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第二章 なぜ私ではないのか
何度分裂しても調和によって修復されていく世界
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龍よ、とヘイムは鏡に映る龍身を見つめた。その時に自分を見つめているという意識がなかったことに衝撃を受けた。
ここの段階まで来たのか、と。龍身であると言える左半身の色は中心から右半身へとますます広がっている。
すぐには自分でもどのぐらい龍身が進んでいるのか思い出し考えないことには分からないことであった。
しかしヘイムとしては失われているという感覚は一切なかった。いや、そういう意識はこの身になってからまず無くなったのかもしれない。
自分は龍身であり、龍となるものである。もはや自分は龍なのだ、と。
このまま無私の境地で以って受入れ、いつしかこのようなことすら考えなくなることは分かり切っている。
龍となったら龍となる以前のことなど忘れてしまう。それはなにも自分だけではなく周りのものもそうである。
人々もみなここにいる自分のことを忘れる。それが龍の信仰であり正しきことなのだ。
自分は人ではなく龍となる。人であったことは失われなくてはならない。そのために人々は自分を崇め戦い、その命を捧げているのだ。
……ただ一人だけを除いて。
「ヘイム様? ちょっとヘイム? 座ったまま寝てるんじゃないわよ」
肩を叩かれたことでヘイムは自分がいつの間にか瞼を閉じたことを知り開くとそこには自分とシオンがいた。鏡を見ると龍身はそこにはいなかった。私がそこにいる。
「すまぬな。もしも自分が豆を喉に詰まらせたら、と想像したら苦しくて死んだ気持ちになってしまってな。シオンよ、良く生きておった」
「うん? そんなことありましたっけ」
「こいつ……」
ヘイムはシオンの声がお惚けでも嘘でもないことに若干怖いものを感じた。本気で忘れているのだろう。
この女の思い込みの強烈さにはときたま戦慄を覚えることもあり、それ以上触れるのは経験上やめにした。怖いし。
「もう時間か? まだ余裕はあると思うが」
「それはあなたのでしょう。私は先に行かなければならないのですから着替えるのは早めにするということですよ」
そうだったなとヘイムは立ち上がり正装に着替えるために隣の部屋へと向かった。
思えば、とヘイムはシオンの手が身体に触れるたびに自分にこうするのは最近ではシオンだけになったなと思った。
龍身の身体に触れるのは畏れ多い、というごく一般的な人々の敬心をヘイムは汲み取りごく一部の女官にそれを任せているものの、限界が近づいてきていた。
完全な龍身となりつつあるこの身に触れることができるのはこの先は誰となるのか。
「また痩せましたか? もうこれ以上は駄目ですからね。いまは細いで済みますがこれから先はガリになりますよ。それはかえってブスですからね。人に不安感を抱かせる体型というのは美しくありませんよ」
文句を言いながらシオンはヘイムの服を脱がせそれから今日の衣装を羽織らせはじめた。そうシオンは別である。
完全に二人の場合や興奮した時にはシオンは自分を昔ながらの呼び名を使うとヘイムは分かっていた。
もしかしたらシオンは無意識に使い分けているかもしれないが、それでも良かった。その瞬間だけ自分は自分であることを思い出すと。
間違いなく最後まで自分のことを覚えているのはシオンであろうとヘイムはいつも思っている。
少しずつ変わっていき自分でもその変化に気づかずにいつしかシオンは自分に向かって「龍身様」と呼ぶ日が来るだろう。
それは決定的なものとなるであろうが、その時にはもう自分の意識などこの世に塵一つ残さずに消え去り、龍の意思のもと自分は生きているのだとヘイムは想像する。
考えずとも分かり切っていることを考えながらそこに引っ掛かりがあった。だからこそ考えていた。もう一人いないのかと?
そのもう一人とはシオンよりも自分の名を覚えているもののことを。それどころかこの身が龍となっても認めないだろうと。
ヘイムは重たげに頭を振るい何かを落そうとするも落ちるはずもなかった。あのジーナという存在を。
奴は拒絶している。龍を、この世界を、理を。外からきた余所者。決して自分のことを龍と呼ばないもの。
「この紺色のは重くない色でいいですね。今日の空模様では一段と映えるでしょう」
「表彰式は別に妾のお披露目会とかじゃないぞ」
「みんなあなたのことを注視するのから一緒ですって」
自分のことか、とヘイムはそのお気楽な言葉に内心苦笑いをする。しかしそれは事実である。これから自分は龍身という存在として兵の前に立ち労いの言葉を掛けるこの儀式。
そういった場に立てば不思議なほど自分は忘我の境地に立ち龍身として振る舞えるのだが、そのままいってしまったとしたら?
