龍を討つもの、龍となるもの

かみやなおあき

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第一章 なぜ私であるのか

忘れてしまいます。あなたも私も

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 もともと傷は大したことはなく何もせずともすぐに治るし薬を塗ればもっと早いだろう。それはそれで良い。

 問題はこれが何による傷であるかどうかだが、そこは転んだ際に枝やらに引っ掛けたと強引に主張すれば良く、さっきも何人かにそう言ったら納得したので問題はない。ハイネさんもまさかこの傷はあの人がつけたものとは思うまい、とジーナはハイネからくる当然の質問に備えて心中で身構えていた。

 だがハイネは傷当てを剥がしても、なにも聞いてはこなかった。

 無言のまま真剣な表情で治療に当たりそのため辺りには静寂が降りるなかハイネが息を一つ呑んだ音さえはっきりと聞こえた。

 なにかを思ったはずだが聞かないのか? とジーナは不信感を抱く。聞かないというのはどういうことなのか? むしろこれは逆に不自然では? 聞いてくれ、とジーナは思う。そうしたら用意した作り話を言えるのに、だがハイネは聞いてこない。無言の言。

 聞くまでもないというのか? これが爪跡だと聞くまでもなく分かるとでも? その上で聞かないのは……もしも知っているからだとしたら、見ていたとしたら、勘付いているとしたら。

 この傷をつけたのが誰だと分かっているからこその緊張感だとしたら、それはあの人に対する……衝動がジーナを動かしハイネの手を取った。

 その手は大きく驚きで跳ねたがもう引き返すことはできない。そのまま引き寄せて顔を見ずに済むように、声だけが届くように、出来るだけ近くに誰にも聞こえないような小声が届く距離のために、口を耳元に近づける姿勢をとり囁いた。

「この傷についてなにも尋ねてこないあなたはきっと不穏な想像力を働かせていると私は考えている。事実、そうでしょう? だからこの傷について何であるのかどう思っているのかなどは私はあなたには聞かない、そちらも聞かないだろう。そうであるのなら、どうか私の言葉をよく聞いてくれ」

 顔は見えずともハイネは身体全体から困惑と緊張を発散させていたが、語りかけによって淡い安心感も伝わってきた。身体がこれ以上に無く近くに心もこれ以上に無く近くになったこの状態故に嘘はつけないということを。

 偽れぬということによって自分自身も身体が強張るのが分かり呼吸すら苦しい。次の言葉を言うのがここまで辛いとは、そのうえまだ言葉が思い浮かばない。いったいに私は彼女に何を伝えたいのか?

 何を言わなければならないのか?

 言葉が離れていくように思えたのかジーナはそれを捉えようとしてハイネの身体を更に引き寄せると、自然に言葉が湧き上がった。

「これは、あの人の罪からではなく、私の罪から生まれたものだ。私の罪が、私自身に爪を立て血を流させ傷痕を残した。信じてくれ」

 流暢な囁きと言えない、途切れ途切れな擦れた声がジーナの口から流れ出し、ハイネの身体は震えだした。

 だがジーナはすぐに自分は何を言っているのだろう、と思った。自傷とでも? それとも罪の償いとでも? 贖罪とでもいうのか? その全てはありえないことであるのに……そんなはずはないというのに。

