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2 当たり前のように優先されたもの
しおりを挟む成人を間近に控えたある日の事、エトヴィンに呼び出されて、エミーリエは彼の執務室を訪れた。
きっと結婚生活についての話題だろうと心を躍らせて彼の元へと向かう。
それに、いつだってエトヴィンに会えるということはとてもうれしい事だ。彼は結婚することが決まっている大切な人だ。金色の髪に青い瞳、このフォルスト伯爵家の人たちはとても美しい容姿をしている。
地味なエミーリエとは違って、彼らはまるで物語の主人公のような人たちだ。
そんなエトヴィンに、エミーリエは淡い憧れにも似た恋心を抱いていた。
「失礼します。エミーリエです」
扉をノックして、返答が返ってきたら扉をひらき、小さく微笑みを浮かべて執務室へと入った。
扉正面の大きな執務机にはとても真剣そうな顔をして彼が座っており、視界に入るだけでドキドキしてしまうのはエミーリエが小心者だからだろうか。
「やっと来たか。遅いぞエミーリエ」
「はい。申し訳ございません。……それでお話というのは、なんでしょうか」
「……なに、それほど大層な話じゃない。ああ、それよりもな、お前に任せている。長雨の対策や隣国から続く街道の話はどうなっている?」
エトヴィンはすぐに本題に入らずに、最近の仕事で滞っている部分について聞いてきた。
しかし、手紙でも何度も催促されてはいるのだが、何度聞かれても催促されても困る。
隣国との国境に存在しているこのフォルスト伯爵領だが何かと災害が多い土地だ。
この屋敷がある北側は問題がないが南側の土地に今年は長雨が続き土砂が街道をふさいでしまっているのだ。
そのせいで多くの商人や隣国からの来訪者が立ち往生する羽目になり、今のところ身分の高い使者などは特別に別ルートから通すことにしているが、それには多くの費用が掛かる。
隣国はなにやら王位継承の件について揉めているらしくこちらの国にやってくる人間も後を絶たない。
それを何度もやっていては、財政的に厳しいフォルスト伯爵領の財政悪化につながるだけだ。
どうにかする必要がある、ということは彼らもわかっているのだが、どうにかしろとエミーリエにせっつくだけでどうにもなっていないのが現状なのだ。
「何度も申し上げていますとおり、復旧改善には多額の費用を要します。それに今後の災害対策の費用も捻出し予め対策を行っていかなければ、長雨のたびに多大な出費を必要とすることになるでしょう」
「ああ、良い。そういう面倒くさい話は。そうじゃなくて、適当に必要ない所から金を出して使えばいい。もちろん必要最低限な!」
「……ですが、すでに売り払える不動産や、事業などは売ってしまっています。これ以上どこからどのように金銭を出すおつもりですか」
「だから! 必要ない所を切ればいいだろ! そうだ! 教会と共同出資している救貧院への出資を取りやめろ。そうすれば復旧費用の足しなる!」
「それは……あまり望ましい行為とは思えないのですが」
「黙れ! じゃあどこから金を出すっていうんだ。言ってみろ」
「……」
威圧的に声を荒げるエトヴィンにエミーリエは押し黙ってただ俯いた。
どこからと言われれば多額の費用をかけているロッテの教育費から出すのが一番だと思う。
正直なところエミーリエから見てもこの領地の限界は近い。
それは今でも蝶よ花よと育てられている何も知らない彼女の為に使われている予算が莫大だという事と、それ以前の問題もある。
フォルスト伯爵家……というよりもフォルスト伯爵夫妻は、長い間不妊に悩まされていた。彼らはどうしても可愛い女の子が欲しいという理由で第二子を望んでいた。
そして懸命に治療に励んでいたが、その子供にたいする強い思いを利用され、治療とは言えないような莫大な金銭が必要となる不確かなものに収入の多くをつぎ込み、そのあたりから家業が傾いた。
現在はその家業すらも売り払い、大きな街道の使用費が主な収入源なのだが、それも危うい状況だ。
だからこそ、今はすこし質素な暮らしになったとしても復旧費を捻出するしかない。
救貧院への支援を打ち切るなんてことをすれば治安の悪化につながるし、教会からの不興を買うことになる。
なにより救貧院に頼るような人間には後がないのだ。今は我慢できる人間が我慢するべきではないだろうか。彼らからこれ以上奪っては立ち行かなくなってしまう。
そう口にしなくとも、エトヴィンはその今の状況をわかっているはずだ。
