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第15話
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四日目。城の朝は白い靄がかかっていた。夕方から夜にかけて急激に冷え込んだせいだ。季節が逆戻りしたようだが、これも珍しいことではない。
ドレスの裾が靄を割いていく。
「叔父様」
わたしは囁くというよりも言葉が思わず零れていた。
晴れきらない靄に日が差し込む中、叔父はぽっかりと目を開けていた。寝台の上で体を起こし、わたしに微笑むのでもなく、かといって睨んでいるわけでもない……柔らかな顔つきをしていた。なぜかわたしは叔父を見て、宗教画の聖人を思い出した。――神を思い、この世界のどこも見ていない目。
叔父を叔父たらしめていた何かが丸々削げ落ちていた。
「叔父様」
堪らずわたしは再び呼ぶ。
叔父は首を傾げ、ぱくぱくと口を開いていたが、やがてわずかに眉をひそめた後、手元にあった紙に羽ペンで文字を綴る。筆談用にと、叔父の状態を聞いたとき、わたしが用意させたものだった。
――どのくらい、眠っていたのか。
「倒れたのが祭りの一日目。今はもう四日目の朝です。その様子ですと、もう大丈夫なようですね。……叔父様、もうご自分でおわかりのことでしょうが、声はもう出ません。足も再び歩けるようになる可能性は低いと聞いています。まずはそのこと、把握してください」
わたしの発言は決して軽いものではないはずなのに、叔父は静かに耳を傾けていた。動揺もなく、叔父の心は凪いでいるようだった。
叔父の金の髪が肩口から零れ落ちた。彫像のように滑らかな肌と造形は、この期に及んでさらに凄みを増しているようだった。
「あなたを傷つけたオーウェンは城の一室に閉じ込めております。ご安心を。あとで教皇猊下からの使者が来ると思いますので、ご了承ください」
伝えることは伝えた。部屋から出ていこうと、足を踏み出そうとすれば、ベッドから伸びた手がわたしの腕を捉える。
「……叔父様、お放しください」
叔父の手はひんやりとして、身震いを覚えるものだった。けれど、わたしを見つめる瞳は正反対のものを宿している。もう片方の手で、わたしの顔を掠めるようにして撫でていく。その仕草は、ほんの少女のころにわたしが出会った、美貌の聖職者を思い出した。もうすでに遠い昔のことだと思っていたのに……欠片はまだ残っていたのだろうか。
わたしはかつての叔父の面影を振り払うしかなかった。なぜなら、他にしようがないのだ。戻れない過去を想うのに、疲れ果ててしまう。けれど、叔父はそれを許してくれない。逃げようとするわたしを逃さぬように、腕に細く尖った爪がたてられた。わたしの肌に叔父の爪が埋まっていく。綺麗な爪がわたしの血で赤く染まっていった。わたしは呆然と叔父の顔を見詰める。叔父は一瞬、白い肌に浮かんだ血に目をやると、実に満足げに目を細めた。
やがて、叔父はゆっくりと表情を変えながら、小さく口を開く。その声は二度と聞くことはできないだろうが、そして叔父とてわたしに届かなくとも構わないのだろうが……きっとこう言いたかったのだ。
――どうしてあなただけは手に入らないのだろうね。
微笑みとも哀しみとも取れぬ顔には、わたしへの問いかけが含まれている。わたしが知らないだけで叔父はいつもわたしの返事を待っていたのだろうか。いつだって冷たい姪は連れない態度ばかりだったけれど。
「どうしてでしょうね、叔父様?」
はぐらかしているのではない。わたしにもわからなかったのだ。わたし自身の心などいつも放置して生きてきたのだから。
「わたしも知りたいわ。……さ、叔父様。ゆっくり怪我を治していてくださいね」
今度こそ、わたしは部屋を出て、静かに扉を閉めた。
五日間にも及ぶ祈年祭。一日目と二日目は貴族たちのためのもの、三日目は教会のための者、四日目と五日目は庶民のためのものだとされている。本当の意味での活気が生まれるのはこれからなのだ。