「そのことをあなたは他の誰かには訴えたり言いはしませんよね?」

 ハイネは尋ねジーナは我に返りながら答える。

「あっああ、訴えたり言ったりなんてことはしない」

 何故? とハイネに言われるまでもなくジーナは自らの心の中で先ずその声が聞こえた。そんなのは私にだって分からないとジーナは思うも、これもまた自然に言えた。

「ハイネさんにだけは、こうしなければならない気がしたから」

 そういうとハイネの震えは止まり何の強張りも消えてなくなった。

「なら信じます」

 それが合図となったのかジーナは引き寄せていた手を離しハイネも元の位置に身体を戻していった。

 いまのことがなかったように爪あとにハイネは自らの指で以って薬を再びつけだした。

「慌てがちな愚か者がつけた傷には薬が沢山必要そうですね」

 からかいながら塗るハイネの顔は笑っていた。

「そうだな。馬鹿にだってつける薬があると思うからいくらでもつけてくれないか」

「私がいてよかったですね」

 ハイネが言う。

「きちんと薬を塗ってくれる私がいて良かったですね」

 塗り終わると草の匂いが傷口に染み込んでくる感覚のなかハイネは傷当ての布を適切な形に切り取り、頬に当て抑え止めた。

「終わりか。どうもありがとう」

「どういたしまして。戦場でこういうことを良くしていましたから。いつでも怪我してくださいね」

 手を拭きながらハイネはふざけながら言う。

「それはありがたいが世話にならないようにする。それにこのような怪我はもうしないし」

 丁寧に手を拭いているハイネを見ると何かを思考中だという様子がありありと見えジーナはそれ以上何も言わずにいるとやがて呟きがわいてきた。

「……癒えるものと癒えぬもの、消えるものと残るもの、とがありますよね?」

 意を決したようにハイネが手を拭くのをやめてジーナの方を向き話を始めた。

「例えば今の傷は数日で癒えて消えるものでしょう。ですがその下にあるジーナさんの古い傷痕は癒えずに残るもの、そう分けられますよね?」

「それはそうだな」

 話の意図が読めずにジーナはごく短めに返したもののハイネも慎重に言葉を選んでいるためにそれで良かったようであった。

「ヘイム様というのも、そのような存在であるといえるのです。あの方が前者であり後者が龍身様であるといえまして」

 畏れ多いとばかりに言葉を濁し極めて言い難そうに言ってはいるために意味が掴めずにいると、ハイネは苦笑いをしだした。

「どうもシオン様のようにかっこよくはいきませんね。あのジーナさん、ルーゲン師から龍の記憶についてのご講義は受けられましたか?」

 龍の記憶? その言葉は聞き覚えがあるものの重要度が最低だと判断されたのか記憶の奥底へと仕舞われてしまい、内容が取り出せないようになっていた。

「名前だけ知っているが思い出せないって顔をしていますね。いいですよ見栄を張って知っていると言わなくて。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥といいますよね。あなたと違って私は男の人に恥をかかせないように気配りできる女ですから」

 そうかなぁ? と疑問を抱くが黙ってお願いしますと頭を下げるとハイネは嬉しそうな顔をした。

「結論から申しますと、いずれ私達はヘイム様という存在の記憶を完全に失います。そのいずれとは龍身が完成し龍となった時までです。それまでは少しずつ失われていくのです。これが龍の記憶についての要約となりますね」

 すると不思議なことにジーナは頭の中でルーゲン師の声が再生された。まるで封印されていたもののように。

『龍身とは人と龍とが統一されていく過程の状態のことであります。時を経て中央に近づくに従い、その身は龍化していき人であった部分が少なくなっていき、それは身体のみならず心もそうであり、その記憶も世界から失われていき、最後に残るは龍のみとなるのです』と。

「私はヘイム様にお仕えしてからそこそこに長いです。武官学校を出ましてそのままソグ王室の女官となりヘイム様のもとで仕えることとなりました。こう言うとすごいエリートコースなようですが、当時のヘイム様は中央の皇女というよりかは規模の小さなソグの王族であり巫女でしたので、今とはかなり大きく違いましたね。その生き方も背負うものも宿命も、です。シオン様もそうで龍の騎士ではなく末裔という扱いで中央の龍から離れここソグという地方におられました。それぞれの宿命に相応しい雰囲気でしたが、あの中央への祝賀会への旅の途中から、そうです私も同行しておりました、その命懸けのソグ帰還作戦から全てが変わりまして……フフッごめんななさい。ジーナさんはこういう龍に関する話が退屈で苦しいから護衛を辞退したがっていたのですよね?」

 真剣に聞いていたのに急にハイネが自ら話の腰を折り自分の方に振ってきたのでジーナは焦った。

「いやいや退屈じゃない」

「退屈していますってば。ルーゲン師がぼやいていましたよ。彼は中々興味を持ってくれないが、これは龍の試練だと」

「たったしかにそういう時はあったが今は違う」

「どうしてですか?」

 どうしてだろう? ジーナは胸が締め付けられるような破裂しそうな衝動を意識していると、こうなることを予測していたのだろうかハイネは用意していたであろう答えで今一度押してきた。

「ヘイム様に、出会ったからですよね?」

 答えることができずに必死で胸の何かを抑えているとハイネは重ねて尋ねた。

「それとも龍への信仰にでも目覚められたのですか?」

 そんな馬鹿な、とまた声が出ないもののこれもきっと伝わるのだろうなとこちらの瞳を見つめて来るハイネの朱色の瞳を見て、分かった。

 その一方で、いま私はどのような瞳をしているのだろうか? それを聞きたいとジーナは思う。

「龍に興味を覚えだした、それはとても善きことですよ。ルーゲン師やバルツ将軍の努力が報われヘイム様もお喜びになられるでしょう……ご自身のことを忘れられるということを」

 ハイネの表情に酷薄な笑みが刹那に浮かぶも、すぐに消えその表情は悲しみのものと変わったが、ジーナはその笑みによってか胸の衝動が治まり意識が地に足をつけ、口も利けるようになっていた。

「忘れるのか?」

 ジーナが聞きハイネが答える。

「忘れてしまいます。あなたも私も」

 挑むように断言で以ってハイネは告げる。
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