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スーパーガール
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その日の午後、棚橋さんは病院で手当てを受けたあと、職場に戻ってきた。
腕をギプスで固定された姿が痛々しい。やはり左手首を骨折しており、癒合に5週間ほどかかるそうだ。
「大げさに見えますが、ずれがほとんどない骨折だそうです。じきに完治しますよ」
棚橋さんはデスクに着くと、心配して取り囲む皆を、安心させるように言った。
「さあ、解散解散。僕のことは気にせず、皆さん仕事に集中してください」
私は何も言えず、自分の仕事に戻った。ファイル整理の続きをしていると、背後から社員の話し声が聞こえる。
「あれはリハビリが必要ですよね」
「利き腕じゃなくて幸いだけど、生活に支障が出るよな」
「仕事は俺らが頑張ればいいけど、家事とかどうするんだろ」
「そういえば、課長は独身の一人暮らしだもんな」
ファイルを手にしたまま、私は考え込んだ。
掃除、洗濯、食事の仕度――棚橋さんは当分、片手で家事をしなければならない。その光景を思い浮かべ、胸がきりきりと痛む。
「よし……決めた」
彼が怪我をしたのは私のせいだ。思いきって、申し出てみよう。
棚橋さんは仕事が終わると、コーヒーを一杯飲んでから帰宅する。私は、そのタイミングを見計らってデスクに近付いた。
「あのっ、棚橋さん。私、今からコーヒーを淹れますけど、ご一緒にいかがですか」
わざとらしくならないよう自然に言うつもりが、かえって力んでしまう。棚橋さんはそれに気付いてか、「よろしくお願いします」と、目を細めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
湯気の立つカップを棚橋さんのデスクに置き、私は近くの椅子を引き寄せて座った。日の暮れた事務所にいるのは、幸いなことに二人だけ。
「どうしたんですか?」
「えっ?」
棚橋さんの優しい声が、静かなオフィスに響く。
「何か言いたそうだ。バイトが終わる時間はとうに過ぎてるのに、僕のコーヒーに付き合うのも珍しい」
「は……はい」
ミルクも砂糖も入れない、カフェインたっぷりの液体を口にした。苦い、けれど頭が冴えてくる。勇気が湧く。
「棚橋さん、私……」
「うん?」
ギプスの腕をちらりと見やる。ダメだ、涙が出そうになる。でも、だからこそ言わねばならない。いや、言わせてほしい。
「私に、家事を手伝わせてください」
「家事?」
棚橋さんは目を瞬かせる。何のことかわからない様子だ。
「食事とか、掃除とか、洗濯とか、私にやらせてください」
「……ああ」
彼はギプスを見下ろし、納得の顔になる。
「こんな状態だから、心配してくれるんだね。でも大丈夫だよ。片方の手が使えるし、家事くらい何とかなるから」
予想どおりの返事だ。棚橋さんは遠慮して断るのだろうが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「棚橋さんのこと、もちろん心配です。だけど、それだけじゃなくて……私のために、手伝わせてほしいのです」
「君のため?」
「はい、お願いします!」
カップを持つ手が震えるけれど、目は逸らさない。しっかりと、心からの気持ちを伝えたい。
「一体、どういうことだい。なぜ君のために、僕の家事を手伝うんだ?」
「それは……」
カップの中身を飲み干し、デスクに置いた。棚橋さんはゆっくりと飲みながら、私の答えを待っている。
「棚橋さんが怪我をしたのは、私のせいです。私が万引犯を捕まえれば、あなたは骨折しなくて済んだのに。私のせいで、大変なことになってしまいました」
「ええっ?」
棚橋さんは、心底驚いている。こんなふうに困惑するところを、初めて見た。
「いや、ちょっと待ってください。きみのせいだなんて、僕はもちろん誰も思ってません。もしきみが捕まえようとして、きみに何かあったら、それこそ大変なことだよ」
「違うんです、違うんです」
私なら、あんな万引犯、ワンパンで倒せます。あるいは力技で押し倒し、関節技を極めて、警備員に引き渡して終わりだったんです!
