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ハウニーコートの恋
思い返せば人差し指に針を刺したような痛みだった
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新婚旅行(ハネムーン)の前半部分についてはとりたてて言うことはない。彼の両親は実際に人格者だったし、彼の兄に当たる人も非常に紳士的で彼よりよほど細かなところに気が付いてくれそうな人だった。その妻である義姉も良妻賢母といった体で非の打ち所がない淑女。子どもたちは可愛い盛りで、私に人見知りする様子もまるで天使のような愛くるしさに溢れている。
彼らはみな私に対して申し訳ないと思っているようで、厳しい視線を注がれることは一度もなかった。
ただ唯一困ったのは、彼と私に同室が用意されたこと。この問題を見ないふりをしていたけれども、さすがに何も言わないわけにもいかず、「どうしましょう」と聞いてみた。そうすると彼は当然のように「寝相が悪いからソファーで寝る」と言い出した。さすがに気を遣ってくれたのだろうかと訝しんだが、なんのことはない、実際に寝相がとても悪かった。どう頑張ったら夜の間に部屋の端から端まで寝転がりながら移動できるの。朝、馬の鬣(たてがみ)ぐらいまで寝ぐせで髪が逆立っていますが。
五日程度の短い滞在を終え、今度は保養地で有名なハウニーコートへ。
最寄りのチェルラ駅からは、我が家の執事が前もって手配してあった宿泊ホテルの従業員が出迎えに出ていた。馬車に乗ってしばらくして、整然とした芝生と庭園に囲まれた大きな半月状の建物が見えてきた。
執事から伯爵家に届いた手紙には慇懃な書きぶりで『奥様も気に入られるかと存じます』とあったけれども、彼は夫以上に私の機微を察している気がする。宿泊する部屋にベッドルームが二つあるところや、大きな窓から海が見えるところが特に。
部屋に荷物を全部入れて、旅装を解いたところで私は彼を振り返った。
「散歩に行ってきてもいいですか?」
「いいんじゃないか」
その言葉に気をよくし、いそいそと愛用の白いパラソルを出していたら後方から「どこまで行く?」と声が飛ぶ。振り返ると彼も帽子とステッキを持っていた。あ、一緒に行くんだ。
「このホテルの近くを回ってみたいです。さっき庭園も見えましたし、そこを目指しませんか?」
「わかった」
彼は自分の腕を取るように促した。若干の躊躇いとともにその腕につかまる。
「急なことでしたし、明日からの予定をきちんと決めていませんでしたね」
「ハウニーコートに行きたがっていたのは君の方だから、君のしたいことをしたらいいだろう」
「アドルファスにはしたいことはありませんか?」
「考えていなかったよ。さてどうしたものかな」
彼はこれ以上のことを答えなかった。
彼の言う通り、ハウニーコートに行きたいと言ったのは私だ。アドルファスが妻に付き合わされていると思ったとしてもおかしくない。とはいえ、私も仏頂面の隣でしっかり旅行を楽しめるわけでもないのだ。
いまさらになって二人の温度差に怖気づいている私がいた。周囲に使用人がいる普段ならともかく、今は正真正銘の二人きり。逃げ場はない。
「アドルファス。無理に付き合ってもらう必要はありませんよ。ここでは私とあなたが新婚夫婦だと知っている人は誰もいませんし、あらためて夫婦らしくしなくてもいいのでは?」
旅行は一人でも楽しめる。小さなガイドブックを片手に歩き回るのも乙だろう。たしかに、実家の母などは淑女らしくないと目くじらを立てて怒り出すだろうけれど。
エスコートしていた彼が立ち止まり、組んだ腕を解いた。
「君が言うならそうしてみようか」
「どういうことですか?」
「結婚する前のように接してみよう。僕はサルマンで、君はマティルダ嬢。偶然会えば話はするけれど二人でお茶をしたこともないんだ。そんな二人がまたも偶然にハウニーコートに出くわした」
彼は自分の手を私へ差し出した。
「マティルダ嬢。よろしければご一緒しても?」
