり前だろ。男に二言はない。誓うよ」
膝の上の手をしっかりと握り込まれ、顔を覗き込まれる。
「僕の頭の中には一人分のスペースしかないよ」
そのままされたキスは涙の味がした。しょっぱすぎる。
「結局、雨降って地固まるというわけでしょ」
私には二人姉がいる。性格がキツイ姉とそうでない方の姉だ。ちなみにキツイのは上の姉。ただ猫かぶりがうまいため、世間様にはばれていない。
夫が出勤した昼間、上の姉が我が家を訪ねて来て、サロンで紅茶を飲み、スコーンをつまみながらいろいろと世間話をしていった。その際に結婚生活のことを問われて当たり障りのないことを答えていたら一から十まで大体察した上でこのような言葉を頂戴したわけである。
「まあ、あなたたち相性がよさそうに見えたし、父様の主張は間違っていなかったわけね」
「どういうこと?」
姉はティーテーブルから前のめりになり、声を潜めた。
「これは内緒の話なんだけれど、母様はね、あなたを修道女にしようとしていたのよね」
「うそでしょ……全然向いてないのに」
「私だってあなたが慎み深く『アーメン』と言いながら退屈な修道院で大人しくできるとは思っていないわ。でもあんまりにもご縁がないし、あなたは途中で結婚する気をなくしているし、それならいっそと思ったんでしょうけれど、さすがに不憫だと思った父様がいろいろとお相手を探してきて、持ってきたのがあのサルマン氏との縁談というわけ。誤算があるとすれば彼の外国派遣が突然入ったところぐらいじゃない?」
「そうね。さすがにあれはひどかったと思う」
「まあそこで結婚を延期しないで強行した父様もたいがいよね」
「……は?」
寝耳に水だ。
「それだけ彼を逃してやるものか、という気持ちだったんでしょうよ。許してやりなさいな。それに伸びただけで当初の予定は一週間だけだったのだしね。父様も言いづらかったんでしょ。言うなって口留めされていたし」
「言っちゃったね」
「わたしに言う父様が悪いのよ」
姉はしれっとした顔で紅茶のカップを傾ける。
「それにね、恋愛結婚がいいとは限らないわよ。わたしもアンも恋愛結婚したけれど、どちらも相手は長男の跡継ぎだったし、私のところは身分違いで今でも肩身が狭い部分がある。仕事を持っている伯爵家の次男の妻は気楽なものだと思うわ。苦労した姉二人を見ているから、父様はあなたの幸せを考えて結婚相手を決めたのだと思う。人生これから長いんでしょうから、半年ぐらいのことをもうくよくよ言っちゃだめよ? そういうものはどうしようもないんだから、思いっきり怒った後である程度は忘れてしまいなさい」
「そういうもの?」
「人生の先輩の金言だからありがたぁく受け取っておきなさい。あとこのくるみのスコーンのレシピを教えてくださるように料理人に言ってくださる? うちの料理人に作らせたいから」
姉の訪問は嵐に似ている。突然来てはくるくると振り回すだけ振り回していなくなってしまう。
午後の郵便でハウニーコートのカトリーヌ嬢から手紙が来ていた。
『……今から思えば、自転車の転倒から助けてくださった時にアドルファスさんに恋をしていたのです。助け起こしてくださった手がたくましくて、私を覗き込む目は真剣そのもの。恋人のように抱き寄せられたように思えて、それだけで恋に落ちてしまいました。けれどもそれは叶わないことはわかっておりましたから、気づかないふりをしてごまかしていたのかもしれません。ただ、短い御滞在の中で楽しい思い出を作りたかった。私には同世代の友人がいませんでしたからマティルダ様とお話しできたのもうれしくて。
結果的にとても濃い数日を過ごせて、本当に楽しかったのです。だからこそ別れるのが辛く、前夜は眠りにつけませんでした。
別れの時、『行かないで。愛しています』と言うつもりでした。あまりの辛さでそうとしか考えられませんでした。自分自身があんなに大胆に振る舞えるとは今まで知らなかったのです。
マティルダ様には感謝しております。あともう少しで過ちを犯すところでした。あの時、熱にうかれて発作を起こしていた私の目を覚まさせていただき、ありがとうございます。仮にこの恋が叶うことがあったとしても、周囲の賛同は得られなかったことでしょう。幸せは、人々に祝福されるものでなければならないのです。
マティルダ様。私はもう、マティルダ様にもアドルファスさんにもお会いすることはございません。これがご迷惑をおかけしてしまったマティルダ様に対する唯一のことだと思うからです。少なくとも、私が心からお慕いする殿方が他にできるまで、お目にかからないつもりです。
