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「は?好きにすごしたらいいんじゃないの」

 モーリスはそう言い残して、眠りについた。好きにと言われたが、特にやる事が思い浮かばず、窓の外を眺め始めてはや一時間。暇だという感想以外浮かんでこない。

 全く変わらない景色だったがそれでも見つめ続けていれば案の定、ガラスにぽつりと雨粒が当たる。
 一つ、二つと増えていきあっという間に雨が降ってきた。

 ザァ、と耳心地の良い音が聞こえる。

 空は暗い鈍色をしていて、何となしに昔の記憶を思い出した。今の天気も昔の天気も雨の確率は変わらないはずなのに、覚えている幼少期の記憶は雨ばかりだ。

 ジトジトと湿っぽく、住処の隙間から水が流れ込んできて、床の赤茶けた土に水が染み込んで、触れるだけで不快になる。
 いっその事、外へ出てシャワーの代わりに、雨を浴びられたら、どれほど心地いいだろうと思い、住処の外へ出ようとする。けれど、決まって母親に引き戻される。

 母親は、ここから出ることが出来るのに、俺には許されない。その不条理に幼心に違和感を覚えていた。
 ジメジメとした暗い住処で、昆虫のように傾いた屋根の下でじっと息を潜めて生きていた。

 ……あの頃が一番……。

 そこから先の言葉は思い浮かばなくて、窓から視線を離す。
 死んだようにぐっすりと眠っているモーリスをじっと眺めて、ちょっかいを出してみようかと思うが、そんな馬鹿な事をして何になると思い直し、ちょっかいはやめて本当に眠っているのか試そうと口を開く。

 「……ばぁか」

 口に出してみて何か無性に恥ずかしくなった。自分が何をしたかったのか全く分からない。
 モーリスは一切反応を示さずに、規則正しい寝息を立てている。布団を肩までしっかりとかけて蹲って眠っている様は、まるで幼児だ。
 顔が整っているし、可愛げがあると言えばあるが、彼の肉体が存外がっしりとしていて筋肉質なことを知っている分、なんとも言えない気持ちになった。

 モーリスを見ている事にも飽きて、部屋を出ようと扉の前に立つ。
 この屋敷で働き初めてまだ二日目、突然俺が態度を豹変させて、襲い掛かる可能性や脱走を試みる可能性を誰かが考えていれば、休みの時間など与えられなかったはずだ。警戒していればモーリスだってこんな昼間からぐっすりと殺人鬼の前で眠ったりしないだろう。

 要は……少し、少しだけ妙な行動はしないと信用されているんだろうな。
 出来ればそれが続いたら、嬉しい。行動も取りやすいし、美味い飯のためなら、働くのだって吝かじゃない。

 だから、今日は、屋敷の中を少し見て回るだけだ。他意はない。

 そうしっかりと自分に言い聞かせてから扉を開けた。


 まずは見知った場所を見て回ろうと思い、食堂へと足を向ける。
 飯時ではないし、使用人の数も多くはないので誰も居ない。来ても特にやることは無かった。それと同時に夕食が楽しみだと考えれば少し腹が減った気がする。

 ここは飯時以外に来ると腹も減るし良くない。

 別の場所へと足を運ぼうとすると、聞き覚えのある、柔らかい声が微かに聞こえた。

「ふふっ…………やだ、…………だってば」

 薄暗い食堂のどこから声が聞こえてくるのかと、辺りを見回す、すると厨房の方からあかりが盛れているのが見えた。

 そうか、コックは厨房にずっと居んのか。

 そこに顔を出しに来たフロランが喋っているんだろう。

 半開きの扉から、中を覗き込む。厨房の作業台に茶と茶菓子を置いて、立ったまのフロランが居おり、俺らに向けたのはまた違った、照れくさそうな笑みで話をしていた。
相手は、コックだろうが、声は聞こえてこない。

 せっかくの、恋人の時間を邪魔するのは悪いだろうと、ここを去ろうと思ったが、そもそも、フロランは女では無いらしいし、爺さんらしいしと言うことが一瞬で頭に駆け巡って、自分の常識との乖離に気が遠くなる。

「……あ、あれ?シリル、どうしたの?」
「……いや、さんぽを」
「職場を?さんぽ?楽しいかなそれ……まぁ、良いか」

 扉越しに目が合って、何も悪いことをしていないのにドキリと心臓が跳ねる。
 早く去ろうと、後ずさる、するとフロランはパッと何か思い立ったように、厨房の中へと歩き去る。

「ちょっとまってて」

 数秒して戻ってくると、封筒よりも小さい紙袋を手渡してくる。

「厨房でサボってた事、秘密にして欲しいんだけど、いいよね?」

 少し艶っぽく彼女は笑って、紙袋を握らせてくる。中を見ると、彼女が茶菓子にしているクッキーだった。

 口止め料のつもりらしい、そもそも誰にも言うつもりなんか無いので、こくこくと頷くと、フロランはぱちぱちと目を瞬かせた。

「あれ?ふふっ可愛いな君。子供扱いするなって怒らないんだね」
「……甘い物は、嫌いじゃねぇ」
「そっか、良かった。……じゃあね」

 パタパタと手を振って、彼女は厨房に戻って行った。これ以上ここに居る理由もなく、クッキーを片手に歩き出す。

 ……厨房の中、コックがいたんだよな?

 息を潜めているかのように静かだったし、全く声もしなかった。一度もあった事がないが、とんでもなく物静かな奴らなんだろうか。

 袋に手を入れて、クッキーをひとつ手に取り口に入れる。バターとナッツの香りが口いっぱいに広がって、噛めばホロホロと崩れていく。

「礼ぐらい、言えばよかったな」

 世の中、生きていればこんな美味いもん食うこともあんだな。

 貧民街の端で、ボロを着たおっさんが飲んだくれながら「生きてりゃいい事ある!!」と叫んでいた事を思い出す。
 今はそれも否定できない。

 今ここで全て食べてしまえば、もう二度と食べられないかもしれないと思い、ふたつめのクッキーに伸ばした手を止める。

 クローゼットの奥か、チェストの下。

 隠せば取り上げられる心配も無くなるかもしれない。でも、見つかってしまったらそれまでだ。

 大口を開けてガサガサと紙袋の中身を口に詰め込む。

「ンっ、」

 口いっぱいに頬張ると、クッキーが詰まって呼吸ができない。思い切り嚥下して何とか飲み込むが口の中がパサパサする。

 モゴモゴと、口の中に残った味を唾液で溶かして、楽しむ。腹の中に入ったのだから、もう食べられなくても食べたという事実は残る。

 空腹を満たして廊下を歩き出す、次はどこへ行こうか。




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