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フルーツケーキ
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連休明けの出社日。社員食堂を出た廊下で、沢口とばったり出くわした。
避けるほどではないけれど、何となく気まずい。俺はバツが悪かったが、俯いている彼女に頭を下げた。あの夜冷たくした事実を、とにかく詫びたのだ。
「じゃあ、今度ごはんに誘ってくれる?」
とたんに笑顔になる彼女に呆れつつ、俺は可笑しくなって「分かった」と返事した。
その食事を境に、俺と沢口は付き合うことになった。
付き合うといっても、俺の場合は淡々としている。おせっかいな姉に世話をされる弟といった格好で、言うなれば一方的な関係だ。
彼女はとてもまめまめしく連絡を寄越し、何かと個人情報を引き出そうとする。俺自身が忘れていた誕生日にプレゼントをくれた時は驚いた。
会話といえば仕事の話、映画の話、音楽の話。
他愛のないものだが、彼女はいつも嬉しそうに俺の顔を見つめていた。
そんなあっさりとした付き合いを続けていた、ある日のこと――
沢口は昼休憩が終わる頃、営業部にやって来た。俺が一人で電話番するのを見つけると、傍に来ていきなり切り出した。
「週末、部屋に行ってもいい?」
その辺りをずっと避けていた俺に業を煮やしたのだろう。ついに関係を迫ってきた。
返事をしようと顔を上げた俺は、心底びっくりする。
篠塚雅子さんがドアを開けて、入って来るところだった。
「バカ、聞こえるだろうが」
早口で注意すると、腕に手を絡めている沢口を押し返した。
「まだお返事をいただいておりません!」
沢口はムッとして、事務的な口調で返事を催促した。雅子さんが不思議そうに、こちらを見ている。
「どうなんですか、木島さんっ」
「それはだな……ええと」
俺は返答に困り、冷や汗を掻いた。雅子さんの登場は、沢口にとって燃料投下である。
「どうかしたの?」
トラブルが起きたと思ったのか、雅子さんが近寄って来た。俺は焦って、椅子を立ち上がる。
「いえっ、何でもないです」
俺が首を左右に振ると、沢口が怒りもあらわに雅子さんに訴えた。
「木島さんが返事をくれないんです」
「えっ、返事?」
やばいと思うが、止める間もない。
「私と付き合ってひと月もたつのに、部屋に入れてくれないんです!」
脳天から足のつま先まで、稲妻に貫かれたような衝撃を受けた。
雅子さんは目を丸くしている。
沢口は勢いよく歩き出すと、乱暴にドアを開けて出て行ってしまった。
シンと静まり返ったフロアに残された俺と雅子さんは、しばらく沈黙する。やがて彼女は、クスクスと笑い出した。
「駄目じゃない、彼女を悲しませては」
呆然とする俺に、雅子さんは優しく微笑む。
罪のない表情と言葉は、とても残酷に俺の胸に突き刺さり、そして、ある決意を芽生えさせた。
「あの、篠塚さん」
「うん?」
自分の席に戻ろうとする雅子さんを、俺は呼び止めた。
ドアの向こうから足音が聞こえる。他の事務員が休憩から帰って来たのだ。迷っている暇はない。
「実は、相談したいことがあるんです。今日、お時間ありますか」
「私に?」
営業部フロアに、二人の事務員が入ってきた。お喋りに夢中になっているのか、俺達のほうへは視線を寄越さない。
焦る気持ちで、雅子さんの返事を待った。
「今日は多分遅くなるから無理だけど……明日の午前中ではだめ?」
「明日と言うと……土曜日で会社は休みですけど、いいんですか」
意外な展開に戸惑いつつ、彼女に確かめていた。
「ええ、大丈夫よ。9時にカノンでいいかな」
雅子さんは、会社近くの喫茶店を指定した。南欧風の建物に、テラコッタのアプローチ。公園の緑に囲まれた、洒落た感じの店である。
「カノン。はい、それでいいです。ありがとうございます!」
俺は舞い上がり、大きな声で礼を言うと、何度も頭を下げていた。
「あら、何の話? また失敗したの、木島君」
二人の事務員が面白そうに近付いて来る。また失敗とは随分な言い方だが、まったく腹が立たない。
「ええ……ちょっと、ハイ」
雅子さんはニコニコしている。天使の笑顔に、俺は蕩けそうだった。
「木島くんって、しょっちゅう篠塚さんにフォローしてもらってるよね」
「そうそう。いくら篠塚さんが優しいからって、甘えてちゃダメよお」
何を言われてもこたえない。明日、雅子さんと二人きりで会えるのだ。しかも会社の外で。
夢のような、でも夢じゃない。ふわふわとした世界に、俺は飛んでいた。
その夜、なかなか寝付けなくて困った。
こんな展開になるとは、思ってもみなかったのだ。
制服ではない彼女と二人きり、向かい合ってお茶を飲んで会話する。それだけのことを俺は何べんも考え、想像し、興奮した。
沢口を怒らせたこと、そして雅子さんが婚約している事実までもすっかり忘れ、有頂天である。