もうこちらに戻らずにずっとそのままでいられたら……そうヘイムに帰らずに龍身として意識も捧げてしまえば……
「ヘイム、終わりましたよ。鏡の前で一回転して自分で見てください。くるっとしてどうぞ」
呼ばれたことによってヘイムは意識の水の中から顔を出し息を吸い、回りだした。名を呼ばれる限り自分はまだ失われない、まだ失う時ではない。
「ほぉ、今回のは中々にかっこいいな」
「かっこいいとは何ですか。綺麗だとか可愛いだとか言いなさい」
「シオンがいつも言われている褒め言葉だぞ。何が気に入らないのか」
「私はそういう風には着付けていませんよ。あなたに男性的なかっこよさはありませんって」
「分かっとる冗談だ。それにしてもこれは中性的であるな。ヒラヒラしておらんしピッタリでもない。動きやすそうなのでいいが」
「そういうことですよ。あなたの脚のこともありますしね。とにかく急がなくていいですからね。壇上で転んだとしたら一大事ですし」
念入りな注意の後に退室し部屋に残されたヘイムは鏡の前でもう一度自分を見て思う、とても似合っていると。
それは色彩やデザインといった点のみならず内面的なものも含まれていた。男のものでも女のものでもない性を超えた衣装はまるで龍身と自分のためだけのものであるように。
そうだとも、とヘイムは頷いた。龍には性別などない、と。龍はそんなものを超越し支配するものであり、自分はそうなるのだと。
杖をつき足を運ぶとヘイムの身体は思った以上に進んだ。
確かに動きやすいな、と快適な気持ちでそのまま部屋を出て控えていた女官の手引きを拒否し歩き出した。かえって足手まといとなる。
龍身に触れるのはそちら側の方が緊張して転びそうになるからな、といつも以上にヘイムは快活に歩き進んでいく。
一体化が進んでいるのだなと。特にこれから壇上へと登ると思うと頭が研ぎ澄まされ意識が鋭角になっていくのが分かりだした。
これまでの歩行障害がもしもちぐはぐな魂と身体の未統一状態によるものもあったとしたら、この先完全に一体化となった場合には問題無く歩けるのではないだろうか、と。
会場の外に設けられている幕へと向かってヘイムは進んでいく。このように一人で、付き添いなどおかずにたった一人で歩けるのでは? そうだとも龍は一人で歩けるのだ、ならば龍身もそのような存在であると。
しかしそれは……ヘイムは快適に歩けるなかで聞き覚えのない囁きが心の中から出てきたのを感じた。しかしそれは、とはなんだ?
問いに対し声は、はっきりと、ゆっくりと、わかるように言いだした。あ、な、た、の、い、の、ち、の……
途中で分かったからこそヘイムは大声で呼んだ。
「シオン!」
控えの幕で豆を食べていたシオンは咳込み入り口を見ると声の主が入ってきた。
「ゲホッなんですかヘイム!急に大声を出して。あなたのせいでびっくりしてこうなってしまいましたよ」
「よっよいではないか。また詰まらずに済むのだから。そんなことよりも、なぁ、妾はいま、どうだ?」
シオンは首を傾げてヘイムを訝し気に眺めていたが、急に勝手に合点したのか頷き微笑んだ。
相変わらず思い込みの激しさには助けられる、とヘイムは思った。
「綺麗で可愛くてついでにかっこいいですよ。選んだのはほとんど私ですけれど、実に貴女らしいというか、まぁもうお姫様ではなくて女王様みたいなものですし、ちょっと奇抜に見えるのもいいでしょう。誰も文句は言いませんし言えませんよ」
ヘイムが服装の着こなしを改めて不安になって聞きに来たと勘違いしたシオンが優しい言葉を掛けてきたが、違うそうではない、だがそれでいい。
「それならいい。いや動きやすすぎて妾が妾であることすら途中で忘れそうになっての」
「忘れ過ぎですよもう。ヘイムがヘイムのことを忘れそうになってどうするんですか。如何なる時でも自分を手離してはなりませんよ。それが素敵な衣装を纏ったのだから好きなように動いてみせて息が上がって苦しい顔を友達に見せるときであっても」
シオンが一人で笑い出す前にヘイムが笑い始め、控えの間は笑い声に溢れた。
「そういえばですね先ほどルーゲン師が訪れましてね。いらっしゃらないのならこれを龍身様にって」
良いタイミングで自分はここに来たなと思いながらヘイムは渡された瓶詰を見つめ、眉をひそめた。
「……これは香油だろ? なんだってこんな高価なものを」
「これはまた妙な言い方をしますね。あなたはこれよりも高い香油を髪に塗って贅沢をしていたじゃありませんか」
「昔のことだろうに。金があるのならそういうことはしていいが、無いのならそういうことはしてはならん、そんなのは常識的だろうに。シオンはこれよりもと言ったが値段で言うならどっこいだ。しかしいまの妾ではこれを使うのには気が引けるな。まさかあやつが一年貯めて買ったとかではあるまいな」
「南方から参ったの商人からの献上品だそうです」
「だったらはじめからこちらに贈ればいいだろうに回りくどい」
「言われてみるとそうですね。ルーゲン師らしくもない。なにか意図でもあるのですかね?」
ヘイムは瓶の中の香油を灰色の空にかざすとふと南の習慣を思い出した。あちらの民は未婚の女に髪に関するものを贈るという。となるとその南のものはルーゲンにこう言ったのではないか?
