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ホットミルク
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「鈴木さんは、お休みの日は何をされているのですか?」
ビアガーデンでの飲み会で、知らぬ間に隣に座っていた若い女の子に、真面目に訊かれた。同じ物流部の事務員、松平まどかさんだった。
女の子という言い方は社会人である彼女に対して失礼な表現かもしれない。
だけど、僕の年齢からすると、やはり女性というより女の子である。今年の春に短大を卒業して入社したばかりだというから、20か21だ。秋には35歳になる僕とは、ひとまわり以上の年の差がある。
どういう趣旨で訊いてるのかなと考えたが、ここは飲み会という砕けた場所だ。始まってそろそろ2時間が経過し、飲み食いに飽きて退屈する頃である。
特に深い意味もなく、なんとなく近寄って話しかけたのだろうと判断し、こちらも軽く答えることにした。
「休みの日か……そうだな」
何をしてるんだっけと、暫し考える。僕は、休みに何をしているのだろう。
「まずは、近所の公園を散歩して」
いつの頃からか始めた、休日の習慣である。無精者の僕にしては、よく続いていると思う。
「小森公園ですか?」
「ん? あ、ああ」
ちょっと驚き、あらためて彼女の顔を見直す。なんとなく話しかけてきたわりに、彼女が真面目な顔つきでいるのが気になった。
小森公園というのは、僕の住む2階建てアパートから歩いて3分の場所にある、名前のとおり小さな森のような公園だ。
だが、彼女はその小森公園が近所だと知っている……ということは、僕のアパートも知っているというわけで?
「よく分かったね」
特別な含みもない、素直な疑問だった。
しかし彼女は、こちらが思いもよらぬほど動揺し、さあっと頬を紅くさせる。
見事なほど、鮮やかな変化だった。
「す、すみません。私、実はその、小森公園の近くにお気に入りのカフェがあるんです。ずっと前に、その店の斜め前にあるアパートに、鈴木さんが入っていくのを見かけたことがあって」
たどたどしくわけを話す彼女は、かなり気まずそうに、恥ずかしそうに、膝の上で指を絡めている。
その反応に、僕は閃くものがあった。
が、すぐに「まさか……」とそれを打ち消した。
まさかまさか、である。
後ろの席でわあっと笑い声が湧き、僕はそのほうへ振り返った。若い連中が、男女数人でなにやら盛り上がっている。
物流部には若い社員が大勢いる。男女で協力し合って仕事するので仲が良い。この飲み会も、彼らが中心となって企画したそうだ。僕達古株は、ついでに誘われたようなものだ。
「盛り上がってるなあ」
君はいいのかい? こんなオジサンといるより、あっちのほうが楽しそうだぞ――
そう言おうとして彼女に笑いかけ、喉元で止めてしまった。彼らの賑やかさには、ひとかけらの関心もないかのように、彼女は僕と向き合っている。
まだまだ会話を続ける姿勢だった。
「えっと……」
きちんと対応しなければと、変に焦る。
こんなふうに彼女と見つめ合うのは、初めてな気がした。他の女性社員に比べると化粧も薄く、どちらかといえば幼い顔立ちだと思った。
「ああ、そうそう、カフェね。アパートの斜め前にあるカフェと言うと、あれかな? クリーム色の壁に小豆色の屋根の」
「はい、そうです。Milky Wayです」
ぱっと明るい顔になり、元気よく答えた。
ミルキーウェイ――
あの店は、ミルキーウェイという屋号だったのか。アパートに住んで10年以上になるが、全く知らなかった。あまりにも近場すぎて、かえって入り損ねている。
ミルキーウェイは、色合いが地味で目立たない感じの外観だ。カフェというより昔ながらの喫茶店といった店に、彼女のような常連客がいるとは意外である。
ともかく松平さんは、そのカフェの窓から、アパートに入っていく僕を目撃したわけだ。ずっと前にといっても、彼女が入社したのはつい最近だから、春先辺りだろうか。