最後にお願いがあります。この告白の手紙は、マティルダ様が読まれた後に燃やしてください。残っていたらいつかアドルファスさんが読んでしまうかもしれませんから。手紙のことも私たち二人の胸のうちで収めていただければ幸いです。
では末永く、お元気で。お返事は必要ありません』
部屋ではパチパチ、と暖炉の火が燃え盛っている。その中に手紙を投げ入れる。文字の書かれた白い紙が灰になるまで見守り、火掻き棒で石炭の塊と混ぜる。
ハウニーコートの恋は燃え尽きた。
……アドルファスは最近、『ただいまのちゅう』に味を占めている。
「カトリーヌ嬢だ。さっそく君を誘いに来たらしい」
「本当?」
「身支度にはまだ時間がかかる?」
「髪を止めるピンがまだうまく挿さらなくて……」
「僕がやるよ。どこ?」
結局、彼にも手伝ってもらって身支度を終えた。廊下に出てくると、「朝早くから申し訳ありません」とカトリーヌ嬢が動きやすい服装で立っている。
「マティルダ様。よろしければテニスをしませんか? それか、サイクリングでも構いません。ご一緒にいかがですか?」
「行ってみたらどうだ?」
隣で彼がすかさず口を挟む。カトリーヌ嬢はにこにこしながら「アドルファスさんもぜひご一緒に」と誘うと「マティルダ嬢の機嫌次第かな」と言った。彼女の期待の視線を一身に注がれた私はテニスかサイクリングかの二択で迷うこととなった。
結果、先日とは違い、今度は市街地に近いところでサイクリングをすることになった。ホテルからふたたび自転車を借り出したが、ここで問題が発生した。
誘いの本人であるカトリーヌ嬢の自転車の腕が思いのほか不安定でまっすぐ進むはずの道で蛇行運転をしだすのだ。
「ど、どうしましょう。先日、上達したばかりなのに……」
萎れた花のようになっている彼女に夫が助け舟を出した。
「少し練習していきましょう。すぐに慣れますよ」
彼は彼女の自転車の後方を支えながら彼女の運転に合わせて走り出す。カトリーヌ嬢はかわいらしくきゃあきゃあ叫びながらも楽しそう。
私? 私は颯爽と自転車にまたがれる人だから二人を傍で見ながら観察したり応援したりすることぐらいしかやることがない。今はもやもやする、と呟きながら道端で放し飼いになっている鶏にちょっかいをかけている。
「お待たせしました! やっとコツが掴めたのでもう大丈夫です」
ややあって、はつらつとしたカトリーヌ嬢が私のところにやってきた。
「アドルファスさんのおかげです。ありがとうございます」
「どういたしまして」
彼はとてもフラットな対応をしているが、彼女の視線はもう私を通り越してもう彼の方へ行っている。
それでも、私の気のせいだと言えるのだろうか?
表向きは和やかな友人同士の交流が二日ほど続いた。そして、とうとうハウニーコートを離れる日がやってきた。
列車は昼間の便を取ってあるが、ホテルを出発するのは朝だ。送れる荷物はホテルから送り、残りの荷物をトランクケースに入れ、薄い霧の立ち込める中、チェックアウトを終えて外に出る。外にはすでに駅に向かう四頭立ての馬車が迎えにきている。
その前で彼女が侍女を連れて待っていた。
「もうお帰りなのですね。本当にあっという間でした。マティルダ様、ありがとうございました。この数日は気が紛れてとても楽しかったです。またお手紙を書きます」
「いいえ。こちらこそ。カトリーヌ様がいると飽きることがありませんでした」
内心はずっとひやひやしていたけれども、彼女は最後まで好感の持てる完璧な令嬢だった。それこそ、不安がっていたのも考えすぎだったのかもしれない。
彼女は今度、アドルファスを見た。
「アドルファスさんも、お元気でいらしてください」
「はい。カトリーヌ嬢もお元気で。……さあ、行こう」
夫は私の肩を抱いて馬車に乗り込もうとした。
だが、次の瞬間、振り返る。
「あ、あれ……?」
同じく振り返った私が見たのは、真珠のような涙をぼたぼたとこぼすカトリーヌ嬢。彼女の右手は夫のコートの裾をしっかりと握り、本当に不思議そうな声音で、
「どうして、泣いているんでしょう。変ですね。……お二人が行ってしまうからさびしいのかしら」
「……カトリーヌ嬢?」
夫の声が上ずった。
「アドルファスさん、この気持ちはなんでしょう? 胸がきゅっと締め付けられて……いなくなってほしくないと思っているんです」
カトリーヌ嬢は隣の私が見えていなかった。はじめて会ったあの時のように。
ああ、私のカンがまずいと告げている。ここはハウニーコート。恋の生まれる場面はいくらでもある。この瞬間をずっと警戒していた!