とにかく篠塚雅子という女性のみが頭を占め、心を満たしているのだ。
俺はもうどうしようもなく、彼女に惚れていた。
避けるほどではないけれど、何となく気まずい。俺はバツが悪かったが、俯いている彼女に頭を下げた。あの夜冷たくした事実を、とにかく詫びたのだ。
「じゃあ、今度ごはんに誘ってくれる?」
とたんに笑顔になる彼女に呆れつつ、俺は可笑しくなって「分かった」と返事した。
その食事を境に、俺と沢口は付き合うことになった。
付き合うといっても、俺の場合は淡々としている。おせっかいな姉に世話をされる弟といった格好で、言うなれば一方的な関係だ。
彼女はとてもまめまめしく連絡を寄越し、何かと個人情報を引き出そうとする。俺自身が忘れていた誕生日にプレゼントをくれた時は驚いた。
会話といえば仕事の話、映画の話、音楽の話。
他愛のないものだが、彼女はいつも嬉しそうに俺の顔を見つめていた。
そんなあっさりとした付き合いを続けていた、ある日のこと――
沢口は昼休憩が終わる頃、営業部にやって来た。俺が一人で電話番するのを見つけると、傍に来ていきなり切り出した。
「週末、部屋に行ってもいい?」
その辺りをずっと避けていた俺に業を煮やしたのだろう。ついに関係を迫ってきた。
返事をしようと顔を上げた俺は、心底びっくりする。
篠塚雅子さんがドアを開けて、入って来るところだった。
「バカ、聞こえるだろうが」
早口で注意すると、腕に手を絡めている沢口を押し返した。
「まだお返事をいただいておりません!」
沢口はムッとして、事務的な口調で返事を催促した。雅子さんが不思議そうに、こちらを見ている。
「どうなんですか、木島さんっ」
「それはだな……ええと」
俺は返答に困り、冷や汗を掻いた。雅子さんの登場は、沢口にとって燃料投下である。
「どうかしたの?」
トラブルが起きたと思ったのか、雅子さんが近寄って来た。俺は焦って、椅子を立ち上がる。
「いえっ、何でもないです」
俺が首を左右に振ると、沢口が怒りもあらわに雅子さんに訴えた。
「木島さんが返事をくれないんです」
「えっ、返事?」
やばいと思うが、止める間もない。
「私と付き合ってひと月もたつのに、部屋に入れてくれないんです!」
脳天から足のつま先まで、稲妻に貫かれたような衝撃を受けた。
雅子さんは目を丸くしている。
沢口は勢いよく歩き出すと、乱暴にドアを開けて出て行ってしまった。
シンと静まり返ったフロアに残された俺と雅子さんは、しばらく沈黙する。やがて彼女は、クスクスと笑い出した。
「駄目じゃない、彼女を悲しませては」
呆然とする俺に、雅子さんは優しく微笑む。
罪のない表情と言葉は、とても残酷に俺の胸に突き刺さり、そして、ある決意を芽生えさせた。
「あの、篠塚さん」
「うん?」
自分の席に戻ろうとする雅子さんを、俺は呼び止めた。
ドアの向こうから足音が聞こえる。他の事務員が休憩から帰って来たのだ。迷っている暇はない。
「実は、相談したいことがあるんです。今日、お時間ありますか」
「私に?」
営業部フロアに、二人の事務員が入ってきた。お喋りに夢中になっているのか、俺達のほうへは視線を寄越さない。
焦る気持ちで、雅子さんの返事を待った。
「今日は多分遅くなるから無理だけど……明日の午前中ではだめ?」
「明日と言うと……土曜日で会社は休みですけど、いいんですか」
意外な展開に戸惑いつつ、彼女に確かめていた。
「ええ、大丈夫よ。9時にカノンでいいかな」
雅子さんは、会社近くの喫茶店を指定した。南欧風の建物に、テラコッタのアプローチ。公園の緑に囲まれた、洒落た感じの店である。
「カノン。はい、それでいいです。ありがとうございます!」
俺は舞い上がり、大きな声で礼を言うと、何度も頭を下げていた。
「あら、何の話? また失敗したの、木島君」
二人の事務員が面白そうに近付いて来る。また失敗とは随分な言い方だが、まったく腹が立たない。
「ええ……ちょっと、ハイ」
雅子さんはニコニコしている。天使の笑顔に、俺は蕩けそうだった。
「木島くんって、しょっちゅう篠塚さんにフォローしてもらってるよね」
「そうそう。いくら篠塚さんが優しいからって、甘えてちゃダメよお」
何を言われてもこたえない。明日、雅子さんと二人きりで会えるのだ。しかも会社の外で。
夢のような、でも夢じゃない。ふわふわとした世界に、俺は飛んでいた。
その夜、なかなか寝付けなくて困った。
こんな展開になるとは、思ってもみなかったのだ。
制服ではない彼女と二人きり、向かい合ってお茶を飲んで会話する。それだけのことを俺は何べんも考え、想像し、興奮した。
沢口を怒らせたこと、そして雅子さんが婚約している事実までもすっかり忘れ、有頂天である。
とにかく篠塚雅子という女性のみが頭を占め、心を満たしているのだ。
俺はもうどうしようもなく、彼女に惚れていた。
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