『どうかご夫人様へどうぞお贈りなさいませ』
とか。ということはこれはシオンに教えてはならない、とヘイムはすぐに結論づけた。
「まぁ意図は不明ながら贈り物を貰ったのは良いうことですね。軽く今つけておきますか?」
「いらんだろうに。表彰式で自分の匂いなど気にするものか別に使わん」
「こういう時に限って真面目なんですからね。これは私が預かっておきますから使う時は言ってくださいよ」
使うような時は来ないだろうなとヘイムはそのことをすぐに忘れて椅子の上に座り瞼を閉じ瞑想をしはじめた。
これは祈りであると同時に一つの儀式でありその行為はそのまま龍へと近づくためのものであった。
龍身を宿らせているだけでは龍化は進まない。思い望み唱え続ける。自らを龍へと近づけるために。
この状態となったヘイムに語りかけるものもなくまた呼びかけるものはいない。
耳を澄まし限りなく近い無音の境地に達したヘイムは何の前触れも起こさずに瞼をあげ立つ。
女官らはその時だけをひたすら待ち続け額ずき案内をしはじめる、ここに龍身様としての準備が完全に整ったということとして。
世界には自分の足音と呼吸の音しかしないように静まり返っていた。人は皆、いる。いくらでもここのこの場に、いる。
それでも何も音がしない。いや、聞こうとすれば命の鼓動ぐらいは聞こえるが、それは聞く必要のないものであった。
龍の耳には人の声や言葉は基本的には聞こえないことを知ったのはいつの頃であったのか?
儀式の途中から周りがあまりにも静寂すぎることに気が付いてからか?
意識しなければ聞こえない。聞こうと思えば、聞こえる。
だけれども龍として人の何を知ろうというのだろうか、とヘイムは半分自分のことであるのにそう考えてしまう。
龍とはただ一つの孤高たる存在であり世界を統べるものである。その一方で人の時よりも聞こえるものがある。
脅威というものは、はっきりと聞こえる。自らの命に係わる音はそのまま耳に入って来る、うるさく痛いぐらいに頭に響き渡り反射的に臨戦態勢を取り出す。
龍は人の悪意に敏感なのであろうか?それとも好戦的なのであろうか? そうであるけれどそんな心を龍に向けるものなどいない。いるはずがない。ここはそういう世界では、ない。
龍への畏敬と信仰で満ち足りた世界。いくら乱れようがやがて正しき秩序に向かう。何度分裂しても調和によって修復していく世界である。
存在するはずがなく、存在を許されないというのに、だがそれはいた。そのうえそれは、この会場内にいる。
龍身は杖を鳴らし安定した歩みで壇上へと登っていく。
目の端にて会場にいる民を見るもその呼吸音すら聞こえてはこない。その龍の世界においてヘイムはジーナのことを考え、それからこう想像をした。奴は目を背けるだろうな、と。
それはいつものことだ、自分を見るときの奴の視線がそれだ、と心中そう思いある意味で油断をしていた。
ジーナは今の自分を見ても特には何も感じないだろう。あれはこの檀上で妾の右目を見つめそれから去る。それで終わりだ。だがそれはとてもとても大切なことのようにヘイムには思われた。
何故だと自分に問うこともなく、そう確信を抱きながら挨拶の言葉を語りだし表彰式がはじまる。
ここの段階まで来たのか、と。龍身であると言える左半身の色は中心から右半身へとますます広がっている。
すぐには自分でもどのぐらい龍身が進んでいるのか思い出し考えないことには分からないことであった。
しかしヘイムとしては失われているという感覚は一切なかった。いや、そういう意識はこの身になってからまず無くなったのかもしれない。
自分は龍身であり、龍となるものである。もはや自分は龍なのだ、と。
このまま無私の境地で以って受入れ、いつしかこのようなことすら考えなくなることは分かり切っている。