「……茶番ですね」
「君はこういうのを好みそうだと思っていたが? たしか前に何気なく小説の話を振ってみたらかなりの勢いで食いついていた気がするよ」
覚えていない。けれども、話を振られて喜々として話し出す自分の姿だけはありありと思い浮かべられたから嘘でもないのだろう。
「それならもう少しかっこつけてください。その方がときめくではありませんか」
「なんだ、君は僕にときめきたいのか?」
言葉に詰まった。イエスともノーとも言えなかった。
その代わりに彼の手を取る。
「そういえばサルマンさんのご趣味を聞いたことがありませんでしたね」
「基本的に話をしているのは君の方だからね」
「そうでした」
「僕自身は無趣味でね。友人の付き合いでいろいろやることはあるけれど自分からやりたいと思ったことがあまりないから」
「では好きな食べ物は?」
「ハムサンド」
「好きな色は?」
「ヴァイオレットとピーコックグリーン」
「好きな花は?」
「サフラン」
聞きたいことがなくなってしまった。足元の小石がかつんと音を立てて転がる。
庭園についたので「ここにあんな花が」とか「あの花を見たことがありますか」などと言いながら午後を過ごした。
夜はホテルのレストランで晩餐を取る。するとウエイターが明後日にホテルの宿泊者を集めたパーティーを行うことを告げた。保養地のホテルではこのような宿泊者の交流を目的に定期的にパーティーが行われるものだがここも例外ではないらしい。
「どうしましょう? 知人に会うこともないでしょうし」
「知人に会わないからいいんじゃないか? なんにせよ、行った方がよさそうだ。交友関係は広げておくのも手だ」
彼の中では答えは決まっているように見えた。私は持ち上げていたフォークとナイフを下ろした。
「お仕事のことを考えて、ですか?」
「不満なのか?」
二人の間の空気がぴりついたのを肌で感じる。
不満。そういうことではないのだ、私が言いたいのは。
「私たちはどうしたって言葉が足りませんね。私自身でさえもっとうまく気持ちを伝えられたらいいのにともどかしく思うのに、あなたは何も私に聞かないでひとりで決めてしまおうとする。一言でもいいから『いいか』と尋ねてくれればイエスと答えましたよ?」
彼は視線を迷わせながらため息をつく。
「君にとっても悪い話ではないはずだよ。ほかのだれかと話せば気晴らしになる。君なら何も言わなくとも喜んでいるだろうと思っていたよ。ハウニーコートに憧れていただろうし、旅行を楽しむためにこういう機会は逃すべきじゃない。僕の目的はあくまで副産物に過ぎないのだから」
「はい」
「でも次からは君にも聞くようにする。約束するよ」
「ありがとうございます」
和やかな晩餐が戻ってきた。デザートまで気分よく過ごせたのでトータルで言えば楽しい日だった。
私の言葉が届かないわけでないのがわかったからそれだけでも十分すぎる収穫だ。
翌日。空は晴天。私たちはホテルで自転車を借りた。今日はハウニーコート周辺をサイクリングするのだ。
動きやすい服装に着替えた私たちは勇ましく自転車にまたがった。
「マティルダ嬢は自転車に乗ったことが?」
「これでも何度か乗ったことがあるんです。サルマンさんは?」
「一応ある」
気を利かせた従業員から周辺マップを受け取り、二台の自転車は順調に走り出す。ホテルを囲む木立や芝生を抜けたら海岸付近に出る。潮風が吹きこむ白い断崖を臨みながら海岸線をサイクリングできるなんてとても贅沢な経験だ。
マップを眺めながらあそこに行きたい、ここに行こうと決めたのは私で、そのうしろを無言の仏頂面でついてくるのが彼。それで楽しめているのかは疑問だが、それとなく「いい景色ですね」と話しかければ「うん」と景色を眺めながら頷いていたから彼にとっても悪くなかったと信じたい。
道中でサンドイッチを食べた後、海岸線を離れて川の土手を走った。砂利は多いが存外走りやすい。途中で小さな村を見つけて、自転車を引いて歩きながらウインドウショッピングをする。それから屋台で小さなリンゴを買って、木陰の下で齧った。
