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初恋 8
しおりを挟むカミルと名乗る少年が、部屋にやってきて話をした次の日、予定よりも早くアルノー達に次の任務が課されたのだった。
最近の仕事の多さにも辟易するが、フォルクハルトは戦いの場に連れて行かないと早々に暴走を始めるのでアルノー達に仕事が多く振られるのは仕方のないことだ。
そうだとわかっていつつも、もう少しだけこの居心地の良い彼女のいる屋敷に身を置きたいという気持ちもあり、出発は任務が出された深夜ではなく早朝にすることにした。
乗ってきた馬は、きちんと厩舎につないで、いつでも出られるようにしてあるので、フィーネに手間をかけることもない。事前に急に立つことがあるかもしれないということは伝えてあるので挨拶もなく出ていく非礼は許してくれるだろう。
「アルノー様ぁ~俺、準備できた~」
「ああ」
次の魔物を討伐するのを楽しみにしているフォルクハルトは、さっさと馬に乗り、せかすように上司のことを呼ぶ。アルノーは、今度いつ来れるかもわからないこの屋敷のことを女々しく見つめて、きっとまだぐっすり眠っているだろうフィーネのことを思い出した。
昨日の夜にカミルからもらった助言も使うことがなかったのが、心残りではあったが、流石に、こんな日が昇ったばかりの時間にたたき起こすなんて可哀想な真似できるわけがなかった。
「名残惜しいって顔してる、珍しいなぁアルノー様がそんなに執着見せるなんて、ってか、女の子嫌いなんて言ってなかったっけ?」
「彼女以外はな」
「へ~♪ そんなに好きなら攫ってっちゃう?」
「馬鹿いえ、そんな幼稚な真似ができるか」
倫理観のかけらもない事を言うフォルクハルトを窘めつつ、こうして眺めていても仕方がないのは変わりなかったので、アルノーも愛馬にまたがり、「いくぞ」とフォルクハルトに声を掛けて身を翻した。
しかしその時、フォルクハルトはふと、気配を察知したように振り返り、屋敷の玄関扉の方をみた。
アルノーもつられてそちらを見ると、ネグリジェに羽織を一枚掛けただけの姿で、フィーネが出てきて、ぱたぱたとこちらにかけてくる。
その背後には、昨日、アルノーの元に来たカミルの姿があった。
フィーネは急いでアルノー達のそばに寄ると、走ってきたせいで乱れた呼吸を少し整える。アルノーが後ろにいるカミルについて聞こうかと一瞬考えて視線を向けるとカミルは口元に人差し指を立てて、言うなとばかりにアルノーを見返す。
彼には助言ももらったことだし、どうやらフィーネを気にかけているように思える。それに何より言っても彼女には魔物化した人間が傍にいることなど信じがたいことかもしれないと、考え素直にそれに従った。
すると、呼吸を整え終わったフィーネは両手に抱えるように持っていた、小さなトートバックをアルノーに差し出した。
「お勤めご苦労様です。こんなものしかご用意出ないけどどうか、お気をつけて」
出立直前ということもあってか、短くそれだけ告げて、フィーネは頬笑む。
「……ありがとう」
「片手でつまみやすいものにしてあるから、お好きな時に召し上がってくださいね」
どうやらランチを用意してくれたらしく、彼女には急に出立することがあると伝えてはあっても、今朝出ていくということは言っていなかった、そのはずなのに、こんな時間にそんなものが出てくるということは相当に準備周到だなと素直に感心しつつ受け取った。
「それから……私、貴方の要件を飲もうと思っているの。貴方がよければその予定で算段をつけるつもり。詳しくは手紙で追って契約を立てましょう」
仰々しくそういった彼女にアルノーは目玉が飛び出るかと思った。
要件を飲むとはつまり……とその場で考え込んで、出来るならそのまま屋敷に連れ帰り祝言を挙げたかったが、それではフォルクハルトが言った事と何ら変わらなくなってしまう。
思考を続けるとろくでもない事を考えついてしまうと思ったので、アルノーはいったん考えるのをやめて、ふと昨日のカミルの助言通りに彼女の心を少しの罪悪感はあるけれど読んでみた。
『これで、契約の内容はあとから、交渉することができる。正直、何度でも読み返すことができる手紙の方が、私は得意なのよ、調べ物もできるし。契約についても、反故にされやすい口約束なんかに比べて文書でのやり取りは保存がきいて証拠性が高いわ。
それに、私の安全保障や生活の担保については事細かに読むのが面倒になるような文面で書いてみせる。そういうのは本ばかり読んでいるから自信もあるし。でもこれでは長期戦になるかもしれないわね。大前提として、私を貴族として遇してもらうことを飲んでもらう必要がある、使用人や平民としてではなく。でも、貴族ならなんも良いかと言われはアルノー様の人柄にもよるけれど、第三夫人ぐらいに収めてくれると嬉しいわよね━━━
あまりの思考の多さに、アルノーはその場で、笑ってしまいそうになった。
だって、こんなに考えているのにアルノーの考えはまるで伝わっていないし、なにより的を外れている。アルノーの条件を飲むということは、アルノーのものになるということ。それはもちろん第一夫人として、正妻として迎え入れるという意味である。
それだけが目的だし、それ以上の条件なんかない。逆に、フィーネを手に入れられるのならこちらは何でもできる、それなのに、彼女自身が考えていることが、あの小さな出会ったばかりの彼女と何も変わらず謙虚が過ぎる事態になっている。
それどころか謙虚さがさらに上がっている気がして、カミルが心を読んでみろといった理由がすぐにわかって、彼に視線を送った。
そうするとカミルも白魔法を使ったのか、薄っすらと瞳の色が白くなり苦笑を浮かべて、アルノーを見返した。
その反応が面白くて、思わず吹き出してくつくつとアルノーは声を出さずに笑って、相好を崩した。
「……アルノー様?」
見上げてくる視線は、幼いころと同じで確かに派手ではないけれども、女性らしいまろい頬も、影を落とすまつ毛も自信のなさそうなまなざしも、そのすべてが愛おしくて、こんなにも眩しい初恋の相手に、アルノーはできるだけ優しく微笑みかけた。
「あのな。俺は妾を作らない、女性は得意ではないのでな。それに、君を一番大切にするし、一番愛してる、そんな卑屈な事を考えないでくれ」
「! ……魔法を使ったのね」
「すまない、今後は気を付ける」
「別に、構わないけれど……恥ずかしいわ」
言いながら少し拗ねたような彼女が可愛らしくて、乗馬したまま手を伸ばして、ぽんぽんと頭を撫でた。グローブ越しに伝わってくるフィーネの感触は甘美で彼女にもっと触れられたらと思うけれど、考えとともに読み取れた感情は怯えだったので、それ以上のことはしない。
「……条件はなんでも飲む、だからあまり難しい文章を手紙にしないでくれ。……じゃあ、そろそろいくな」
「ええ……お気をつけて」
茶化すように言いながら、ランチの入ったトートを馬の鞍につけているサイドバックに入れて合図を送って走らせる。
何度も振り返って手を振りたかったが、女々しいと思われては困るので彼女が見えなくなるまで走り去ってから、彼女の屋敷を振り返った。
そうすると今更、本当にフィーネが自分の手元に来てくれると、若干業務的ではあったが言ってくれたことが、どうしようもないほどに嬉しくて、フォルクハルトに軽く引かれるくらいには、調子よく魔物を片付けられるのだった。
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