「ふ~ん、そうだったのか。いや、それは偶然だったね」
どこで誰が見ているか、わからないものだ。身ぎれいにしているつもりだが、その時はどうだったのかと、今更ながら心配になる。
仕事の関係者、特に部下には生活感丸出しの姿は見せたくない。
「はい、本当に偶然で……」
今にも消え入りそうな声。
そういえばこの子は活発なタイプではない。
商品がぎっしりつまったダンボール箱を荒っぽく運ぶ男性社員に、おっかなびっくり伝票を渡すところをしばしば見かける。
声を掛けそこね、ウロウロしていることもある。そんな時、僕がでかい声で「事務員さんが来てるぞ!」と、男連中に教えてやるのだが。
「あのう、それで、お散歩して、そのあとは」
「えっ? あ、そうか」
遠慮がちに、話の続きを促された。
(休みの日ね、休みの日休みの日……)
どうしたことか、記憶が曖昧だ。
何度しっかり思い出そうとしても駄目だった。
僕は愕然とする。
独身三十男の休日。僕の場合は朝の散歩をして、あとはぼお~っとして過ごす。要するに、大したことをしてないと、そんな返事になってしまうようだ。
(情けないな、我ながら)
興味深そうに耳を傾けてくれる彼女に対し、ばつが悪かった。松平さんは直属の部下であるから、なおさら立つ瀬がない。
僕は泡が残るだけのジョッキを無理に呷った。
「いや~、言われてみれば僕は無趣味だね。仕事しかないって感じだ」
乾いた笑いは、若いやつらのエネルギッシュな歓声に虚しくかき消される。
だが彼女は席を立とうともせず、相変わらず僕の傍にいる。声をかけた手前、勝手に離れるのは気が引けるのかもしれない。
しかしそんな気遣いは無用だ。ここは僕が道化になってやらねば。
「あっはは……ごめんごめん、退屈させちゃったね」
明るく笑い、彼女が立ち去りやすい雰囲気を作ったつもりだ。
ところが彼女は真面目な顔。しかも動こうとしない。
「松平さん?」
「あのっ、私も……」
「えっ?」
彼女は椅子ごと僕に近付く。
ピンクのブラウスの、フリルに縁取られた襟が風に揺れている。
そういえば、このブラウスは自社製品だ。一気に売れるが消えるのも早い流行ものと違い、少ないロットながらも丁寧なつくりが好評で、地道に流通を続ける息の長いアイテムだ。
彼女の接近に戸惑いつつ、そんなことを考えたりする。
「私も、お散歩したいです!」
僕の好きな色とデザイン。
彼女にとてもよく似合っていると、その時初めて気が付いた。
ビアガーデンでの飲み会で、知らぬ間に隣に座っていた若い女の子に、真面目に訊かれた。同じ物流部の事務員、松平まどかさんだった。
女の子という言い方は社会人である彼女に対して失礼な表現かもしれない。
だけど、僕の年齢からすると、やはり女性というより女の子である。今年の春に短大を卒業して入社したばかりだというから、20か21だ。秋には35歳になる僕とは、ひとまわり以上の年の差がある。
どういう趣旨で訊いてるのかなと考えたが、ここは飲み会という砕けた場所だ。始まってそろそろ2時間が経過し、飲み食いに飽きて退屈する頃である。
特に深い意味もなく、なんとなく近寄って話しかけたのだろうと判断し、こちらも軽く答えることにした。
「休みの日か……そうだな」
何をしてるんだっけと、暫し考える。僕は、休みに何をしているのだろう。
「まずは、近所の公園を散歩して」
いつの頃からか始めた、休日の習慣である。無精者の僕にしては、よく続いていると思う。
「小森公園ですか?」
「ん? あ、ああ」
ちょっと驚き、あらためて彼女の顔を見直す。なんとなく話しかけてきたわりに、彼女が真面目な顔つきでいるのが気になった。
小森公園というのは、僕の住む2階建てアパートから歩いて3分の場所にある、名前のとおり小さな森のような公園だ。
だが、彼女はその小森公園が近所だと知っている……ということは、僕のアパートも知っているというわけで?