「意外と二人でいることにも慣れるものですね」
「実際の結婚生活もこういうものかもしれないな。時間が過ぎればなんでも慣れていく」
気持ちよさそうな芝生に横たわった彼は一度目を瞑ったらふたたび目を開けて「君も横になってみるか?」と誘ってきた。
「マティルダ嬢には難しいかもしれないな。はしたないことはしたくないだろう?」
「いいえ」
自分の発言を証明するように隣で横たわってみせる。彼は喉の奥でくつくつと笑った。
「どうする? このまま昼寝でもしてみる?」
「望むところです。ただ私は熟睡してしまうので起こしてはあげられませんよ」
「それは困った。また次の機会にしようか」
彼は私の手をとって身体を引き起こした。自転車がまた走り出す。
何時間にもなるサイクリングで疲労し、時刻も夕方に差し迫っていたのでホテルに帰ることにした。川の土手を漕いでいた時に、後方で「きゃあ」という叫び声とガシャン、と何かが壊れたような音が響く。
「なんでしょうか?」
「行ってみよう」
自転車を止め、音のした方角へ歩いた。すると土手から落ちるような形で自転車が転倒しており、傍で女性が蹲っていた。
彼が女性を助け起こした。
「大丈夫ですか、レディ」
「ええ、申し訳ありません。ありがとうございます……」
彼の腕の中にいる彼女の顔を見て、はっとなった。
土と泥で少々汚れてはいたけれど、とても美しい人だった。小柄で儚げで守ってあげたくなる雰囲気を持つ人。猫のような緑の瞳に、細い首筋、華奢な身体つき。言葉の操り方ひとつみても、上品でかなりの身分の令嬢だということがわかる。
「立てますか?」
「ええ。おそらく……」
彼女は彼に手を取られながらこわごわと立ち上がる。それを自分の目で確認してから安堵の息をついた。
「宿泊はどこですか?」
「ええと、たしか……」
彼女は私たちと同じ名のホテルを告げた。聞いた途端、彼は笑顔になる。
「よかった。方向が同じですね。お送りしましょう。マティルダ嬢。悪いが先に行って従業員を呼んできてもらえるか?」
「……わかりました」
私は自転車にまたがって走り出した。背中からはひたすらに謝罪する彼女と固辞する彼のやりとりが聞こえて来た。あまり見ていたい光景でなかったから彼の指示は助かった。……助かったのに、胸がもやもやする。嫌な予感もしたし、事実、それが的中することになる。
彼らはみな私に対して申し訳ないと思っているようで、厳しい視線を注がれることは一度もなかった。
ただ唯一困ったのは、彼と私に同室が用意されたこと。この問題を見ないふりをしていたけれども、さすがに何も言わないわけにもいかず、「どうしましょう」と聞いてみた。そうすると彼は当然のように「寝相が悪いからソファーで寝る」と言い出した。さすがに気を遣ってくれたのだろうかと訝しんだが、なんのことはない、実際に寝相がとても悪かった。どう頑張ったら夜の間に部屋の端から端まで寝転がりながら移動できるの。朝、馬の鬣(たてがみ)ぐらいまで寝ぐせで髪が逆立っていますが。
五日程度の短い滞在を終え、今度は保養地で有名なハウニーコートへ。
最寄りのチェルラ駅からは、我が家の執事が前もって手配してあった宿泊ホテルの従業員が出迎えに出ていた。馬車に乗ってしばらくして、整然とした芝生と庭園に囲まれた大きな半月状の建物が見えてきた。
執事から伯爵家に届いた手紙には慇懃な書きぶりで『奥様も気に入られるかと存じます』とあったけれども、彼は夫以上に私の機微を察している気がする。宿泊する部屋にベッドルームが二つあるところや、大きな窓から海が見えるところが特に。
部屋に荷物を全部入れて、旅装を解いたところで私は彼を振り返った。
「散歩に行ってきてもいいですか?」
「いいんじゃないか」
その言葉に気をよくし、いそいそと愛用の白いパラソルを出していたら後方から「どこまで行く?」と声が飛ぶ。振り返ると彼も帽子とステッキを持っていた。あ、一緒に行くんだ。
「このホテルの近くを回ってみたいです。さっき庭園も見えましたし、そこを目指しませんか?」
「わかった」
