女伯イゾルデ

川上桃園

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第16話

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 小柄な道化は一思いに麦酒を煽った。

「おれさまは女伯のお付き! 美しきトゥアーの女伯のことは何でも知ってる! さあさあみんな、話を聞きたいかい?」

 赤ら顔で空になったジョッキを振り回す。彼は器用にテーブルからテーブルへ飛び移り、ステップ踏んだ。それを周りにいた男たちが囃したてる。

「おうおう聞こうじゃねえか! お前が仕える女伯さまのことをさ。何せ近くで見たことがねえんだが、大層綺麗なお方だという話は聞いてるぞ!」

 ……本当はすぐ近くにいるのだけれど。
 道化のいる集団から少し離れた場所にある小さなテーブルに腰かけたわたしは澄ました顔で麦酒に口をつける。琥珀色の液体は悩ましげに揺れた。
 三日目の教会での儀式を一通り済ませたら、教会からは麦酒が安価で振る舞われる。麦酒とは元々巡礼の際に旅人の渇きを癒し、断食中の修道士たちの滋養強壮に使われていた。もちろん、庶民にとっては娯楽の味である。最近では教会以外でも作られるようになったが、やはり混ぜ物が少なく、品質が安定しているので、教会で直に作られた麦酒が一番の人気だ。資金調達にも一役買っているのだという。
 この即席の酒場も教会の庭にあるが、そんなことはお構いなしに男も女も関係なくぐいぐいと麦酒を煽っている。

「あら、こりゃまたえらい別嬪だなあ! どうだい、俺と飲まねえか」

 向かい側にどんとジョッキが置かれ、ひげの生やした男が居座った。

「褒めていただけるのは嬉しいのだけれど……連れがいるの」
「へえ、どいつ?」

 指差した先の道化を一瞥した男はせせら笑った。

「あんなやつより、こっちにすりゃいい。ここで一人寂しく飲むよりましだぜ」

 相手の頬は上気している。これはもう完全にお酒が入っている。こうなると面倒だ。

「酔っているのでしょう? 見ず知らずの女に声をかけるだなんて、不用心ですよ。……そうね、わたし、待ち人がいるのです。わかってくれるかしら?」

 んあ、と呂律の回らないらしい口を動かして男は何か言おうとしたが、顔つきからして、怒っているらしい、ということは読み取れた。
 どうあしらおうか迷っていると、後ろ側からそっと手を引かれた。

「ええ、わかりますよ。私がその待ち人なのですから」

 聞き覚えのある甘い声音。本当は、わたしには待ち人などいないことぐらい知っているくせに、堂々と言い切ってみせるこの男の正体は。

「おや、こりゃオーウェンの旦那。お久しぶりでございやす」

 先ほどまで誘おうとしていた男が態度を一変させて、ぺこりと頭を下げた。知り合いのようだった。

「ああ、久しぶりだな。お前は相変わらず、酒には目がないようだな」
「へ、へえ。何しろ、教会の麦酒が味わえるのはこの時期だけなんで。……あのう、ところでそちらのご婦人は……」

 こちらに二対の視線が集まってくるのを感じていたが、わたしはオーウェンに手を取られたままそっぽを向いた。
 オーウェンが横で微笑む気配がした。

「名を口にさえできないぐらい大事な方だ」

 本当に嘘つき。自分のつい最近の言動を振り返るべきだろう。
 男は目を丸くした後、にやにや笑って去って行った。男の姿が教会の門から出ていくのを見極めると、わたしは手を振り払った。

「随分とタイミングのいいこと。ここで会ったのは偶然でしょうか?」

 彼はゆっくりと頭を振った。

「偶然と言えば偶然ですが。いえ、そうでもありませんね。女伯さまが四日目五日目と町に出られることは知っておりましたから。あわよくば、と」
「予想が当たって何より」

 町だって広いのに。人だって大勢いるのに。……行動は読まれている、ということなのか。

「女伯さまが町に出られるならば、従者が必要でしょう。女伯さまは、今回あの道化を使われたようですが」

 道化は今も人の輪の中心で麦酒を一気飲みしている。もはや足元が覚束ないようで、へろへろとテーブルの端から端を往復するのみ。しばらく使い物にはならないだろう。
 わたしは、深く溜息をつくしかしようがなかった。

