105 / 313
第二章 なぜ私ではないのか
お互いに上着を一枚脱ぎませんか?
しおりを挟む
「案外物覚えが良いのですね」
「相当に悪いと思うのだが」
ハイネは感心した声をあげたがジーナの手元には中央の字によって真っ黒になった木版があった。
「期待値というものがありましてね」
「もう少し高めに設定しても良いと思うけれど、ところでこうもうちょっと書きやすいものでお願いしたいのだが。せっかく古紙があるのだからさ」
「これは別に紙類が不足ということではありません。うちの地方に伝わる勉強方法です。紙にはきちんと値段があるのですから、このような反復勉強で使い潰して消耗していいものではありません。なので、はい、これで」
ハイネは削り用ナイフとやすりをジーナに渡し微笑んだ。
「削って真新しくするのです。こうすればこれは辛いから頑張って覚えようと一字一字無駄にせずに書こうという意識が生まれますよね。勉強はこの精神が大切なのですよ。まぁ時間はたくさんありますから慌てずに行きましょう」
よりによってこんな厄介な勉強方法の信望者が先生とは、と溜息をつきながら削りに入りながらジーナは思う。自分の仕事は?
「あのハイネ。仕事は?」
「もう殆ど終わりましたが。そうやって私の仕事を気にするところを見ると勉強がお辛いようですね」
「そういうことじゃなくていつもたくさんの書類仕事をしているから今日はどうしたのかなと」
「ですから終わらせました。ああいうのはですね沢山あっても一日分に分けてやっているのであって、それを早めに終わらせても疲れるだけですからそうしているのです。要領をつかめばあっという間に終わるものです。そもそもあなたが私の仕事を増やしているのにそういうことを気になさるのはおかしくありません?」
えっそれは、とジーナは顔を上げるとハイネの目が輝き愉快そうに笑い視線が合った。
「冗談ですよ。けどそのことを気にしなくていいですからね。これはシオン様から許可された重要任務ですから。そうでもなければこんなことしませんよ」
「たしかにそこは二人に感謝している」
ハイネはその言葉に痺れたように無言であったがジーナはその姿を見ずに手元の作業に戻り独り言を漏らした。
「私も中央の字をいつかは習おうと考えていたが、ついにずっとできずに諦めていたからな」
小声ではあったがハイネはそれを聞き漏らすことはなく捕え、黙った。
言葉を発しなければ続きが来ると。そして続く言葉は沈黙の中で、咲いた。
「昔から私は砂漠の先に移住しようとも考えていたんだ」
ハイネにとって福音のごとき言葉が聞こえたからにはもう辛抱できずに尋ね、引っ張った。こちらの方へ。
「ジーナは中央付近に移住しようと思っていたのですか。それはとてもいい考えですよ」
「私はあの頃はいい考えだと思っていた」
「あの頃は、ではなく今もいい考えですよ。あの西の砂漠前の町は良いところじゃないですか」
「ハイネもそう思うのか。それは同意するけれど良いに越したことはないが私はどうしても西から故郷から出なくてはいけなくなってね、出来るだけ遠くへ、ということで東を目指そうとしたわけだ。今じゃもっと東どころか東南へと行き過ぎてしまった感はあるけど」
自嘲気味に笑うとハイネも笑いだし不図ジーナは気づいた。
「ハイネは、その私の故郷の話とかを聞いてはこないけど、それは意識してのことで?」
「わかります? そう意識はしていますね。ジーナって自分のことは全然話そうとしないじゃないですか。ほとんどの男の人は私と会話するとき故郷の話とかをたくさん聞かせてくれますよ。自分がどれだけ強くて勇敢だとか自分の血が青いか実家が大きいとかお祭りのこととか。私はそれをいつも微笑みながら聞いていますからそれで私は各地の風習とか男女の気質について耳学問ですが中々に詳しいですよ。ですけれど」
一度言葉を切るとジーナは木版を削り終えた右手を机の上に置くとハイネが左手を乗せてた。その手の甲にはハイネがよく知る体温があり、そして思う。自分はこの男については体温のこと以上に詳しく知っていることは無いのでは。