城にいる客人たちは皆この日に帰っていく。城での大規模な宴はこの先ほとんど行われない。叔父のことがなければ、普段城で働いている者にも代わる代わる暇を与え、外に出してやるのだが、マクスウェルの進言もあり、今日は控えられている。彼にも一応、オーウェンが城外にいることは知らせてあったので、彼なりの配慮なのかもしれない。彼の顔をよく知る城内の者と鉢合わせする可能性も無きにしも非ず、なのだ。
朝と打って変わって、昼には天高く陽が照る。清涼な風が頬を撫でていくのを感じれば、風の精の悪戯なのだという。彼らは春の日に浮かれるお調子者。風と共に人の傍に駆け寄っては、髪を乱し、裾を揺らしていく。きゃっきゃっと軽やかな笑い声を立てながら、驚く人々を尻目に、子供のように駆けていく。
手に持っていた書物が風で一枚二枚と際限なくめくられていく。……読んでいる最中だったのに。わたしは諦めて書物を閉じた。
「このようなときには殊更落ち着かなければならないというのに。……何も手につかなくなるのは問題でしょうね」
ここは一つの分岐点。採る道ひとつで、何かが変わるのだ。周囲が決断を待っている。立ち止まって吟味するべきなのだ。
「では、外に出てみればいいじゃないか! 芸人たちがわんさかいるぞ! 火を噴く男に、玉乗り女、未来を当てる老婆だ! 気分転換には最高さ!」
道化は前触れもなく現われる。にゅっと顔を覗き込み、にやっと笑った。小柄な体を跳ねさせて、心底楽しそうに手招きしてくる。
「今だけ今だけ。留守はベラに任せておけばいい。女伯の衣を脱ぎ捨てれば、君はどこにでもいる町娘! 紛れてしまえば誰も気づかぬ。城の者も見知らぬ顔さ!」
「それでも気づく人はいるのではなくて?」
あたりまえさね。道化は近くの机に飛び乗って、腕を組む。腰を曲げ、わたしに顔を近づけると、ふと真面目な顔をした。彼の瞳の色がひたすら深くなる。
「……それは運命さ」
わたしは、自分の身に絡まれている無数の糸を見たような気がした。ときに締め付け、ときに切れていく。引っ張られるがままにしか動けない人生。
いいわ、と口をついて言葉が出てくる。
「今日のお供はあなたよ。……しっかり役目を果たしてくれるわね?」
もちろんでございます。道化の言葉を後ろに、わたしは扉を開けた。
ドレスの裾が靄を割いていく。
「叔父様」
わたしは囁くというよりも言葉が思わず零れていた。
晴れきらない靄に日が差し込む中、叔父はぽっかりと目を開けていた。寝台の上で体を起こし、わたしに微笑むのでもなく、かといって睨んでいるわけでもない……柔らかな顔つきをしていた。なぜかわたしは叔父を見て、宗教画の聖人を思い出した。――神を思い、この世界のどこも見ていない目。
叔父を叔父たらしめていた何かが丸々削げ落ちていた。
「叔父様」
堪らずわたしは再び呼ぶ。
叔父は首を傾げ、ぱくぱくと口を開いていたが、やがてわずかに眉をひそめた後、手元にあった紙に羽ペンで文字を綴る。筆談用にと、叔父の状態を聞いたとき、わたしが用意させたものだった。
――どのくらい、眠っていたのか。
「倒れたのが祭りの一日目。今はもう四日目の朝です。その様子ですと、もう大丈夫なようですね。……叔父様、もうご自分でおわかりのことでしょうが、声はもう出ません。足も再び歩けるようになる可能性は低いと聞いています。まずはそのこと、把握してください」
わたしの発言は決して軽いものではないはずなのに、叔父は静かに耳を傾けていた。動揺もなく、叔父の心は凪いでいるようだった。
叔父の金の髪が肩口から零れ落ちた。彫像のように滑らかな肌と造形は、この期に及んでさらに凄みを増しているようだった。
「あなたを傷つけたオーウェンは城の一室に閉じ込めております。ご安心を。あとで教皇猊下からの使者が来ると思いますので、ご了承ください」
伝えることは伝えた。部屋から出ていこうと、足を踏み出そうとすれば、ベッドから伸びた手がわたしの腕を捉える。
「……叔父様、お放しください」
叔父の手はひんやりとして、身震いを覚えるものだった。けれど、わたしを見つめる瞳は正反対のものを宿している。もう片方の手で、わたしの顔を掠めるようにして撫でていく。その仕草は、ほんの少女のころにわたしが出会った、美貌の聖職者を思い出した。もうすでに遠い昔のことだと思っていたのに……欠片はまだ残っていたのだろうか。