龍となったら龍となる以前のことなど忘れてしまう。それはなにも自分だけではなく周りのものもそうである。
人々もみなここにいる自分のことを忘れる。それが龍の信仰であり正しきことなのだ。
自分は人ではなく龍となる。人であったことは失われなくてはならない。そのために人々は自分を崇め戦い、その命を捧げているのだ。
……ただ一人だけを除いて。
「ヘイム様? ちょっとヘイム? 座ったまま寝てるんじゃないわよ」
肩を叩かれたことでヘイムは自分がいつの間にか瞼を閉じたことを知り開くとそこには自分とシオンがいた。鏡を見ると龍身はそこにはいなかった。私がそこにいる。
「すまぬな。もしも自分が豆を喉に詰まらせたら、と想像したら苦しくて死んだ気持ちになってしまってな。シオンよ、良く生きておった」
「うん? そんなことありましたっけ」
「こいつ……」
ヘイムはシオンの声がお惚けでも嘘でもないことに若干怖いものを感じた。本気で忘れているのだろう。
この女の思い込みの強烈さにはときたま戦慄を覚えることもあり、それ以上触れるのは経験上やめにした。怖いし。
「もう時間か? まだ余裕はあると思うが」
「それはあなたのでしょう。私は先に行かなければならないのですから着替えるのは早めにするということですよ」
そうだったなとヘイムは立ち上がり正装に着替えるために隣の部屋へと向かった。
思えば、とヘイムはシオンの手が身体に触れるたびに自分にこうするのは最近ではシオンだけになったなと思った。
龍身の身体に触れるのは畏れ多い、というごく一般的な人々の敬心をヘイムは汲み取りごく一部の女官にそれを任せているものの、限界が近づいてきていた。
完全な龍身となりつつあるこの身に触れることができるのはこの先は誰となるのか。
「また痩せましたか? もうこれ以上は駄目ですからね。いまは細いで済みますがこれから先はガリになりますよ。それはかえってブスですからね。人に不安感を抱かせる体型というのは美しくありませんよ」
文句を言いながらシオンはヘイムの服を脱がせそれから今日の衣装を羽織らせはじめた。そうシオンは別である。
完全に二人の場合や興奮した時にはシオンは自分を昔ながらの呼び名を使うとヘイムは分かっていた。
もしかしたらシオンは無意識に使い分けているかもしれないが、それでも良かった。その瞬間だけ自分は自分であることを思い出すと。
間違いなく最後まで自分のことを覚えているのはシオンであろうとヘイムはいつも思っている。
少しずつ変わっていき自分でもその変化に気づかずにいつしかシオンは自分に向かって「龍身様」と呼ぶ日が来るだろう。
それは決定的なものとなるであろうが、その時にはもう自分の意識などこの世に塵一つ残さずに消え去り、龍の意思のもと自分は生きているのだとヘイムは想像する。
考えずとも分かり切っていることを考えながらそこに引っ掛かりがあった。だからこそ考えていた。もう一人いないのかと?
そのもう一人とはシオンよりも自分の名を覚えているもののことを。それどころかこの身が龍となっても認めないだろうと。
ヘイムは重たげに頭を振るい何かを落そうとするも落ちるはずもなかった。あのジーナという存在を。
奴は拒絶している。龍を、この世界を、理を。外からきた余所者。決して自分のことを龍と呼ばないもの。
「この紺色のは重くない色でいいですね。今日の空模様では一段と映えるでしょう」
「表彰式は別に妾のお披露目会とかじゃないぞ」
「みんなあなたのことを注視するのから一緒ですって」
自分のことか、とヘイムはそのお気楽な言葉に内心苦笑いをする。しかしそれは事実である。これから自分は龍身という存在として兵の前に立ち労いの言葉を掛けるこの儀式。
そういった場に立てば不思議なほど自分は忘我の境地に立ち龍身として振る舞えるのだが、そのままいってしまったとしたら?
