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第8章、村上編
【1】冬
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――あの日、私のこと、好きだよって言ったのは、夢?
変わらない黒く大きな瞳をまっすぐに俺に向ける。
傷ついた姿も、あんなに乱れた姿も知っているのに、とても無垢な眼差しをしているのが不思議でならない。
まだ、あの夏から半年足らずしか経っていない。
仕事に忙殺されていた俺にとっては、今年の夏なんてついこの前の出来事のようだ。
……しかし、もう会ってはいけないと思っていた。
浅野にも、白川にも、幸せになってほしい。その気持ちに偽りはない。そして、これ以上自分の心を掻き乱されるのも限界だった。
半年ぶりに見る白川は、形のいいふんわりとした唇を噛み締め、質問に答えない俺を見上げている。
ここは彼女の家の前だ。誰かに見つからないうちに彼女を返したい。
白川は起きていたのか。
あの時、かろうじて踏みとどまった俺を知られていたなんて。
最後まで情けない自分が滑稽で、吹き出した。
「え…えっ?何で笑うの?」
白川がおろおろしている。当然だ。
お前らのように、“好きでした。今も好きです。”
なんて、俺は言える立場にないんだよ。
若い奴らといると、自分まで同じステージに立っていると錯覚する。
もう終わったんだ。俺は。浅野の味方だと約束した。
「――いや。それよりも、浅野と別れたってどうして?」
若さが苛立たしくて、わざと踏み込んだ質問をした。
本当はそんな無粋な事は聞きたくなかったが、まだ成熟するに至らない彼女を、未だに性的な目で見ていた自分への戒めとしても聞いておきたかった。
白川は、気まずそうに話し始める。
「私も、遥も、疲れてたの」という前置きから始まった内容は、浅野が俺との仲を疑っているというものだった。
「はは……俺のせいか」
あまりにも滑稽過ぎて、乾いた笑いしか出ない。
幸せを願っていた二人に亀裂を入れたのは、俺だったのか。
「違うよ、先生のせいじゃない」
白川は慌てて俺の腕を揺するが、その手を取って首を振った。
「違わないよ」
何も違わない。
浅野は、俺の心の奥に隠していた想いを察知していたのだ。
新しい仕事と研究に打ちこみ、封じ込めようとしていた厄介な感情をいとも簡単に掘り起こされてしまう。
白川はこの狭い車中の空間で、彼女特有の甘い香りを振りまきながら俺のケチくさい本心に向き合おうとしてくる。
――だから、会いたくなかったんだ。
白川の義父が事を起こした夏の日。
寿命が縮まるほど心配をした。
電話越しの浅野の悲愴な声に、頭が真っ白になり、白川を助けたい一心で動いて。
母親にも電話で、偉そうに説教じみたことを言った。
そんな状態だったのに、布団の上で、眠れない白川を抱きしめていると、めちゃくちゃにしたい欲望が渦巻いた。
その衝動が、恋愛感情から来るものなのか、ただ単に発情しているだけなのか、自分では判別がつかなかったが…
こんな日にも、怯えてすがる彼女に下腹部を熱くしている自分は、義父以下の人間だと思った。
それに追い打ちをかけたのは、浅野の言葉だった。
「まだあいつの事好きなの?」
あの一言で、ひた隠しにしてきたものを全て暴かれたような羞恥心が沸き上がり、酷く動揺した。
――見守っているだの、幸せを願っているだの、そんな振りをしているだけだろ?
――ホントは、またあいつとヤリたいんだろ?