「カトリーヌ様! 大丈夫ですか!」
大声を出し、ハンカチを彼女に差し出す。夫がおずおずと差し出そうとするその前に。
「さ、これで涙を拭いてください。せっかくかわいらしい顔をしているのですから、笑顔の方が似合いますよ。ね?」
彼女は私を見て、はっとなった。
「あ……マティルダ様」
彼女の顔面が蒼白になる。そして「ごめんなさい、ごめんなさい」と私に縋りついて泣き出した。
それはさながら溜め込んだ恋心をすべて流しだすような激しい泣き方で、彼女を慰めながら私自身も罪悪感で泣きそうになる。
彼女は一途に彼のことを好きになってしまっただけ。それを知って押しとどめた私が一番醜い。私は彼女を止められるほど彼を想っているわけではないのに、「結婚」という形式でその自由な心を傷つけている。
涙も枯らして、魂さえも半分抜け出した彼女を無言の侍女が引き取り、二人を乗せた馬車はようやく出発する。汽車の時刻が迫っていた。
馬車の中が陰鬱な雰囲気になっていたのは言うまでもない。
「……だから言ったではありませんか」
彼は疚しさを隠すように視線を逸らした。
「すまないマティルダ。正直、危なかった。あんなに必死に恋われたことはなかったから」
「反省してください」
「ああ。だから泣くな」
「泣いていません!」
「そんな時も意地を張るなよ。もうぐっちゃぐちゃじゃないか」
これは悔し涙だ。憧れのハウニーコートに行けたのに、よりにもよって夫に恋が生まれようとしていたなんて。他人事なら応援もできたが、こればかりは絶対に無理だ。
「結局、出会う順番の問題なんですよ……。もしも私より先に彼女と出会っていたのならきっと」
私がお邪魔虫の立場になることもなかったはず。ただの知人であった私は彼らの婚約にも特に何も思わないで会ったときに「おめでとうございます」とドライに言えた。もうそんな私には戻れない。
「ただの仮定の話じゃないか。実際どうなっていたかはそれこそ神のみぞ知ることだ。マティルダにはマティルダの魅力があるし、僕はちゃんとわかっている。君の方が大事だから僕はカトリーヌ嬢を慰めなかったし、その気にもならなかった」
「その言葉を忘れちゃいけませんよ。いいですか、アドルファス。あなたが愛を語るなら私にしてください、それ以外はダメですからね」
「当たり前だろ。男に二言はない。誓うよ」
膝の上の手をしっかりと握り込まれ、顔を覗き込まれる。
「僕の頭の中には一人分のスペースしかないよ」
そのままされたキスは涙の味がした。しょっぱすぎる。
「結局、雨降って地固まるというわけでしょ」
私には二人姉がいる。性格がキツイ姉とそうでない方の姉だ。ちなみにキツイのは上の姉。ただ猫かぶりがうまいため、世間様にはばれていない。
夫が出勤した昼間、上の姉が我が家を訪ねて来て、サロンで紅茶を飲み、スコーンをつまみながらいろいろと世間話をしていった。その際に結婚生活のことを問われて当たり障りのないことを答えていたら一から十まで大体察した上でこのような言葉を頂戴したわけである。
「まあ、あなたたち相性がよさそうに見えたし、父様の主張は間違っていなかったわけね」
「どういうこと?」
姉はティーテーブルから前のめりになり、声を潜めた。
「これは内緒の話なんだけれど、母様はね、あなたを修道女にしようとしていたのよね」
「うそでしょ……全然向いてないのに」
「私だってあなたが慎み深く『アーメン』と言いながら退屈な修道院で大人しくできるとは思っていないわ。でもあんまりにもご縁がないし、あなたは途中で結婚する気をなくしているし、それならいっそと思ったんでしょうけれど、さすがに不憫だと思った父様がいろいろとお相手を探してきて、持ってきたのがあのサルマン氏との縁談というわけ。誤算があるとすれば彼の外国派遣が突然入ったところぐらいじゃない?」