彼は自分の腕を取るように促した。若干の躊躇いとともにその腕につかまる。
「急なことでしたし、明日からの予定をきちんと決めていませんでしたね」
「ハウニーコートに行きたがっていたのは君の方だから、君のしたいことをしたらいいだろう」
「アドルファスにはしたいことはありませんか?」
「考えていなかったよ。さてどうしたものかな」
彼はこれ以上のことを答えなかった。
彼の言う通り、ハウニーコートに行きたいと言ったのは私だ。アドルファスが妻に付き合わされていると思ったとしてもおかしくない。とはいえ、私も仏頂面の隣でしっかり旅行を楽しめるわけでもないのだ。
いまさらになって二人の温度差に怖気づいている私がいた。周囲に使用人がいる普段ならともかく、今は正真正銘の二人きり。逃げ場はない。
「アドルファス。無理に付き合ってもらう必要はありませんよ。ここでは私とあなたが新婚夫婦だと知っている人は誰もいませんし、あらためて夫婦らしくしなくてもいいのでは?」
旅行は一人でも楽しめる。小さなガイドブックを片手に歩き回るのも乙だろう。たしかに、実家の母などは淑女らしくないと目くじらを立てて怒り出すだろうけれど。
エスコートしていた彼が立ち止まり、組んだ腕を解いた。
「君が言うならそうしてみようか」
「どういうことですか?」
「結婚する前のように接してみよう。僕はサルマンで、君はマティルダ嬢。偶然会えば話はするけれど二人でお茶をしたこともないんだ。そんな二人がまたも偶然にハウニーコートに出くわした」
彼は自分の手を私へ差し出した。
「マティルダ嬢。よろしければご一緒しても?」
「……茶番ですね」
「君はこういうのを好みそうだと思っていたが? たしか前に何気なく小説の話を振ってみたらかなりの勢いで食いついていた気がするよ」
覚えていない。けれども、話を振られて喜々として話し出す自分の姿だけはありありと思い浮かべられたから嘘でもないのだろう。
「それならもう少しかっこつけてください。その方がときめくではありませんか」
「なんだ、君は僕にときめきたいのか?」
言葉に詰まった。イエスともノーとも言えなかった。
その代わりに彼の手を取る。
「そういえばサルマンさんのご趣味を聞いたことがありませんでしたね」
「基本的に話をしているのは君の方だからね」
「そうでした」
「僕自身は無趣味でね。友人の付き合いでいろいろやることはあるけれど自分からやりたいと思ったことがあまりないから」
「では好きな食べ物は?」
「ハムサンド」
「好きな色は?」
「ヴァイオレットとピーコックグリーン」
「好きな花は?」
「サフラン」
聞きたいことがなくなってしまった。足元の小石がかつんと音を立てて転がる。
庭園についたので「ここにあんな花が」とか「あの花を見たことがありますか」などと言いながら午後を過ごした。
夜はホテルのレストランで晩餐を取る。するとウエイターが明後日にホテルの宿泊者を集めたパーティーを行うことを告げた。保養地のホテルではこのような宿泊者の交流を目的に定期的にパーティーが行われるものだがここも例外ではないらしい。
「どうしましょう? 知人に会うこともないでしょうし」
「知人に会わないからいいんじゃないか? なんにせよ、行った方がよさそうだ。交友関係は広げておくのも手だ」
彼の中では答えは決まっているように見えた。私は持ち上げていたフォークとナイフを下ろした。
「お仕事のことを考えて、ですか?」
「不満なのか?」
二人の間の空気がぴりついたのを肌で感じる。
不満。そういうことではないのだ、私が言いたいのは。
「私たちはどうしたって言葉が足りませんね。私自身でさえもっとうまく気持ちを伝えられたらいいのにともどかしく思うのに、あなたは何も私に聞かないでひとりで決めてしまおうとする。一言でもいいから『いいか』と尋ねてくれればイエスと答えましたよ?」
彼は視線を迷わせながらため息をつく。
「君にとっても悪い話ではないはずだよ。ほかのだれかと話せば気晴らしになる。君なら何も言わなくとも喜んでいるだろうと思っていたよ。ハウニーコートに憧れていただろうし、旅行を楽しむためにこういう機会は逃すべきじゃない。僕の目的はあくまで副産物に過ぎないのだから」
「はい」
「でも次からは君にも聞くようにする。約束するよ」
「ありがとうございます」
和やかな晩餐が戻ってきた。デザートまで気分よく過ごせたのでトータルで言えば楽しい日だった。
私の言葉が届かないわけでないのがわかったからそれだけでも十分すぎる収穫だ。
翌日。空は晴天。私たちはホテルで自転車を借りた。今日はハウニーコート周辺をサイクリングするのだ。
動きやすい服装に着替えた私たちは勇ましく自転車にまたがった。
「マティルダ嬢は自転車に乗ったことが?」
「これでも何度か乗ったことがあるんです。サルマンさんは?」
「一応ある」
気を利かせた従業員から周辺マップを受け取り、二台の自転車は順調に走り出す。ホテルを囲む木立や芝生を抜けたら海岸付近に出る。潮風が吹きこむ白い断崖を臨みながら海岸線をサイクリングできるなんてとても贅沢な経験だ。
マップを眺めながらあそこに行きたい、ここに行こうと決めたのは私で、そのうしろを無言の仏頂面でついてくるのが彼。それで楽しめているのかは疑問だが、それとなく「いい景色ですね」と話しかければ「うん」と景色を眺めながら頷いていたから彼にとっても悪くなかったと信じたい。
道中でサンドイッチを食べた後、海岸線を離れて川の土手を走った。砂利は多いが存外走りやすい。途中で小さな村を見つけて、自転車を引いて歩きながらウインドウショッピングをする。それから屋台で小さなリンゴを買って、木陰の下で齧った。
「意外と二人でいることにも慣れるものですね」
「実際の結婚生活もこういうものかもしれないな。時間が過ぎればなんでも慣れていく」
気持ちよさそうな芝生に横たわった彼は一度目を瞑ったらふたたび目を開けて「君も横になってみるか?」と誘ってきた。
「マティルダ嬢には難しいかもしれないな。はしたないことはしたくないだろう?」
「いいえ」
自分の発言を証明するように隣で横たわってみせる。彼は喉の奥でくつくつと笑った。
「どうする? このまま昼寝でもしてみる?」
「望むところです。ただ私は熟睡してしまうので起こしてはあげられませんよ」
「それは困った。また次の機会にしようか」
彼は私の手をとって身体を引き起こした。自転車がまた走り出す。
何時間にもなるサイクリングで疲労し、時刻も夕方に差し迫っていたのでホテルに帰ることにした。川の土手を漕いでいた時に、後方で「きゃあ」という叫び声とガシャン、と何かが壊れたような音が響く。
「なんでしょうか?」
「行ってみよう」
自転車を止め、音のした方角へ歩いた。すると土手から落ちるような形で自転車が転倒しており、傍で女性が蹲っていた。
彼が女性を助け起こした。
「大丈夫ですか、レディ」
「ええ、申し訳ありません。ありがとうございます……」
彼の腕の中にいる彼女の顔を見て、はっとなった。
土と泥で少々汚れてはいたけれど、とても美しい人だった。小柄で儚げで守ってあげたくなる雰囲気を持つ人。猫のような緑の瞳に、細い首筋、華奢な身体つき。言葉の操り方ひとつみても、上品でかなりの身分の令嬢だということがわかる。
「立てますか?」
「ええ。おそらく……」
彼女は彼に手を取られながらこわごわと立ち上がる。それを自分の目で確認してから安堵の息をついた。
「宿泊はどこですか?」
「ええと、たしか……」
彼女は私たちと同じ名のホテルを告げた。聞いた途端、彼は笑顔になる。
「よかった。方向が同じですね。お送りしましょう。マティルダ嬢。悪いが先に行って従業員を呼んできてもらえるか?」
「……わかりました」
私は自転車にまたがって走り出した。背中からはひたすらに謝罪する彼女と固辞する彼のやりとりが聞こえて来た。あまり見ていたい光景でなかったから彼の指示は助かった。……助かったのに、胸がもやもやする。嫌な予感もしたし、事実、それが的中することになる。
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