もうこちらに戻らずにずっとそのままでいられたら……そうヘイムに帰らずに龍身として意識も捧げてしまえば……
「ヘイム、終わりましたよ。鏡の前で一回転して自分で見てください。くるっとしてどうぞ」
呼ばれたことによってヘイムは意識の水の中から顔を出し息を吸い、回りだした。名を呼ばれる限り自分はまだ失われない、まだ失う時ではない。
「ほぉ、今回のは中々にかっこいいな」
「かっこいいとは何ですか。綺麗だとか可愛いだとか言いなさい」
「シオンがいつも言われている褒め言葉だぞ。何が気に入らないのか」
「私はそういう風には着付けていませんよ。あなたに男性的なかっこよさはありませんって」
「分かっとる冗談だ。それにしてもこれは中性的であるな。ヒラヒラしておらんしピッタリでもない。動きやすそうなのでいいが」
「そういうことですよ。あなたの脚のこともありますしね。とにかく急がなくていいですからね。壇上で転んだとしたら一大事ですし」
念入りな注意の後に退室し部屋に残されたヘイムは鏡の前でもう一度自分を見て思う、とても似合っていると。
それは色彩やデザインといった点のみならず内面的なものも含まれていた。男のものでも女のものでもない性を超えた衣装はまるで龍身と自分のためだけのものであるように。
そうだとも、とヘイムは頷いた。龍には性別などない、と。龍はそんなものを超越し支配するものであり、自分はそうなるのだと。
杖をつき足を運ぶとヘイムの身体は思った以上に進んだ。
確かに動きやすいな、と快適な気持ちでそのまま部屋を出て控えていた女官の手引きを拒否し歩き出した。かえって足手まといとなる。
龍身に触れるのはそちら側の方が緊張して転びそうになるからな、といつも以上にヘイムは快活に歩き進んでいく。
一体化が進んでいるのだなと。特にこれから壇上へと登ると思うと頭が研ぎ澄まされ意識が鋭角になっていくのが分かりだした。
これまでの歩行障害がもしもちぐはぐな魂と身体の未統一状態によるものもあったとしたら、この先完全に一体化となった場合には問題無く歩けるのではないだろうか、と。
会場の外に設けられている幕へと向かってヘイムは進んでいく。このように一人で、付き添いなどおかずにたった一人で歩けるのでは? そうだとも龍は一人で歩けるのだ、ならば龍身もそのような存在であると。
しかしそれは……ヘイムは快適に歩けるなかで聞き覚えのない囁きが心の中から出てきたのを感じた。しかしそれは、とはなんだ?
問いに対し声は、はっきりと、ゆっくりと、わかるように言いだした。あ、な、た、の、い、の、ち、の……
途中で分かったからこそヘイムは大声で呼んだ。
「シオン!」
控えの幕で豆を食べていたシオンは咳込み入り口を見ると声の主が入ってきた。
「ゲホッなんですかヘイム!急に大声を出して。あなたのせいでびっくりしてこうなってしまいましたよ」
「よっよいではないか。また詰まらずに済むのだから。そんなことよりも、なぁ、妾はいま、どうだ?」
シオンは首を傾げてヘイムを訝し気に眺めていたが、急に勝手に合点したのか頷き微笑んだ。
相変わらず思い込みの激しさには助けられる、とヘイムは思った。
「綺麗で可愛くてついでにかっこいいですよ。選んだのはほとんど私ですけれど、実に貴女らしいというか、まぁもうお姫様ではなくて女王様みたいなものですし、ちょっと奇抜に見えるのもいいでしょう。誰も文句は言いませんし言えませんよ」
ヘイムが服装の着こなしを改めて不安になって聞きに来たと勘違いしたシオンが優しい言葉を掛けてきたが、違うそうではない、だがそれでいい。
「それならいい。いや動きやすすぎて妾が妾であることすら途中で忘れそうになっての」
「忘れ過ぎですよもう。ヘイムがヘイムのことを忘れそうになってどうするんですか。如何なる時でも自分を手離してはなりませんよ。それが素敵な衣装を纏ったのだから好きなように動いてみせて息が上がって苦しい顔を友達に見せるときであっても」
シオンが一人で笑い出す前にヘイムが笑い始め、控えの間は笑い声に溢れた。
「そういえばですね先ほどルーゲン師が訪れましてね。いらっしゃらないのならこれを龍身様にって」
良いタイミングで自分はここに来たなと思いながらヘイムは渡された瓶詰を見つめ、眉をひそめた。
「……これは香油だろ? なんだってこんな高価なものを」
「これはまた妙な言い方をしますね。あなたはこれよりも高い香油を髪に塗って贅沢をしていたじゃありませんか」
「昔のことだろうに。金があるのならそういうことはしていいが、無いのならそういうことはしてはならん、そんなのは常識的だろうに。シオンはこれよりもと言ったが値段で言うならどっこいだ。しかしいまの妾ではこれを使うのには気が引けるな。まさかあやつが一年貯めて買ったとかではあるまいな」
「南方から参ったの商人からの献上品だそうです」
「だったらはじめからこちらに贈ればいいだろうに回りくどい」
「言われてみるとそうですね。ルーゲン師らしくもない。なにか意図でもあるのですかね?」
ヘイムは瓶の中の香油を灰色の空にかざすとふと南の習慣を思い出した。あちらの民は未婚の女に髪に関するものを贈るという。となるとその南のものはルーゲンにこう言ったのではないか?