「よく分かったね」
特別な含みもない、素直な疑問だった。
しかし彼女は、こちらが思いもよらぬほど動揺し、さあっと頬を紅くさせる。
見事なほど、鮮やかな変化だった。
「す、すみません。私、実はその、小森公園の近くにお気に入りのカフェがあるんです。ずっと前に、その店の斜め前にあるアパートに、鈴木さんが入っていくのを見かけたことがあって」
たどたどしくわけを話す彼女は、かなり気まずそうに、恥ずかしそうに、膝の上で指を絡めている。
その反応に、僕は閃くものがあった。
が、すぐに「まさか……」とそれを打ち消した。
まさかまさか、である。
後ろの席でわあっと笑い声が湧き、僕はそのほうへ振り返った。若い連中が、男女数人でなにやら盛り上がっている。
物流部には若い社員が大勢いる。男女で協力し合って仕事するので仲が良い。この飲み会も、彼らが中心となって企画したそうだ。僕達古株は、ついでに誘われたようなものだ。
「盛り上がってるなあ」
君はいいのかい? こんなオジサンといるより、あっちのほうが楽しそうだぞ――
そう言おうとして彼女に笑いかけ、喉元で止めてしまった。彼らの賑やかさには、ひとかけらの関心もないかのように、彼女は僕と向き合っている。
まだまだ会話を続ける姿勢だった。
「えっと……」
きちんと対応しなければと、変に焦る。
こんなふうに彼女と見つめ合うのは、初めてな気がした。他の女性社員に比べると化粧も薄く、どちらかといえば幼い顔立ちだと思った。
「ああ、そうそう、カフェね。アパートの斜め前にあるカフェと言うと、あれかな? クリーム色の壁に小豆色の屋根の」
「はい、そうです。Milky Wayです」
ぱっと明るい顔になり、元気よく答えた。
ミルキーウェイ――
あの店は、ミルキーウェイという屋号だったのか。アパートに住んで10年以上になるが、全く知らなかった。あまりにも近場すぎて、かえって入り損ねている。
ミルキーウェイは、色合いが地味で目立たない感じの外観だ。カフェというより昔ながらの喫茶店といった店に、彼女のような常連客がいるとは意外である。
ともかく松平さんは、そのカフェの窓から、アパートに入っていく僕を目撃したわけだ。ずっと前にといっても、彼女が入社したのはつい最近だから、春先辺りだろうか。
「ふ~ん、そうだったのか。いや、それは偶然だったね」
どこで誰が見ているか、わからないものだ。身ぎれいにしているつもりだが、その時はどうだったのかと、今更ながら心配になる。
仕事の関係者、特に部下には生活感丸出しの姿は見せたくない。
「はい、本当に偶然で……」
今にも消え入りそうな声。
そういえばこの子は活発なタイプではない。
商品がぎっしりつまったダンボール箱を荒っぽく運ぶ男性社員に、おっかなびっくり伝票を渡すところをしばしば見かける。
声を掛けそこね、ウロウロしていることもある。そんな時、僕がでかい声で「事務員さんが来てるぞ!」と、男連中に教えてやるのだが。
「あのう、それで、お散歩して、そのあとは」
「えっ? あ、そうか」
遠慮がちに、話の続きを促された。
(休みの日ね、休みの日休みの日……)
どうしたことか、記憶が曖昧だ。
何度しっかり思い出そうとしても駄目だった。
僕は愕然とする。
独身三十男の休日。僕の場合は朝の散歩をして、あとはぼお~っとして過ごす。要するに、大したことをしてないと、そんな返事になってしまうようだ。
(情けないな、我ながら)
興味深そうに耳を傾けてくれる彼女に対し、ばつが悪かった。松平さんは直属の部下であるから、なおさら立つ瀬がない。
僕は泡が残るだけのジョッキを無理に呷った。
「いや~、言われてみれば僕は無趣味だね。仕事しかないって感じだ」
乾いた笑いは、若いやつらのエネルギッシュな歓声に虚しくかき消される。
だが彼女は席を立とうともせず、相変わらず僕の傍にいる。声をかけた手前、勝手に離れるのは気が引けるのかもしれない。
しかしそんな気遣いは無用だ。ここは僕が道化になってやらねば。
「あっはは……ごめんごめん、退屈させちゃったね」
明るく笑い、彼女が立ち去りやすい雰囲気を作ったつもりだ。
ところが彼女は真面目な顔。しかも動こうとしない。
「松平さん?」
「あのっ、私も……」
「えっ?」
彼女は椅子ごと僕に近付く。
ピンクのブラウスの、フリルに縁取られた襟が風に揺れている。
そういえば、このブラウスは自社製品だ。一気に売れるが消えるのも早い流行ものと違い、少ないロットながらも丁寧なつくりが好評で、地道に流通を続ける息の長いアイテムだ。
彼女の接近に戸惑いつつ、そんなことを考えたりする。
「私も、お散歩したいです!」
僕の好きな色とデザイン。
彼女にとてもよく似合っていると、その時初めて気が付いた。
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