「あなたはそう言った話を一切しませんね。自分の手柄話とか故郷の話とか」
「人に対して語るほどに誇るようなものではないからな」
「過ぎた謙虚は嫌味ですよ。それだけでなくて避けている何かがあると私は感じます。だから聞こうとしないのです」
「別に隠している何かがあるわけではなく、ハイネに対して私の話など興味が無いだろうから言わないだけで」
「では私が聞きたいと言ったら、どうです?」
興奮し上がっていたジーナの体温が一気に下がるのをハイネは掌ではっきりと分かり、だから掴んだ。
驚くジーナの視線を受け止めながらハイネは心の底が涼しく心地良い衝動のなかで一つの心を告げることができた。
「お互いに上着を一枚脱ぎませんか? 見ているのは聞いているのは私達だけですから大丈夫ですよ」
そう言うと予想通りにジーナの目が泳ぎ混乱で首が動くのを見てハイネは満足して笑う。
「もちろん今のは比喩ですが良い反応ですね。つまりはこういうことです」
安心しているジーナから顔を横向ける今度は腹の底に冷たいものが湧いてくるのをハイネは感じた。
不快な冷たさがそこにありそうであるからこそかジーナの手の甲の温みが強調され一つになりたいとでも思うくらいであり、息を吸いひとつ息を吐き、上着を脱ぐ。
「あのですね。私もあなたと同じく実家には帰れないのです。だからここの部分は実は一緒なのですよ。もちろん内戦中ですから故郷への道が閉ざされたり一族が分裂して帰るに帰れない人が大多数です。ソグと中央の両方に親戚がある人は必ずそう。シオン様もヘイム様もそうですけれど、私の家の場合は元々バラバラでしてね。父と母の折り合いが悪くて、あっうちは父がお婿さんでしてね家の本来の当主は母でして。母は……あの人は父と私をあまり好いてはなく私が武官学校に行くと言ったら大喜びでした。そのぶん父は寂しがったでしょうが、まぁ将来に家の当主となるのならと仕方なく見送ってくれましたが、その間に父が病気で倒れてそのまま……と、ここまではよくありがちな不幸な話ですが、葬儀を済ませて武官学校に戻り一年後に家に帰ってみるとびっくりで、あの人は新しい男を家にあげていましてね」
心の底が寒さで震えて来るのがハイネには感じられ、それが声に手に出て来るのに怯えた。この人の前で晒けだすのがこんなにも冷たいものであるとは思ってもなく、逃げたい気持ちが先走り左手の力が緩む、するとジーナの右手が捕えにきて握り返されるのを手の感覚で知った。見ずともそこには熱さがあり力があった。
その熱がハイネは中に入って来るのを感じながら口を再び開く。
「あの人はどうもその男との子を跡取りにしようと考えているようで、私はそんな不潔な空間にいることがもう我慢できないしあと色々とあって、結局武官学校の先輩であったシオン様を頼ってソグ王室のお付きにしていただきました。側近として働かせていただいている最中にあの動乱が起こってしまい、いまはこのように……」
気を取り直したハイネは手首を回しジーナの手に指を絡ませた。
「あなたみたいな人に字を教える役に甘んじているわけですよ」
「えらく零落した感じがあるな」
「相当に悪いと思うのだが」
ハイネは感心した声をあげたがジーナの手元には中央の字によって真っ黒になった木版があった。
「期待値というものがありましてね」
「もう少し高めに設定しても良いと思うけれど、ところでこうもうちょっと書きやすいものでお願いしたいのだが。せっかく古紙があるのだからさ」
「これは別に紙類が不足ということではありません。うちの地方に伝わる勉強方法です。紙にはきちんと値段があるのですから、このような反復勉強で使い潰して消耗していいものではありません。なので、はい、これで」
ハイネは削り用ナイフとやすりをジーナに渡し微笑んだ。
「削って真新しくするのです。こうすればこれは辛いから頑張って覚えようと一字一字無駄にせずに書こうという意識が生まれますよね。勉強はこの精神が大切なのですよ。まぁ時間はたくさんありますから慌てずに行きましょう」
よりによってこんな厄介な勉強方法の信望者が先生とは、と溜息をつきながら削りに入りながらジーナは思う。自分の仕事は?