そう言おうとして、言葉に詰まる。私は、どうしても本当のことを言う勇気がない。
「末次さん……」
きちんと説明できず、私はいつの間にか両手で顔を覆い、泣いていた。
彼を困らせるばかりなのに、どうしても言えない。
情けないやら、辛いやらで。
「わかった」
「……」
顔を上げると、棚橋さんは苦笑していた。私は涙を拭い、まっすぐに背筋を伸ばす。
「僕は、女性に泣かれると弱い……特に、きみのような子に泣かれると、困ってしまうんだ」
「……え」
私のような子? それは、どういう意味でしょうか。
と訊こうとするが、棚橋さんが本当に困った様子なので、口に出せなかった。
「きみに、家事をお願いするよ」
「いいんですか?」
「いいも何も、きみが望んだことでしょう」
私は笑顔になった。自分でもあきれるくらい、さっきまでの情けなさも辛さも忘れ、希望にあふれる笑顔全開で、棚橋さんと向き合う。
「ただし、無理はしないこと。僕のサポートをして、きみの生活に支障が出るようでは、本末転倒だからね」
「はいっ。無理はしません。でも精一杯頑張ります!」
選手宣誓のごとく、大きな声で約束する。
そんな私に、棚橋さんは困ったように、少し嬉しそうに笑いかけた。
腕をギプスで固定された姿が痛々しい。やはり左手首を骨折しており、癒合に5週間ほどかかるそうだ。
「大げさに見えますが、ずれがほとんどない骨折だそうです。じきに完治しますよ」
棚橋さんはデスクに着くと、心配して取り囲む皆を、安心させるように言った。
「さあ、解散解散。僕のことは気にせず、皆さん仕事に集中してください」
私は何も言えず、自分の仕事に戻った。ファイル整理の続きをしていると、背後から社員の話し声が聞こえる。
「あれはリハビリが必要ですよね」
「利き腕じゃなくて幸いだけど、生活に支障が出るよな」
「仕事は俺らが頑張ればいいけど、家事とかどうするんだろ」
「そういえば、課長は独身の一人暮らしだもんな」
ファイルを手にしたまま、私は考え込んだ。
掃除、洗濯、食事の仕度――棚橋さんは当分、片手で家事をしなければならない。その光景を思い浮かべ、胸がきりきりと痛む。
「よし……決めた」
彼が怪我をしたのは私のせいだ。思いきって、申し出てみよう。
棚橋さんは仕事が終わると、コーヒーを一杯飲んでから帰宅する。私は、そのタイミングを見計らってデスクに近付いた。
「あのっ、棚橋さん。私、今からコーヒーを淹れますけど、ご一緒にいかがですか」
わざとらしくならないよう自然に言うつもりが、かえって力んでしまう。棚橋さんはそれに気付いてか、「よろしくお願いします」と、目を細めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
湯気の立つカップを棚橋さんのデスクに置き、私は近くの椅子を引き寄せて座った。日の暮れた事務所にいるのは、幸いなことに二人だけ。
「どうしたんですか?」
「えっ?」
棚橋さんの優しい声が、静かなオフィスに響く。
「何か言いたそうだ。バイトが終わる時間はとうに過ぎてるのに、僕のコーヒーに付き合うのも珍しい」
「は……はい」
ミルクも砂糖も入れない、カフェインたっぷりの液体を口にした。苦い、けれど頭が冴えてくる。勇気が湧く。
「棚橋さん、私……」
「うん?」
ギプスの腕をちらりと見やる。ダメだ、涙が出そうになる。でも、だからこそ言わねばならない。いや、言わせてほしい。
「私に、家事を手伝わせてください」
「家事?」
棚橋さんは目を瞬かせる。何のことかわからない様子だ。
「食事とか、掃除とか、洗濯とか、私にやらせてください」
「……ああ」
彼はギプスを見下ろし、納得の顔になる。
「こんな状態だから、心配してくれるんだね。でも大丈夫だよ。片方の手が使えるし、家事くらい何とかなるから」
予想どおりの返事だ。棚橋さんは遠慮して断るのだろうが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「棚橋さんのこと、もちろん心配です。だけど、それだけじゃなくて……私のために、手伝わせてほしいのです」
「君のため?」
「はい、お願いします!」
カップを持つ手が震えるけれど、目は逸らさない。しっかりと、心からの気持ちを伝えたい。
「一体、どういうことだい。なぜ君のために、僕の家事を手伝うんだ?」
「それは……」
カップの中身を飲み干し、デスクに置いた。棚橋さんはゆっくりと飲みながら、私の答えを待っている。
「棚橋さんが怪我をしたのは、私のせいです。私が万引犯を捕まえれば、あなたは骨折しなくて済んだのに。私のせいで、大変なことになってしまいました」
「ええっ?」
棚橋さんは、心底驚いている。こんなふうに困惑するところを、初めて見た。
「いや、ちょっと待ってください。きみのせいだなんて、僕はもちろん誰も思ってません。もしきみが捕まえようとして、きみに何かあったら、それこそ大変なことだよ」
「違うんです、違うんです」
私なら、あんな万引犯、ワンパンで倒せます。あるいは力技で押し倒し、関節技を極めて、警備員に引き渡して終わりだったんです!
そう言おうとして、言葉に詰まる。私は、どうしても本当のことを言う勇気がない。
「末次さん……」
きちんと説明できず、私はいつの間にか両手で顔を覆い、泣いていた。
彼を困らせるばかりなのに、どうしても言えない。
情けないやら、辛いやらで。
「わかった」
「……」
顔を上げると、棚橋さんは苦笑していた。私は涙を拭い、まっすぐに背筋を伸ばす。
「僕は、女性に泣かれると弱い……特に、きみのような子に泣かれると、困ってしまうんだ」
「……え」
私のような子? それは、どういう意味でしょうか。
と訊こうとするが、棚橋さんが本当に困った様子なので、口に出せなかった。
「きみに、家事をお願いするよ」
「いいんですか?」
「いいも何も、きみが望んだことでしょう」
私は笑顔になった。自分でもあきれるくらい、さっきまでの情けなさも辛さも忘れ、希望にあふれる笑顔全開で、棚橋さんと向き合う。
「ただし、無理はしないこと。僕のサポートをして、きみの生活に支障が出るようでは、本末転倒だからね」
「はいっ。無理はしません。でも精一杯頑張ります!」
選手宣誓のごとく、大きな声で約束する。
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