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狩場のアクシデント プレセア暦三〇四六年 コーネル領の森
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コーネル家は領地内にある広大な森に出かけて狩りをするのを趣味にしていた。
狩りは野生動物が農作物を荒らすのを防ぐ意味もあった。年に何度か増えすぎた野生動物が里山や農園まで下りてくるのだ。特に猪類の被害は大きかった。
里山から少し奥に入ったところで狩りは行われた。その日は父、長女のグレース、二女マチルダ、三女ジェシカが狩りに参加した。
もちろん参加する以上仕留めた獲物の量と質で競うことになる。それがコーネル家のしきたりだった。
十歳になっていたロアルドは狩りの才能が皆無なために母と八歳の末娘ロージーとともに平地に張ったテント下で待機していた。
しかししばらくしてロージーが退屈を感じ始めた。
「お母さま、私も狩りをしてみたい」
「まあロージー、たくましくて才能があるのも認めるけれど、あなたはまだ早いわ。あと二年してからね」
「でもやってみたい。お兄様と一緒ならできるよ。お願い」
目を輝かせて請い願われると母パトリシアは諌めることもできなくなった。
「あまり奥に行っては駄目ですよ」
「大丈夫、お母さま」ロージーは母と兄を交互に見た。
「ロアルド、ロージーに無茶をさせないようにお願いね」
「わかりました、母上」ロアルドは答えた。「僕が見ています」
その頃ロージーはすでに簡単な魔法は放てるようになっていた。小さな雷を落として獲物を動けなくしたりすることも可能になっていたのだ。
獣類ではなく鳥類程度なら狩りも可能だろうと母もロアルドも思った。
八歳の妹、十歳の兄は、打ち落とした獲物を回収する従者を一人連れて森の中へと入った。
鳥類を打ち落とす訓練はロージーにとってはもはや朝飯前になっていた。屋敷の庭でもロアルドと二人でいるときにやっている。
ロアルドが投げ上げた毬にエアロやサンダーを当てる訓練をゲーム仕様でしていたのだ。そのことは他の者には内緒だった。
「ロージー、この森の鳥たちは動きが素早い。むやみやたらサンダーを放っても当たらない。そんなことをしたら疲れるだけだから」ロアルドは妹に言い聞かせた。
ロージーのサンダーは対象を焦がすことなく筋肉の動きを麻痺させる程度のもので、狩りには最適だったが、その発動範囲は半径十メートル程度で、水平に動く対象に当てるのは難易度が高かった。
風を当てるエアロならある程度広い範囲に放つことができる。
「まずはエアロを当てるんだ。そうすれば飛んでいるものは飛ばされないように翼を広げ、一時宙に止まる。そこにサンダーを放つんだ」
「はい、お兄さま」ロージーはにっこりと笑った。
年少者が放つ小さな魔法でもコンビネーションとタイミングで大きな成果を得ることができる。そのことを二人は知っていた。
ロージーはロアルドの指示する通りにエアロとサンダーを組み合わせ、鳥類を数羽落とした。
「お見事です、ロージーお嬢様」ロージーの腕前に従者は唸った。
はじめからロージーが外すことはなかった。
「うまいよ、お前は才能がある」ロアルドは褒めた。
それは決してお世辞ではなかった。たちまちのうちに従者の持つ袋は仕留めた獲物で埋まっていった。
「肉が傷んでおりません。食材として申し分無いものです」
従者が褒め称えるのでロージーは得意気に言った。「もっと大きな獲物をたくさん狩りたいわ。お姉さまたちに負けたくない」
「マチルダお姉さま、ジェシカお姉さまたちは獣類を仕留めているんだよ。ロージーにはまだ早いよ」
「お兄さまが協力してくれたらできるはずよ」
「僕には魔力がないから……」
「でも使えるでしょう? 私が貸してあげるわ」ロージーは無邪気に笑った。
「わかったよ」ロアルドは苦笑した。
それから急に鳥類の狩りが捗った。
次々とエアロとサンダーが発現して獲物が落ちていく。それはまるで二人が競うように魔法を放っているかのようだった。
「ロージーお嬢様、もう運べません、これ以上は」従者が泣き言を言った。
「お父様にお願いしてみるわ」父の収納魔法に頼るようだ。
「確かにちょっと疲れたかも」ロージーは息を切らせていた。
「ごめん、ロージー、僕の配慮が足りなかった。かなり魔力を消耗してしまっている」
「あれだけ連続で打っていては当然です」従者が言った。
三人は母が待つテントが張ってある平地にまで戻り、父たちが帰るのを待った。
間もなく長女のグレースが戻ってきた。
「見て見て、グレースお姉さま」ロージーは得意気に獲物の山を見せた。
「まあ、ロージー。これをあなたが」グレースは目を丸くした。
「偉いでしょ?」
「偉いわ、ロージー」
神学科の五年生だったグレースは学年首席ですでに必要な単位は取得して十年生相当のレベルに達していた。
将来の神官も約束されていた。慎ましやかな性格で物腰も悠然としている。今回の狩りに参加はしていたが、むやみな殺生をせず、人里に近づこうとする獣類を追い払う魔法を使っていただけだった。
「これなら食用になるわね。防腐処置を施しておきましょう」ロージーの収穫にグレースは腐食予防の魔法を施した。「お父さまとマチルダ、ジェシカが無益な殺生をしていないことを祈るわ」
「きっとたくさん狩ってるね」ロージーが無邪気に言った。
その時地鳴りがしたようにその場にいた者は感じた。
森の木々が揺れ、鳥たちが飛び去った。
「父上たちではなさそうだな」ロアルドは洩らした。
ロージーがロアルドに縋る。
グレースが頭に挿していた髪挿しを手にした。グレースの青く長い髪が舞った。
木々にぶち当たり、幹の皮をこそぎながら猪類ボアラの群れが駆けてきた。
グレースが髪挿しをふるうと、ロージー、ロアルド、従者たちを囲む防御壁が現れた。
グレースが持つ髪挿しは魔法の杖の一種だった。杖がなくても魔法を発動させることはできるが、あった方が精度があがる。思い通りに発現させることができるのだ。
ボアラの群れはその防御壁にぶち当たるものもいたが、そのまま速度を落とすことなく走り続けた。
「姉さまたちに追われたわけでもなさそうだね」
「何を呑気なことを言っているの、ロアルド!」無益な殺生を好まないグレースは壁を築いて防御に徹するだけだった。「後ろから大物が来るわ」
猪類ボアラは逃げ惑っているだけだった。
その群れの後ろから三メートル以上あろうかという獣が現れた。
「どうしてここにベアガが?」グレースは呟いた。
それは本来このような森の入口あたりには棲息していない獣だった。熊類の中では最も大きな部類に入る。そして凶暴だった。
ロージーがサンダーを放った。
しかしロージーのサンダーに野獣はまばたきひとつしなかった。
「魔力の無駄だよ、ロージー」ロアルドは妹を制した。
「グレース姉さま、重力魔法を!」
猪類ボアラがまだ逃げ惑っていた。一部は走り去り、人里の方へ向かっている。
グレースは防御壁を張りながら重量負荷をかける魔法を放った。
それでベアガは確かに動きを鈍らせたが、動けなくなったわけではない。しかもグレースはその状態を保つために魔法を維持しなければならなかった。
「ヘビーロードとリキファを組み合わせるんです」
「リキファ?」
「グレース姉さまは持っていらっしゃらなかったか……」
「私はマチルダやジェシカとは違います」
「でも姉さまもできるはずです。できるだけ細かくクェイクを使って、そこにレインを組み合わせれば」
「今、リキファの術式を調べているわ」
グレースの脳内には標準魔法辞典がまるごと記憶されていた。A級以下の魔法なら記載されている術式をもとにどのような魔法も組み立てて発動させることができる。ある意味グレースは万能の魔法師だった。
ただグレースは、そうして組む立てた魔法を一時的に保存できても長期保存する能力がなかった。一日たてば消えてしまうのだ。だからいつでも自由に打てる魔法はマチルダやジェシカの百分の一にも満たない。グレースの記憶能力は書物を何万冊も保存することに使われていた。
「調べていては間に合わないので、僕の言うとおりに動いてください」ロアルドは姉に依頼した。
「どうやるの?」防御壁を維持したまま、グレースはロアルドを顧みた。
「できるだけ、平坦な、木の根がはっていないところにベアガを誘導します。その地面に微細振動を加え、土、砂、腐葉土の層に分離させ、そこに雨を降らせるのです」
「簡単に言うのね」
「もともとここは三千年前は海だったところ。うまくいくはずです」
「どうするつもりなのかわからないわ」
そう言いながらもグレースは弟の言うことに従った。たとえ野獣であってもその首を刎ねることができない性分なのだ。生きたままベアガの動きをとめる。そのためには愚弟の言うことにも従うのだった。
重量負荷で動きが鈍くなったベアガが徐々に平地の真ん中にあるテントまで近づいてきた。
グレースは防御壁を維持したまま、ベアガに重量負荷をかけつつ、その足元の地面に対してクエイクを放った。
「小麦粉をふるいにかけて落とすようなイメージでクエイクを」ロアルドは言った。
「わかりません!」グレースが料理をしたことはない。
「とにかく、細かく、速く震わせて、あとは雨を降らすことができれば」
「これ以上同時に魔法は使えないわ!」
「お兄さま!」ロージーがロアルドを見た。
大気中の湿気が集まってベアガが立つエリアに大粒の雨となって降り注いだ。
ベアガが立つ地面に水があふれ、ぬかるみとなり、ベアガの足が沈み始めた。
ベアガは足をとられ、四つん這いになった。その前足もぬかるみに沈みだした。
五メートル四方の領域が、底なし沼のようになってベアガの体を捉え、動きを完全に封じた。
体が半分以上沈んで身動きできなくなったベアガは咆哮をあげることしかできなくなった。
ようやく、グレースは防御壁を解除した。すでに猪類ボアラの姿はなかった。
そこへ父とマチルダ、ジェシカが戻ってきた。
「大丈夫だったの?」
ジェシカは動けないベアガの首を刎ねようと魔剣を振り上げたが、グレースの「やめて!」の声を聞いて思いとどまった。
「グレースお姉さまは殺生が嫌いよね」ジェシカは呆れたように言った。「命も危なかったのに」
「それにしても、底なし沼をつくる魔法なんて、さすがはお姉さま」マチルダが感心している。「どうやるのか教えてもらいたいわ」
「液状化らしいわ。ロアルドに教えてもらったの。重量負荷だけだと維持できなかったわ」
「ロアルドが?」ジェシカが信じられないという顔でロアルドを見た。
「グレース姉さまに毎日魔法理論を教わっているから。他にもっと良い方法があったかもしれないけれど、これしか思いつかなかった」
「それでも咄嗟に思いつくのはたいしたものよ」グレースはほめた。「雨はロージーが降らせてくれたのかしら?」
「えっとね、それは……」ロージーはロアルドの顔色を窺った。
「ロージーだよ。助かった。ありがとう」ロアルドが言った。「それよりボアラが何頭も麓へ走って行ったよ。農園が荒らされないか心配だよ」
「そうだったわね」
マチルダとジェシカは加速して麓へと走って行った。
「それにしても、どうしてこんなことに?」
グレースの疑問に父エドワードが答えた。
「たぶん、これのせいだろ」
エドワードが収納魔法から取り出したのはベアガのこどもだった。
「ボアラの群れと衝突してケガをしたみたいだ」
たしかにボアラくらいの大きさのベアガがぐったりとしていた。
泥沼に沈んでいる親ベアガが叫びを上げてもがいている。
「パトリシア、治癒魔法を頼む」
母パトリシアが治癒魔法を施し、仔ベアガは回復して元気になった。
「あとは親ベアガだな。こどもの姿が見えなくなって、ボアラを追い回したんだ。すまんな、仔ベアガは私が回収してしまっていた」
エドワードは親ベアガに言い聞かせるようにつぶやくと、鎮静系の魔法を施したうえで、親ベアガがはまっているぬかるみをゆっくりと固めていった。
完全に地固めが完了する前に親ベアガは脱出した。
親子ベアガは、連れだって山の奥へと去って行った。
「こんな人里近くには通常いないのだがな」
「殺生をしなくて良かったわ」グレースが言った。
「ボアラの群れがどうなるかは知らんぞ」エドワードは言う。「農作物への被害を考えると、マチルダとジェシカは黙っていないだろうな」
「そうね」母パトリシアは微笑んだ。
「お兄さま」ロージーが小声でロアルドに話しかけた。「わたし、雨なんて降らせられないわ」
「大丈夫、術式はわかったからあとで練習しよう」
ロアルドは片目をつぶった。
狩りは野生動物が農作物を荒らすのを防ぐ意味もあった。年に何度か増えすぎた野生動物が里山や農園まで下りてくるのだ。特に猪類の被害は大きかった。
里山から少し奥に入ったところで狩りは行われた。その日は父、長女のグレース、二女マチルダ、三女ジェシカが狩りに参加した。
もちろん参加する以上仕留めた獲物の量と質で競うことになる。それがコーネル家のしきたりだった。
十歳になっていたロアルドは狩りの才能が皆無なために母と八歳の末娘ロージーとともに平地に張ったテント下で待機していた。
しかししばらくしてロージーが退屈を感じ始めた。
「お母さま、私も狩りをしてみたい」
「まあロージー、たくましくて才能があるのも認めるけれど、あなたはまだ早いわ。あと二年してからね」
「でもやってみたい。お兄様と一緒ならできるよ。お願い」
目を輝かせて請い願われると母パトリシアは諌めることもできなくなった。
「あまり奥に行っては駄目ですよ」
「大丈夫、お母さま」ロージーは母と兄を交互に見た。
「ロアルド、ロージーに無茶をさせないようにお願いね」
「わかりました、母上」ロアルドは答えた。「僕が見ています」
その頃ロージーはすでに簡単な魔法は放てるようになっていた。小さな雷を落として獲物を動けなくしたりすることも可能になっていたのだ。
獣類ではなく鳥類程度なら狩りも可能だろうと母もロアルドも思った。
八歳の妹、十歳の兄は、打ち落とした獲物を回収する従者を一人連れて森の中へと入った。
鳥類を打ち落とす訓練はロージーにとってはもはや朝飯前になっていた。屋敷の庭でもロアルドと二人でいるときにやっている。
ロアルドが投げ上げた毬にエアロやサンダーを当てる訓練をゲーム仕様でしていたのだ。そのことは他の者には内緒だった。
「ロージー、この森の鳥たちは動きが素早い。むやみやたらサンダーを放っても当たらない。そんなことをしたら疲れるだけだから」ロアルドは妹に言い聞かせた。
ロージーのサンダーは対象を焦がすことなく筋肉の動きを麻痺させる程度のもので、狩りには最適だったが、その発動範囲は半径十メートル程度で、水平に動く対象に当てるのは難易度が高かった。
風を当てるエアロならある程度広い範囲に放つことができる。
「まずはエアロを当てるんだ。そうすれば飛んでいるものは飛ばされないように翼を広げ、一時宙に止まる。そこにサンダーを放つんだ」
「はい、お兄さま」ロージーはにっこりと笑った。
年少者が放つ小さな魔法でもコンビネーションとタイミングで大きな成果を得ることができる。そのことを二人は知っていた。
ロージーはロアルドの指示する通りにエアロとサンダーを組み合わせ、鳥類を数羽落とした。
「お見事です、ロージーお嬢様」ロージーの腕前に従者は唸った。
はじめからロージーが外すことはなかった。
「うまいよ、お前は才能がある」ロアルドは褒めた。
それは決してお世辞ではなかった。たちまちのうちに従者の持つ袋は仕留めた獲物で埋まっていった。
「肉が傷んでおりません。食材として申し分無いものです」
従者が褒め称えるのでロージーは得意気に言った。「もっと大きな獲物をたくさん狩りたいわ。お姉さまたちに負けたくない」
「マチルダお姉さま、ジェシカお姉さまたちは獣類を仕留めているんだよ。ロージーにはまだ早いよ」
「お兄さまが協力してくれたらできるはずよ」
「僕には魔力がないから……」
「でも使えるでしょう? 私が貸してあげるわ」ロージーは無邪気に笑った。
「わかったよ」ロアルドは苦笑した。
それから急に鳥類の狩りが捗った。
次々とエアロとサンダーが発現して獲物が落ちていく。それはまるで二人が競うように魔法を放っているかのようだった。
「ロージーお嬢様、もう運べません、これ以上は」従者が泣き言を言った。
「お父様にお願いしてみるわ」父の収納魔法に頼るようだ。
「確かにちょっと疲れたかも」ロージーは息を切らせていた。
「ごめん、ロージー、僕の配慮が足りなかった。かなり魔力を消耗してしまっている」
「あれだけ連続で打っていては当然です」従者が言った。
三人は母が待つテントが張ってある平地にまで戻り、父たちが帰るのを待った。
間もなく長女のグレースが戻ってきた。
「見て見て、グレースお姉さま」ロージーは得意気に獲物の山を見せた。
「まあ、ロージー。これをあなたが」グレースは目を丸くした。
「偉いでしょ?」
「偉いわ、ロージー」
神学科の五年生だったグレースは学年首席ですでに必要な単位は取得して十年生相当のレベルに達していた。
将来の神官も約束されていた。慎ましやかな性格で物腰も悠然としている。今回の狩りに参加はしていたが、むやみな殺生をせず、人里に近づこうとする獣類を追い払う魔法を使っていただけだった。
「これなら食用になるわね。防腐処置を施しておきましょう」ロージーの収穫にグレースは腐食予防の魔法を施した。「お父さまとマチルダ、ジェシカが無益な殺生をしていないことを祈るわ」
「きっとたくさん狩ってるね」ロージーが無邪気に言った。
その時地鳴りがしたようにその場にいた者は感じた。
森の木々が揺れ、鳥たちが飛び去った。
「父上たちではなさそうだな」ロアルドは洩らした。
ロージーがロアルドに縋る。
グレースが頭に挿していた髪挿しを手にした。グレースの青く長い髪が舞った。
木々にぶち当たり、幹の皮をこそぎながら猪類ボアラの群れが駆けてきた。
グレースが髪挿しをふるうと、ロージー、ロアルド、従者たちを囲む防御壁が現れた。
グレースが持つ髪挿しは魔法の杖の一種だった。杖がなくても魔法を発動させることはできるが、あった方が精度があがる。思い通りに発現させることができるのだ。
ボアラの群れはその防御壁にぶち当たるものもいたが、そのまま速度を落とすことなく走り続けた。
「姉さまたちに追われたわけでもなさそうだね」
「何を呑気なことを言っているの、ロアルド!」無益な殺生を好まないグレースは壁を築いて防御に徹するだけだった。「後ろから大物が来るわ」
猪類ボアラは逃げ惑っているだけだった。
その群れの後ろから三メートル以上あろうかという獣が現れた。
「どうしてここにベアガが?」グレースは呟いた。
それは本来このような森の入口あたりには棲息していない獣だった。熊類の中では最も大きな部類に入る。そして凶暴だった。
ロージーがサンダーを放った。
しかしロージーのサンダーに野獣はまばたきひとつしなかった。
「魔力の無駄だよ、ロージー」ロアルドは妹を制した。
「グレース姉さま、重力魔法を!」
猪類ボアラがまだ逃げ惑っていた。一部は走り去り、人里の方へ向かっている。
グレースは防御壁を張りながら重量負荷をかける魔法を放った。
それでベアガは確かに動きを鈍らせたが、動けなくなったわけではない。しかもグレースはその状態を保つために魔法を維持しなければならなかった。
「ヘビーロードとリキファを組み合わせるんです」
「リキファ?」
「グレース姉さまは持っていらっしゃらなかったか……」
「私はマチルダやジェシカとは違います」
「でも姉さまもできるはずです。できるだけ細かくクェイクを使って、そこにレインを組み合わせれば」
「今、リキファの術式を調べているわ」
グレースの脳内には標準魔法辞典がまるごと記憶されていた。A級以下の魔法なら記載されている術式をもとにどのような魔法も組み立てて発動させることができる。ある意味グレースは万能の魔法師だった。
ただグレースは、そうして組む立てた魔法を一時的に保存できても長期保存する能力がなかった。一日たてば消えてしまうのだ。だからいつでも自由に打てる魔法はマチルダやジェシカの百分の一にも満たない。グレースの記憶能力は書物を何万冊も保存することに使われていた。
「調べていては間に合わないので、僕の言うとおりに動いてください」ロアルドは姉に依頼した。
「どうやるの?」防御壁を維持したまま、グレースはロアルドを顧みた。
「できるだけ、平坦な、木の根がはっていないところにベアガを誘導します。その地面に微細振動を加え、土、砂、腐葉土の層に分離させ、そこに雨を降らせるのです」
「簡単に言うのね」
「もともとここは三千年前は海だったところ。うまくいくはずです」
「どうするつもりなのかわからないわ」
そう言いながらもグレースは弟の言うことに従った。たとえ野獣であってもその首を刎ねることができない性分なのだ。生きたままベアガの動きをとめる。そのためには愚弟の言うことにも従うのだった。
重量負荷で動きが鈍くなったベアガが徐々に平地の真ん中にあるテントまで近づいてきた。
グレースは防御壁を維持したまま、ベアガに重量負荷をかけつつ、その足元の地面に対してクエイクを放った。
「小麦粉をふるいにかけて落とすようなイメージでクエイクを」ロアルドは言った。
「わかりません!」グレースが料理をしたことはない。
「とにかく、細かく、速く震わせて、あとは雨を降らすことができれば」
「これ以上同時に魔法は使えないわ!」
「お兄さま!」ロージーがロアルドを見た。
大気中の湿気が集まってベアガが立つエリアに大粒の雨となって降り注いだ。
ベアガが立つ地面に水があふれ、ぬかるみとなり、ベアガの足が沈み始めた。
ベアガは足をとられ、四つん這いになった。その前足もぬかるみに沈みだした。
五メートル四方の領域が、底なし沼のようになってベアガの体を捉え、動きを完全に封じた。
体が半分以上沈んで身動きできなくなったベアガは咆哮をあげることしかできなくなった。
ようやく、グレースは防御壁を解除した。すでに猪類ボアラの姿はなかった。
そこへ父とマチルダ、ジェシカが戻ってきた。
「大丈夫だったの?」
ジェシカは動けないベアガの首を刎ねようと魔剣を振り上げたが、グレースの「やめて!」の声を聞いて思いとどまった。
「グレースお姉さまは殺生が嫌いよね」ジェシカは呆れたように言った。「命も危なかったのに」
「それにしても、底なし沼をつくる魔法なんて、さすがはお姉さま」マチルダが感心している。「どうやるのか教えてもらいたいわ」
「液状化らしいわ。ロアルドに教えてもらったの。重量負荷だけだと維持できなかったわ」
「ロアルドが?」ジェシカが信じられないという顔でロアルドを見た。
「グレース姉さまに毎日魔法理論を教わっているから。他にもっと良い方法があったかもしれないけれど、これしか思いつかなかった」
「それでも咄嗟に思いつくのはたいしたものよ」グレースはほめた。「雨はロージーが降らせてくれたのかしら?」
「えっとね、それは……」ロージーはロアルドの顔色を窺った。
「ロージーだよ。助かった。ありがとう」ロアルドが言った。「それよりボアラが何頭も麓へ走って行ったよ。農園が荒らされないか心配だよ」
「そうだったわね」
マチルダとジェシカは加速して麓へと走って行った。
「それにしても、どうしてこんなことに?」
グレースの疑問に父エドワードが答えた。
「たぶん、これのせいだろ」
エドワードが収納魔法から取り出したのはベアガのこどもだった。
「ボアラの群れと衝突してケガをしたみたいだ」
たしかにボアラくらいの大きさのベアガがぐったりとしていた。
泥沼に沈んでいる親ベアガが叫びを上げてもがいている。
「パトリシア、治癒魔法を頼む」
母パトリシアが治癒魔法を施し、仔ベアガは回復して元気になった。
「あとは親ベアガだな。こどもの姿が見えなくなって、ボアラを追い回したんだ。すまんな、仔ベアガは私が回収してしまっていた」
エドワードは親ベアガに言い聞かせるようにつぶやくと、鎮静系の魔法を施したうえで、親ベアガがはまっているぬかるみをゆっくりと固めていった。
完全に地固めが完了する前に親ベアガは脱出した。
親子ベアガは、連れだって山の奥へと去って行った。
「こんな人里近くには通常いないのだがな」
「殺生をしなくて良かったわ」グレースが言った。
「ボアラの群れがどうなるかは知らんぞ」エドワードは言う。「農作物への被害を考えると、マチルダとジェシカは黙っていないだろうな」
「そうね」母パトリシアは微笑んだ。
「お兄さま」ロージーが小声でロアルドに話しかけた。「わたし、雨なんて降らせられないわ」
「大丈夫、術式はわかったからあとで練習しよう」
ロアルドは片目をつぶった。
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