「あのハイネ。仕事は?」
「もう殆ど終わりましたが。そうやって私の仕事を気にするところを見ると勉強がお辛いようですね」
「そういうことじゃなくていつもたくさんの書類仕事をしているから今日はどうしたのかなと」
「ですから終わらせました。ああいうのはですね沢山あっても一日分に分けてやっているのであって、それを早めに終わらせても疲れるだけですからそうしているのです。要領をつかめばあっという間に終わるものです。そもそもあなたが私の仕事を増やしているのにそういうことを気になさるのはおかしくありません?」
えっそれは、とジーナは顔を上げるとハイネの目が輝き愉快そうに笑い視線が合った。
「冗談ですよ。けどそのことを気にしなくていいですからね。これはシオン様から許可された重要任務ですから。そうでもなければこんなことしませんよ」
「たしかにそこは二人に感謝している」
ハイネはその言葉に痺れたように無言であったがジーナはその姿を見ずに手元の作業に戻り独り言を漏らした。
「私も中央の字をいつかは習おうと考えていたが、ついにずっとできずに諦めていたからな」
小声ではあったがハイネはそれを聞き漏らすことはなく捕え、黙った。
言葉を発しなければ続きが来ると。そして続く言葉は沈黙の中で、咲いた。
「昔から私は砂漠の先に移住しようとも考えていたんだ」
ハイネにとって福音のごとき言葉が聞こえたからにはもう辛抱できずに尋ね、引っ張った。こちらの方へ。
「ジーナは中央付近に移住しようと思っていたのですか。それはとてもいい考えですよ」
「私はあの頃はいい考えだと思っていた」
「あの頃は、ではなく今もいい考えですよ。あの西の砂漠前の町は良いところじゃないですか」
「ハイネもそう思うのか。それは同意するけれど良いに越したことはないが私はどうしても西から故郷から出なくてはいけなくなってね、出来るだけ遠くへ、ということで東を目指そうとしたわけだ。今じゃもっと東どころか東南へと行き過ぎてしまった感はあるけど」
自嘲気味に笑うとハイネも笑いだし不図ジーナは気づいた。
「ハイネは、その私の故郷の話とかを聞いてはこないけど、それは意識してのことで?」
「わかります? そう意識はしていますね。ジーナって自分のことは全然話そうとしないじゃないですか。ほとんどの男の人は私と会話するとき故郷の話とかをたくさん聞かせてくれますよ。自分がどれだけ強くて勇敢だとか自分の血が青いか実家が大きいとかお祭りのこととか。私はそれをいつも微笑みながら聞いていますからそれで私は各地の風習とか男女の気質について耳学問ですが中々に詳しいですよ。ですけれど」
一度言葉を切るとジーナは木版を削り終えた右手を机の上に置くとハイネが左手を乗せてた。その手の甲にはハイネがよく知る体温があり、そして思う。自分はこの男については体温のこと以上に詳しく知っていることは無いのでは。
「あなたはそう言った話を一切しませんね。自分の手柄話とか故郷の話とか」
「人に対して語るほどに誇るようなものではないからな」
「過ぎた謙虚は嫌味ですよ。それだけでなくて避けている何かがあると私は感じます。だから聞こうとしないのです」
「別に隠している何かがあるわけではなく、ハイネに対して私の話など興味が無いだろうから言わないだけで」
「では私が聞きたいと言ったら、どうです?」
興奮し上がっていたジーナの体温が一気に下がるのをハイネは掌ではっきりと分かり、だから掴んだ。
驚くジーナの視線を受け止めながらハイネは心の底が涼しく心地良い衝動のなかで一つの心を告げることができた。
「お互いに上着を一枚脱ぎませんか? 見ているのは聞いているのは私達だけですから大丈夫ですよ」
そう言うと予想通りにジーナの目が泳ぎ混乱で首が動くのを見てハイネは満足して笑う。