そう言っているように聞こえた。
きっともう、会ってはいけない。
これで終わりにしないと、すべて露呈してしまう。
………なのに。
「わ、これお母さんからのお歳暮?届いてたんだ~」
白川は無邪気に、テーブルの上に置いていたギフトの品を見て喜んでいる。
車内では話が着地せずに、結局家まで連れてきてしまった。
「いい豆をありがとう。淹れようか?」
自分のコートを掛け終え、まだコートを着たままの白川に尋ねると、
「今飲んだら眠れなくなっちゃうから、今日はやめとく…」と答えた。
寒いところから室内に入り、頬がピンクになっている。白い肌だから尚更目立って、思わず目を細めてしまうほど可愛らしくて。
「可愛いな」
何気なく出た感想だったのだが、それを聞いて耳まで赤らめている白川に、以前よりも強い愛しさを感じた。
「白川。コート貸して」
そう言うと、白川は慌ててコートを脱ぎ、中はゆるりとしたグレーのニットを着ていた。
ニットの上からでもわかる体のラインをできるだけ見ないようにして、コートを掛けた。
ホットココアを入れた。
甘めに作るとやはり喜び、無理をしてブラックコーヒーを飲んでいたのかなと思ったら、微笑ましくなった。
向かい合ってテーブルに着き、白川がマグカップをコトリと置いた。
「…先生のせいじゃないよ。さっきの話」
長い睫毛が伏せられ、瑞々しい唇が開く。
「先生は、私が迫ったから、それに付き合ってくれただけだもん。だから、先生のせいじゃないの」
「……それなら尚更、俺が踏み止まっていたらよかったんじゃないのか?」
そう言うと、白川は首を振った。
「ううん…問題はそこじゃないから」
俺はついていた頬杖を外し、コーヒーカップに口をつけた。
相手を信じきれなくなった浅野の心境はわからなくもない。俺にも経験はある。
そう考えたら……ふと詩織の顔が浮かんだ。
随分思い出さなくなっていたのに、久しぶりに。
「…ごちそうさまでした。おいしかった。先生、ココアいれるのも上手なんだね」
白川の声が空想から俺を引き戻した。
はにかんだように微笑む白川に、自然と顔が綻ぶ。
二人の間に流れる空気は、ゆったりと心地よく、時々、彼女の言葉や仕草に懐かしさやときめきを感じる。
俺があまり話さないので、白川は緊張しているようだった。俺も、話さないんじゃなくて、何を話せばいいのかわからないだけだが。
「先生、サンタさんのお菓子食べてね」
「うん。あ、食べて帰れば?」
「私が食べたら意味なくなっちゃうよ!それに、また満月見たら思い出すって言われちゃう…」
そんなことも、言ったな。
まだ覚えていたのか。
「よく覚えてるなぁ…」と言ったら、
「そんなの忘れないよ」と笑っている。
伸びをして立ち上がり、飲み干したマグカップとコーヒーカップを取り上げ、キッチンに運んだ。
「あっ、私洗って帰るよ」
白川が立ち上がって、俺の隣に来る。
髪の香りが立ち、腕が柔らかく当たった。
それだけで、俺にとっては十分な誘惑になる。
少し距離をとると、白川は不安げに俺を見た。
次タガが外れたら、もう二度と戻れない。
変わらない黒く大きな瞳をまっすぐに俺に向ける。
傷ついた姿も、あんなに乱れた姿も知っているのに、とても無垢な眼差しをしているのが不思議でならない。
まだ、あの夏から半年足らずしか経っていない。
仕事に忙殺されていた俺にとっては、今年の夏なんてついこの前の出来事のようだ。
……しかし、もう会ってはいけないと思っていた。
浅野にも、白川にも、幸せになってほしい。その気持ちに偽りはない。そして、これ以上自分の心を掻き乱されるのも限界だった。
半年ぶりに見る白川は、形のいいふんわりとした唇を噛み締め、質問に答えない俺を見上げている。
ここは彼女の家の前だ。誰かに見つからないうちに彼女を返したい。
白川は起きていたのか。
あの時、かろうじて踏みとどまった俺を知られていたなんて。
最後まで情けない自分が滑稽で、吹き出した。
「え…えっ?何で笑うの?」
白川がおろおろしている。当然だ。
お前らのように、“好きでした。今も好きです。”
なんて、俺は言える立場にないんだよ。
若い奴らといると、自分まで同じステージに立っていると錯覚する。
もう終わったんだ。俺は。浅野の味方だと約束した。
「――いや。それよりも、浅野と別れたってどうして?」
若さが苛立たしくて、わざと踏み込んだ質問をした。
本当はそんな無粋な事は聞きたくなかったが、まだ成熟するに至らない彼女を、未だに性的な目で見ていた自分への戒めとしても聞いておきたかった。
白川は、気まずそうに話し始める。
「私も、遥も、疲れてたの」という前置きから始まった内容は、浅野が俺との仲を疑っているというものだった。
「はは……俺のせいか」
あまりにも滑稽過ぎて、乾いた笑いしか出ない。
幸せを願っていた二人に亀裂を入れたのは、俺だったのか。
「違うよ、先生のせいじゃない」
白川は慌てて俺の腕を揺するが、その手を取って首を振った。
「違わないよ」
何も違わない。
浅野は、俺の心の奥に隠していた想いを察知していたのだ。
新しい仕事と研究に打ちこみ、封じ込めようとしていた厄介な感情をいとも簡単に掘り起こされてしまう。
白川はこの狭い車中の空間で、彼女特有の甘い香りを振りまきながら俺のケチくさい本心に向き合おうとしてくる。
――だから、会いたくなかったんだ。
白川の義父が事を起こした夏の日。
寿命が縮まるほど心配をした。
電話越しの浅野の悲愴な声に、頭が真っ白になり、白川を助けたい一心で動いて。
母親にも電話で、偉そうに説教じみたことを言った。
そんな状態だったのに、布団の上で、眠れない白川を抱きしめていると、めちゃくちゃにしたい欲望が渦巻いた。
その衝動が、恋愛感情から来るものなのか、ただ単に発情しているだけなのか、自分では判別がつかなかったが…
こんな日にも、怯えてすがる彼女に下腹部を熱くしている自分は、義父以下の人間だと思った。
それに追い打ちをかけたのは、浅野の言葉だった。
「まだあいつの事好きなの?」
あの一言で、ひた隠しにしてきたものを全て暴かれたような羞恥心が沸き上がり、酷く動揺した。
――見守っているだの、幸せを願っているだの、そんな振りをしているだけだろ?