わたしはかつての叔父の面影を振り払うしかなかった。なぜなら、他にしようがないのだ。戻れない過去を想うのに、疲れ果ててしまう。けれど、叔父はそれを許してくれない。逃げようとするわたしを逃さぬように、腕に細く尖った爪がたてられた。わたしの肌に叔父の爪が埋まっていく。綺麗な爪がわたしの血で赤く染まっていった。わたしは呆然と叔父の顔を見詰める。叔父は一瞬、白い肌に浮かんだ血に目をやると、実に満足げに目を細めた。
やがて、叔父はゆっくりと表情を変えながら、小さく口を開く。その声は二度と聞くことはできないだろうが、そして叔父とてわたしに届かなくとも構わないのだろうが……きっとこう言いたかったのだ。
――どうしてあなただけは手に入らないのだろうね。
微笑みとも哀しみとも取れぬ顔には、わたしへの問いかけが含まれている。わたしが知らないだけで叔父はいつもわたしの返事を待っていたのだろうか。いつだって冷たい姪は連れない態度ばかりだったけれど。
「どうしてでしょうね、叔父様?」
はぐらかしているのではない。わたしにもわからなかったのだ。わたし自身の心などいつも放置して生きてきたのだから。
「わたしも知りたいわ。……さ、叔父様。ゆっくり怪我を治していてくださいね」
今度こそ、わたしは部屋を出て、静かに扉を閉めた。
五日間にも及ぶ祈年祭。一日目と二日目は貴族たちのためのもの、三日目は教会のための者、四日目と五日目は庶民のためのものだとされている。本当の意味での活気が生まれるのはこれからなのだ。
城にいる客人たちは皆この日に帰っていく。城での大規模な宴はこの先ほとんど行われない。叔父のことがなければ、普段城で働いている者にも代わる代わる暇を与え、外に出してやるのだが、マクスウェルの進言もあり、今日は控えられている。彼にも一応、オーウェンが城外にいることは知らせてあったので、彼なりの配慮なのかもしれない。彼の顔をよく知る城内の者と鉢合わせする可能性も無きにしも非ず、なのだ。
朝と打って変わって、昼には天高く陽が照る。清涼な風が頬を撫でていくのを感じれば、風の精の悪戯なのだという。彼らは春の日に浮かれるお調子者。風と共に人の傍に駆け寄っては、髪を乱し、裾を揺らしていく。きゃっきゃっと軽やかな笑い声を立てながら、驚く人々を尻目に、子供のように駆けていく。
手に持っていた書物が風で一枚二枚と際限なくめくられていく。……読んでいる最中だったのに。わたしは諦めて書物を閉じた。
「このようなときには殊更落ち着かなければならないというのに。……何も手につかなくなるのは問題でしょうね」
ここは一つの分岐点。採る道ひとつで、何かが変わるのだ。周囲が決断を待っている。立ち止まって吟味するべきなのだ。
「では、外に出てみればいいじゃないか! 芸人たちがわんさかいるぞ! 火を噴く男に、玉乗り女、未来を当てる老婆だ! 気分転換には最高さ!」
道化は前触れもなく現われる。にゅっと顔を覗き込み、にやっと笑った。小柄な体を跳ねさせて、心底楽しそうに手招きしてくる。
「今だけ今だけ。留守はベラに任せておけばいい。女伯の衣を脱ぎ捨てれば、君はどこにでもいる町娘! 紛れてしまえば誰も気づかぬ。城の者も見知らぬ顔さ!」
「それでも気づく人はいるのではなくて?」
あたりまえさね。道化は近くの机に飛び乗って、腕を組む。腰を曲げ、わたしに顔を近づけると、ふと真面目な顔をした。彼の瞳の色がひたすら深くなる。
「……それは運命さ」
わたしは、自分の身に絡まれている無数の糸を見たような気がした。ときに締め付け、ときに切れていく。引っ張られるがままにしか動けない人生。
いいわ、と口をついて言葉が出てくる。
「今日のお供はあなたよ。……しっかり役目を果たしてくれるわね?」
もちろんでございます。道化の言葉を後ろに、わたしは扉を開けた。
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