「道化を連れてきてしまったのは、わたしの落ち度です。こうも酒を煽るとは……そこまでして忘れたいことでもあるのでしょうか」
「『酒は一時的な忘却を導く』、と」

 ええ。差し出された手に自らの手を添えて立ち上がる。

「それで? 先ほどの男はあなたの知り合いのようですね」
「はい。私の手の者のうちの一人です。酒以外ではなかなかできる男です」

 この男の「知り合い」の範囲は広すぎる。傍目には酔っ払いにしか見えなかったが。わたしは密かに溜息をつく。
 ふと自分の手、オーウェンの手を見、緩慢に視線を上げていく。彼の青い瞳とぶつかるにつけ、既視感を覚える。この瞳の高さは……。
 じいっと見入ってしまううち、顔まで近づけてしまっているのに気付き、それを振り切るようにジョッキをテーブルに残して歩き出す。誤魔化すために口を開く。

「この数日間、成果はあったのでしょうね」
「もちろん。様々な知り合いに頼って、多くの情報を得てまいりました。……これと正規の調査隊からの報告を聞けば、おそらく答えは自ずと出てまいりましょう」

 答え。その言葉には胸を震わせる何かがある。答えが出てきてしまったら。すべてを知ってしまったら、わたしがどんな決断を下すのか。

「どうしてでしょうね。今回は、殊更に嫌な予感がするのです。……わたしが知りたくもない事実が眠っているのかもしれないと、感じています」

 それでもオーウェンは、巻いた羊皮紙の束を差し出した。

「それでも女伯さまは知らなければならない。そうお考えなのでしょう」

 きっと今、わたしの手はわずかに震えている。ただの予感だけで、こうも心慄くのだ。

「あなたは残酷な男です。余計なことばかり口にする」

 さっと束を取る。動揺を微塵も感じさせないように。

「叔父様の容体を聞きましたか」

 彼の顔がかげる。一通りは、と口少なに返す。

「喉をついたときの嫌な感触ばかりが、今も鮮やかなままです……」

 唇の端が上がったけれど、それはいつも通りの笑みにはならない。

「城に上がった当時から知っているお方であっただけに……これからも忘れはしないでしょう」

 今年の祈年祭は、おそらく今までもこれからも、一番思い出深いものとなる。それだけのことがあったのだ。叔父の言葉。オーウェンの言葉。翻弄されるがままだったわたしの姿。……もう過去のものであるかのように思い出される。

「わたしにとっては腹立たしいことでもあるけれど……」

 そこで口を閉じる。眩暈がして、体がふらつく。視界が滲んだ。近くにあった壁にすがりつく。昼間から悪酔いしてしまったのかもしれない。
 皮肉めいた笑みが浮かんでくる。

「道化より、忘れたいことがあったのはわたしの方だったようですね。……城に帰りましょう。オーウェン、送って頂戴」
「はい」

 彼の声が上から聞こえる。見上げれば、滲んだ視界の向こうに見慣れた人影がある。わたしがすがりついたのはオーウェンだった。離れたかったが、体の自由が利かない。それどころか、座り込んでしまわぬよう、気づけば彼の服を握りしめている。
 彼はわたしの情けない姿をどう思うのだろう。自分が惨めに思えてきて、顔を伏せる。……これではわたしが、オーウェンに抱き付いているようではないか!

「大丈夫ですか」
「……あなたの目にはそう見えるの? その目は節穴かしら?」

 くすりと、彼が笑っている呼気を感じる。いつもなら、睨んで黙らせてあげるのに、今日ばかりはそんな余裕を持てそうにない。
 悔しい。頼りたくないのに、頼ってしまうのは、自分の甘さだ。

「わたし、あなたの目が嫌いだわ。あなたの目はわたしの弱いところばかり見ているような気がするのだもの。嫌い……本当に嫌いだわ」
「嫌いならば、どうしてお傍に置かれるのですか」

 優しい声が降ってくる。ああ、いけない。どうにも頭がぼうっとして、いろんな考えがぐちゃぐちゃと混ざっていく。
 手放したいけれど、どうやったって手放せないから。
 不意に浮かんできたこのことを、口に出したのかはとんとわからない。気づけばふわりとした感触があって、それにつられるように顔を埋めただけ。
 そういえば、道化はこう言っていたのだったっけ。
 それは運命さ。
 だったら、逃げても逃げても逃げられないこともまた運命と呼ぶのだろうか?


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