――ホントは、またあいつとヤリたいんだろ?
そう言っているように聞こえた。
きっともう、会ってはいけない。
これで終わりにしないと、すべて露呈してしまう。
………なのに。
「わ、これお母さんからのお歳暮?届いてたんだ~」
白川は無邪気に、テーブルの上に置いていたギフトの品を見て喜んでいる。
車内では話が着地せずに、結局家まで連れてきてしまった。
「いい豆をありがとう。淹れようか?」
自分のコートを掛け終え、まだコートを着たままの白川に尋ねると、
「今飲んだら眠れなくなっちゃうから、今日はやめとく…」と答えた。
寒いところから室内に入り、頬がピンクになっている。白い肌だから尚更目立って、思わず目を細めてしまうほど可愛らしくて。
「可愛いな」
何気なく出た感想だったのだが、それを聞いて耳まで赤らめている白川に、以前よりも強い愛しさを感じた。
「白川。コート貸して」
そう言うと、白川は慌ててコートを脱ぎ、中はゆるりとしたグレーのニットを着ていた。
ニットの上からでもわかる体のラインをできるだけ見ないようにして、コートを掛けた。
ホットココアを入れた。
甘めに作るとやはり喜び、無理をしてブラックコーヒーを飲んでいたのかなと思ったら、微笑ましくなった。
向かい合ってテーブルに着き、白川がマグカップをコトリと置いた。
「…先生のせいじゃないよ。さっきの話」
長い睫毛が伏せられ、瑞々しい唇が開く。
「先生は、私が迫ったから、それに付き合ってくれただけだもん。だから、先生のせいじゃないの」
「……それなら尚更、俺が踏み止まっていたらよかったんじゃないのか?」
そう言うと、白川は首を振った。
「ううん…問題はそこじゃないから」
俺はついていた頬杖を外し、コーヒーカップに口をつけた。
相手を信じきれなくなった浅野の心境はわからなくもない。俺にも経験はある。
そう考えたら……ふと詩織の顔が浮かんだ。
随分思い出さなくなっていたのに、久しぶりに。
「…ごちそうさまでした。おいしかった。先生、ココアいれるのも上手なんだね」
白川の声が空想から俺を引き戻した。
はにかんだように微笑む白川に、自然と顔が綻ぶ。
二人の間に流れる空気は、ゆったりと心地よく、時々、彼女の言葉や仕草に懐かしさやときめきを感じる。
俺があまり話さないので、白川は緊張しているようだった。俺も、話さないんじゃなくて、何を話せばいいのかわからないだけだが。
「先生、サンタさんのお菓子食べてね」
「うん。あ、食べて帰れば?」
「私が食べたら意味なくなっちゃうよ!それに、また満月見たら思い出すって言われちゃう…」
そんなことも、言ったな。
まだ覚えていたのか。
「よく覚えてるなぁ…」と言ったら、
「そんなの忘れないよ」と笑っている。
伸びをして立ち上がり、飲み干したマグカップとコーヒーカップを取り上げ、キッチンに運んだ。
「あっ、私洗って帰るよ」
白川が立ち上がって、俺の隣に来る。
髪の香りが立ち、腕が柔らかく当たった。
それだけで、俺にとっては十分な誘惑になる。
少し距離をとると、白川は不安げに俺を見た。
次タガが外れたら、もう二度と戻れない。
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