「そうね。さすがにあれはひどかったと思う」
「まあそこで結婚を延期しないで強行した父様もたいがいよね」
「……は?」
寝耳に水だ。
「それだけ彼を逃してやるものか、という気持ちだったんでしょうよ。許してやりなさいな。それに伸びただけで当初の予定は一週間だけだったのだしね。父様も言いづらかったんでしょ。言うなって口留めされていたし」
「言っちゃったね」
「わたしに言う父様が悪いのよ」
姉はしれっとした顔で紅茶のカップを傾ける。
「それにね、恋愛結婚がいいとは限らないわよ。わたしもアンも恋愛結婚したけれど、どちらも相手は長男の跡継ぎだったし、私のところは身分違いで今でも肩身が狭い部分がある。仕事を持っている伯爵家の次男の妻は気楽なものだと思うわ。苦労した姉二人を見ているから、父様はあなたの幸せを考えて結婚相手を決めたのだと思う。人生これから長いんでしょうから、半年ぐらいのことをもうくよくよ言っちゃだめよ? そういうものはどうしようもないんだから、思いっきり怒った後である程度は忘れてしまいなさい」
「そういうもの?」
「人生の先輩の金言だからありがたぁく受け取っておきなさい。あとこのくるみのスコーンのレシピを教えてくださるように料理人に言ってくださる? うちの料理人に作らせたいから」
姉の訪問は嵐に似ている。突然来てはくるくると振り回すだけ振り回していなくなってしまう。
午後の郵便でハウニーコートのカトリーヌ嬢から手紙が来ていた。
『……今から思えば、自転車の転倒から助けてくださった時にアドルファスさんに恋をしていたのです。助け起こしてくださった手がたくましくて、私を覗き込む目は真剣そのもの。恋人のように抱き寄せられたように思えて、それだけで恋に落ちてしまいました。けれどもそれは叶わないことはわかっておりましたから、気づかないふりをしてごまかしていたのかもしれません。ただ、短い御滞在の中で楽しい思い出を作りたかった。私には同世代の友人がいませんでしたからマティルダ様とお話しできたのもうれしくて。
結果的にとても濃い数日を過ごせて、本当に楽しかったのです。だからこそ別れるのが辛く、前夜は眠りにつけませんでした。
別れの時、『行かないで。愛しています』と言うつもりでした。あまりの辛さでそうとしか考えられませんでした。自分自身があんなに大胆に振る舞えるとは今まで知らなかったのです。
マティルダ様には感謝しております。あともう少しで過ちを犯すところでした。あの時、熱にうかれて発作を起こしていた私の目を覚まさせていただき、ありがとうございます。仮にこの恋が叶うことがあったとしても、周囲の賛同は得られなかったことでしょう。幸せは、人々に祝福されるものでなければならないのです。
マティルダ様。私はもう、マティルダ様にもアドルファスさんにもお会いすることはございません。これがご迷惑をおかけしてしまったマティルダ様に対する唯一のことだと思うからです。少なくとも、私が心からお慕いする殿方が他にできるまで、お目にかからないつもりです。
最後にお願いがあります。この告白の手紙は、マティルダ様が読まれた後に燃やしてください。残っていたらいつかアドルファスさんが読んでしまうかもしれませんから。手紙のことも私たち二人の胸のうちで収めていただければ幸いです。
では末永く、お元気で。お返事は必要ありません』
部屋ではパチパチ、と暖炉の火が燃え盛っている。その中に手紙を投げ入れる。文字の書かれた白い紙が灰になるまで見守り、火掻き棒で石炭の塊と混ぜる。
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