「……」
「言えないなら、さっさと俺の言った通りにしろ。わかったな」
「……はい」
それでも彼は、自分たちの生活……ロッテの夢のような生活を守ろうとしているというだけだ。
可愛らしい彼女を夢みがちなままの少女でいさせたいという気持ちがその選択をさせている。
それはきっとロッテの為ではない、自分たちの可愛い彼女を愛しているという幻想に酔っているだけだ。
彼女の事を思うならもっと他に策はある。
「ああ、それでお前に言うことがあったんだった」
思い出したように話は、エミーリエを呼び出した本題へともどった。
それになんだか、嫌な予感を覚えつつもエミーリエはエトヴィンへと視線をもどす。
「お前との結婚だが、取りやめることになった」
なんてことないように言うエトヴィンにエミーリエは呆然と「は?」と声を漏らした。
そんなエミーリエの声など聞こえていないような様子で、エトヴィンは適当に続けた。
「つまりは婚約破棄って事だ。まぁ、仕方ないだろ。跡継ぎの俺に子供や嫁がいたら、ロッテの将来の子を跡継ぎに据えてやれないし」
「……」
「ただ、お前を今更放り出すほど俺たちも鬼畜じゃない。これまでもお前はよく働いてくれたしな、正式な妻ではなく、愛人としてここに置いてやろう」
まるで慈悲深い事を言っているような顔つきをしているエトヴィンは、いつもと変わらずかっこよく見えてしまって何を言っているのか正しく判断できない。
「今までと同じように仕事もさせてやるし、何なら、一人ぐらい子供をもうけてやってもいい。公的な権利は一切ないけどな」
……仕事……子供……。
「お前みたいな没落貴族の娘をここまで好待遇で住まわせてやるやつなんて他にはないぞ、これからもよく俺たちに尽くしてくれよ」
……もしかして、初めからそのつもりで……。
「話は終わりだ。婚約破棄の手続きはすでに終わってるから、お前はこれまでと変わらずにあの角部屋で静かに過ごしてくれ」
一方的に話は打ち切られて、エミーリエは目の前が真っ暗になったような心地がして、頭がくらくらした。
そしてそのまま部屋へと戻った。
呆然としたままエミーリエは数日間を過ごした。その間に言われていた仕事をこなし、土砂災害の普及工事に手を付けた。
ただ自身の事は何も考えられずに、落ち込んだまま救貧院の支援を打ち切り、ロッテを甘やかすことに全力を尽くしている、フォルスト伯爵家の人間の代わりに教会とやり取りをした。
教会から送られてきたのは災害の爪痕がのこっている村の風景や、今でも困窮している人々のスケッチなどだった。
これらの事がすべてフォルスト伯爵家のせいではない。しかし領民からの税収があるからフォルスト伯爵家は領の統治に専念することができ、領民は安心して仕事に専念できる。
元から貴族と領民の関係は、それが正常なのだ。
その象徴ともいえる救貧院という福祉施設をこの多くの人が被害に遭ったタイミングで見捨てて、自分たちの生活をとることはやってはいけない事だ。
けれどもエミーリエに力はない。
従う以外の術を知らない。こうしてただ多くの可能性を失って、さらには希望さえも失って搾取されるだけの人生を送る。
そのスケッチを見て、領民からの声を聞いて、エミーリエはやっとフォルスト伯爵家にとって自分もただそうして奪われるだけの領民と同じ、踏み台に過ぎなかったのだと気が付いた。
初恋はとっくに枯れ果てて、干上がった心に悲しい手紙が次々届いてどんどんと心が苦しくなっていく。
エミーリエもまた、誰かから奪い搾取することに加担して、何も知らないロッテは今日も天真爛漫に笑みを浮かべてガゼボでお茶会を開いているのだ。
あまりにも自分とはかけ離れていて、彼女のせいでという気持ちが生まれそうになる。
けれどもそうではないだろう、ロッテはただ大切にされているだけだ。夢を見せられているだけなのだ。
そしてその夢を見せることこそ至上の喜びとしている人がいる。彼らは、エミーリエにとても大きな傷をつけた。もう尽くした時間も、自分のやった人を不幸にしてしまう仕事も戻ったり無くなったりしないのだ。
であればどうすることが正解か。
エミーリエは、コルクのボードに教会からの手紙を纏めだした。ショッキングで悲しい事実をわかりやすく切り貼りして纏めていく。
せめて受けた傷跡には及ばずとも、爪痕ぐらいは残していこうとそう思った。
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