『どうかご夫人様へどうぞお贈りなさいませ』
とか。ということはこれはシオンに教えてはならない、とヘイムはすぐに結論づけた。
「まぁ意図は不明ながら贈り物を貰ったのは良いうことですね。軽く今つけておきますか?」
「いらんだろうに。表彰式で自分の匂いなど気にするものか別に使わん」
「こういう時に限って真面目なんですからね。これは私が預かっておきますから使う時は言ってくださいよ」
使うような時は来ないだろうなとヘイムはそのことをすぐに忘れて椅子の上に座り瞼を閉じ瞑想をしはじめた。
これは祈りであると同時に一つの儀式でありその行為はそのまま龍へと近づくためのものであった。
龍身を宿らせているだけでは龍化は進まない。思い望み唱え続ける。自らを龍へと近づけるために。
この状態となったヘイムに語りかけるものもなくまた呼びかけるものはいない。
耳を澄まし限りなく近い無音の境地に達したヘイムは何の前触れも起こさずに瞼をあげ立つ。
女官らはその時だけをひたすら待ち続け額ずき案内をしはじめる、ここに龍身様としての準備が完全に整ったということとして。
世界には自分の足音と呼吸の音しかしないように静まり返っていた。人は皆、いる。いくらでもここのこの場に、いる。
それでも何も音がしない。いや、聞こうとすれば命の鼓動ぐらいは聞こえるが、それは聞く必要のないものであった。
龍の耳には人の声や言葉は基本的には聞こえないことを知ったのはいつの頃であったのか?
儀式の途中から周りがあまりにも静寂すぎることに気が付いてからか?
意識しなければ聞こえない。聞こうと思えば、聞こえる。
だけれども龍として人の何を知ろうというのだろうか、とヘイムは半分自分のことであるのにそう考えてしまう。
龍とはただ一つの孤高たる存在であり世界を統べるものである。その一方で人の時よりも聞こえるものがある。
脅威というものは、はっきりと聞こえる。自らの命に係わる音はそのまま耳に入って来る、うるさく痛いぐらいに頭に響き渡り反射的に臨戦態勢を取り出す。
龍は人の悪意に敏感なのであろうか?それとも好戦的なのであろうか? そうであるけれどそんな心を龍に向けるものなどいない。いるはずがない。ここはそういう世界では、ない。
龍への畏敬と信仰で満ち足りた世界。いくら乱れようがやがて正しき秩序に向かう。何度分裂しても調和によって修復していく世界である。
存在するはずがなく、存在を許されないというのに、だがそれはいた。そのうえそれは、この会場内にいる。
龍身は杖を鳴らし安定した歩みで壇上へと登っていく。
目の端にて会場にいる民を見るもその呼吸音すら聞こえてはこない。その龍の世界においてヘイムはジーナのことを考え、それからこう想像をした。奴は目を背けるだろうな、と。
それはいつものことだ、自分を見るときの奴の視線がそれだ、と心中そう思いある意味で油断をしていた。
ジーナは今の自分を見ても特には何も感じないだろう。あれはこの檀上で妾の右目を見つめそれから去る。それで終わりだ。だがそれはとてもとても大切なことのようにヘイムには思われた。
何故だと自分に問うこともなく、そう確信を抱きながら挨拶の言葉を語りだし表彰式がはじまる。
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