「もちろん今のは比喩ですが良い反応ですね。つまりはこういうことです」
安心しているジーナから顔を横向ける今度は腹の底に冷たいものが湧いてくるのをハイネは感じた。
不快な冷たさがそこにありそうであるからこそかジーナの手の甲の温みが強調され一つになりたいとでも思うくらいであり、息を吸いひとつ息を吐き、上着を脱ぐ。
「あのですね。私もあなたと同じく実家には帰れないのです。だからここの部分は実は一緒なのですよ。もちろん内戦中ですから故郷への道が閉ざされたり一族が分裂して帰るに帰れない人が大多数です。ソグと中央の両方に親戚がある人は必ずそう。シオン様もヘイム様もそうですけれど、私の家の場合は元々バラバラでしてね。父と母の折り合いが悪くて、あっうちは父がお婿さんでしてね家の本来の当主は母でして。母は……あの人は父と私をあまり好いてはなく私が武官学校に行くと言ったら大喜びでした。そのぶん父は寂しがったでしょうが、まぁ将来に家の当主となるのならと仕方なく見送ってくれましたが、その間に父が病気で倒れてそのまま……と、ここまではよくありがちな不幸な話ですが、葬儀を済ませて武官学校に戻り一年後に家に帰ってみるとびっくりで、あの人は新しい男を家にあげていましてね」
心の底が寒さで震えて来るのがハイネには感じられ、それが声に手に出て来るのに怯えた。この人の前で晒けだすのがこんなにも冷たいものであるとは思ってもなく、逃げたい気持ちが先走り左手の力が緩む、するとジーナの右手が捕えにきて握り返されるのを手の感覚で知った。見ずともそこには熱さがあり力があった。
その熱がハイネは中に入って来るのを感じながら口を再び開く。
「あの人はどうもその男との子を跡取りにしようと考えているようで、私はそんな不潔な空間にいることがもう我慢できないしあと色々とあって、結局武官学校の先輩であったシオン様を頼ってソグ王室のお付きにしていただきました。側近として働かせていただいている最中にあの動乱が起こってしまい、いまはこのように……」
気を取り直したハイネは手首を回しジーナの手に指を絡ませた。
「あなたみたいな人に字を教える役に甘んじているわけですよ」
「えらく零落した感じがあるな」
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
王妃さまは断罪劇に異議を唱える
土岐ゆうば(金湯叶)
恋愛
パーティー会場の中心で王太子クロードが婚約者のセリーヌに婚約破棄を突きつける。彼の側には愛らしい娘のアンナがいた。
そんな茶番劇のような場面を見て、王妃クラウディアは待ったをかける。
彼女が反対するのは、セリーヌとの婚約破棄ではなく、アンナとの再婚約だったーー。
王族の結婚とは。
王妃と国王の思いや、国王の愛妾や婚外子など。
王宮をとりまく複雑な関係が繰り広げられる。
ある者にとってはゲームの世界、ある者にとっては現実のお話。
完結 「愛が重い」と言われたので尽くすのを全部止めたところ
音爽(ネソウ)
恋愛
アルミロ・ルファーノ伯爵令息は身体が弱くいつも臥せっていた。財があっても自由がないと嘆く。
だが、そんな彼を幼少期から知る婚約者ニーナ・ガーナインは献身的につくした。
相思相愛で結ばれたはずが健気に尽くす彼女を疎ましく感じる相手。
どんな無茶な要望にも応えていたはずが裏切られることになる。
旦那様は離縁をお望みでしょうか
村上かおり
恋愛
ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。
けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。
バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる