そして僕たちはひとつになる

hakusuya

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綺麗な遺体

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 窓が無いため人工的に十分な光量が確保された地下の一室。
 煌々こうこうとライトが照らされているにもかかわらず、そこには暗く重苦しい雰囲気がただよっていた。
 術衣をまとった男女が三人。
 それを取り巻くかのように背広姿の男たちと制服警官が数名、成り行きを見守っていた。
 無駄な音をたてないように計らってはいるが、地下室の構造上、僅かな靴音でさえ、響きわたってしまう。
 見守る彼らの視線の先、ライトの光が最も集積された解剖台の上に一つの遺体があった。
(綺麗な遺体だ……)
 背広姿の男の一人、繁澤辰彦しげさわたつひこは心の中で呟いた。
 そう、死体という表現はふさわしくない。それは遺体だった。
 何度か解剖には立ち会ったことがあるが、これほどまでに綺麗な遺体は初めてだった。
 ただ動かないというだけで、眠っているかのような錯覚すら覚える、若く美しい女性の遺体。
 冷たい解剖台の上に仰臥位ぎょうがいに横たえられ、無粋ぶすいな男たちの前に一糸纏いっしまとわぬ姿をさらすことなど、死せずして有り得なかったことだろう。
「それでは、はじめます」
 術衣にキャップ、マスクをした三人の中で最も年配と思われる男が、そう言葉を発した。
 一同は揃って遺体に向かって深くこうべを垂れた。
 外表所見の観察が始められ、執刀医が所見を読み上げ、傍らにいる術衣の女性がデジカメで撮影しては、ある程度まとまったところでカードに記載を行っていた。
 仰向けの状態では、遺体に傷一つ無いようだった。
 肌はまだほんのりと赤みがある。そのため本当に眠っているかのようだ。
 頭から手や足の指先、爪まで観察は行われたが、目立った所見は無い。軽く茶色に染められた髪は綺麗に揃っている。穏やかな表情。目や口は自然な様子で閉じられていた。
 まもなく遺体は、うつ伏せの状態に体位変換された。
 背部の方には死斑が出現していた。
 肩甲骨のある部分、臀部、踵など圧迫されていたと思われるところだけ死斑がなく、白っぽく抜けたように見える。このことから遺体は仰向けの状態のまま、ある程度の時間が経過していたことが窺われた。被害者は仰向けの状態で発見されたことに合致する。
「かなり死斑がはっきり出ているな。失血死でもなさそうだ。現場での出血量はどうだった?」
 執刀医が助手をしている若い術者に聞いた。
「ほとんど無いようです。衣服へ少量付着。地面へも少量。二十ミリリットルもないかもしれません」
 背中に注目すると、背骨のやや左に小さな穴があり、その周囲に凝血が少量付着していた。このあたりが凶器の刺し口と思われる。
 スケールを当てて、直径が五ミリに満たないことが分かる。きり状の凶器であることは、誰の目にも明らかだった。
「この、刺入口周囲の色合いが分かるように写真を撮っておいてくれ」
 執刀医が、デジカメを手にした女性に言った。
 刺し口の周囲半径一センチ程度が、明らかに周囲の死斑とは異なる色調をしていた。
「皮下出血ですかね」と、若い助手が訊いた。
「かもしれない。あまりに短時間で死亡したため、明瞭な出血斑にならなかった」
 繁澤しげさわが後で聞いた話だと、錐状の凶器のの部分が当たった痕とのことだった。直径二センチもある柄とは、随分変わった凶器だ。刺し口からゾンデを挿入すると、約十センチの深さまで進んだ。
 外表所見の観察は、それこそ隅々まで行われた。若い女性であるため、着衣の乱れが全く無かったとの報告ではあったが、規定どおり膣内の内容物の採取まで行われた。
 そして、解剖にうつる。仰臥位の状態で、胸部にY字型の切開が加えられた。
 大胆なメス裁きで、素人目には容赦なく切り刻んでいるかのような印象を受けた。
 はさみ状の器具やのこぎり状の器具が使用され、前胸部を覆う皮下組織や大胸筋などにメスが入れられ、胸骨、肋骨、肋間筋で形成される胸壁が大きく取り除かれた。
 これで胸郭内の心臓や肺の様子が肉眼で観察できる。
「タンポンだな」と、しばらくして執刀医は呟いた。「穿通性心臓外傷により出血した血液が急速に心嚢内に貯留し、心タンポナーデによる急性心不全をきたした。おそらく大量に出血する間もなく息絶えた。死斑が著明だったことから失血性ショックでないこともうかがわれる」
 解剖は直接死因が判明したあとも容赦なく続けられ、腹腔内臓器、婦人科領域、さらには頭蓋内の脳にまで及んだ。
 繁澤は、いつもの事ながら途中で退場を余儀なくさせられた。めまいと嘔気が酷くなるのだ。
 目がくらんで立っていられなくなるため、所轄の警部に一言告げると、ふらふらと退出した。
 背中に警官たちの哀れむような視線を感じるが、そちらの方はもう慣れっこになっていた。
 綺麗な遺体が死体に変わる過程。目を覆いたくなるのを無理してでも自分の目に焼き付けようとしてきた。
 被害者の家族の慟哭どうこくも視覚、聴覚のみならず肌でも感じてきた。
 できるだけ現場に臨み、現場の空気を肌で感じて共有する。それが繁澤のやり方だ。
 今までそうしてきたし、これからもそうありたい。だから現場に自由に顔を出せる今のポストについたのだった。
 トイレの個室にこもり、さして食べてはいなかった胃の内容物をこれ以上ないくらい嘔吐した。
 子供の頃から乗り物に酔いやすい方だったので、吐くのには慣れていたが、そのあとの血圧低下が元へ戻るまでの時間が苦痛だった。
 薄暗い廊下の汚いソファにもたれるように坐り込み、額に手をあてて仰向けにのけぞった。
 どれくらい時間が経過しただろう。そろそろ解剖も終了した頃だと思ったとき、鼻や目を刺激する薬品独特の臭いに紛れて、コーヒーの香りがしてきた。
 顔を上げると、白く細い手に包まれた紙コップが目に入る。湯気がコーヒーの香ばしい香りを運んで来た。
「自販機のものですけど、いかがですか?」
 繁澤の目線の高さまでしゃがみこむようにしてコーヒーを差し出したのは、二十五、六歳くらいの若い女性だった。
 長い髪を後ろで束ねた色白で目鼻立ちがはっきりしているかなりの美人だ。長い白衣を纏っているが、中は緑色をした術衣のアンダーウェアだった。
 長い睫毛の綺麗な眼から、先ほどの解剖時にデジカメを手にして記録係を務めていた女性だと分かった。
 白衣についているネームプレートに「大学院生 薊 鏡子」と刻字されていた。
「あ、どうも、ありがとう」
 繁澤は、礼を言って、コーヒーを受け取った。胃にしみる感じがするかと思ったが、暖かいものは、夏だというのに冷えていた繁澤の体を十分高揚させた。
「もう、終わったんですね。結果はどうでした?」
「のちほど、板垣いたがき先生が書類を作成されます。私のような院生が申し上げることではないので」
 彼女は丁寧に頭を下げると、僅かに微笑をたずさえながら、繁澤の前から去っていった。心地よいほのかな香りを残して。
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