モース10

藤谷 郁

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モース10【最終章】

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 高層ホテルの窓から見渡す世界は幻想的だった。

 雪と、街の光。

 まるで、この世に二人きりになったかのような感覚――



 峰子はガウンを羽織り、窓辺に立った。恋人と久しぶりに肌を合わせた彼女の、満たされた表情がガラスに映る。


「えらく降ってきたな。明日は積もるぞ」


 慧一が背後から近付き、後ろからくるむように抱いた。


「風邪引かないようにしなくちゃな」


 慧一の体は温かい。
 頼もしい腕に包まれて、峰子は心地よく、落ち着いた気分になる。


「そういえば、日本に帰る前にロンドンを観光したよ。同じ会社の人が案内してくれてさ」

「ロンドンを?」


 雪降る東京の街を眺めながら、慧一がふいに話し始めた。


「見どころをいろいろ教えてもらったけど……君は大英博物館とか、行ってみたいだろ」


 峰子は思わず慧一に振り向く。


「うん、もちろん。もう見てきたの?」

「いいや。俺はバッキンガム宮殿とかビッグベンとか、外から眺めただけ。あまり時間もなかったし。まあ、向こうに落ち着いたら二人でゆっくり周ろうぜ」


 峰子はほっとする。

 慧一が楽しみを取っておいてくれたのだと思い、嬉しかった。


「私、行ってみたいところが他にもあるの」

「ほう」


 雪はさらに降りしきる。明日は銀世界になるだろう。

 部屋の温度が下がった気がする。

 慧一は峰子の体が冷えないよう、被さるように包み込んだ。


「その場所はね……」

「待った、当ててやるよ」


 慧一はしばし考え、やがてある答えに行きつく。


「分かった、あれだ!」


 クロゼットに吊るしたスーツを指した。


「サヴィルロウストリート。スーツのオーダー店が並ぶ通りだな」

「慧一さん、よく知ってる……当たりです」


 峰子が目を丸くする。


「スーツフェチの峰子には堪らない聖地、だろ?」

「はい。イギリスはスーツの発祥地だし、本場のブリティッシュスタイルを見てみたい。必ず行ってみたいと思ってるんです。それに……」


 慧一の腕をぎゅっと掴み、小さく言った。


「慧一さんを見つけたきっかけは、スーツなんです。あなたと今こうしていられるのはスーツのおかげだから、その聖地に、お礼に行きたいんです」


 慧一は胸を衝かれた。

 サヴィルロウストリートは、オーダー店の老舗が軒を連ねる通りの名称だ。サヴィルロウは、『背広』の語源になったとも言われる。

 まさに、峰子にとって聖なる地。そして、縁結びの意味もある。


「……なるほど。それは、重要な場所だな」


 峰子の体を強く抱いた。仄かな香りと、温もりが伝わってくる。


「俺は、ずっと寂しかった」


 慧一の、心の底からの声が響く。


「君と一緒に居たい。いつも、いつまでも」


 頬をすり寄せる。今夜は慧一も甘えたい気持ちになっていた。長旅の疲れも、緊張も、峰子の体温を感じることで、嘘のように解けていく。


「峰子、俺は嬉しい。君と出会えて、本当に……」


 二人の出会いは確かに偶然かもしれない。だが慧一は、運命だと感じている。とても奇跡的な運命。


(俺は君のことを、ずっと前から知っていた。そんな気がする。多分、君も……)


 唇を彼女のうなじに熱く押し付け、吐息まじりの囁きを、ほんのりと紅く染まった耳朶に与える。


「愛してるよ」


 窓の外、降りしきる雪に目を当てたまま、峰子は頷く。

 互いの心に、穏やかな熱情がこみ上げてくる。


「私も……愛してる。すごく、幸せです」


 慧一は腕に力を込め、かけがえのない存在を抱きしめる。


「峰子」


 雪に覆われた世界。

 とても静かで、峰子は本当に、この世に二人きりでいるような気がした。


 慧一は言葉を継げずにいる。

 妻に甘えながら、もしかしたら泣いているのかもしれない。


「慧一さん」


 峰子は夫と向き合い、彼の頬をそっと撫でた。

 潤んだ瞳に、煌くエンゲージリングが映り込む。


「きれいだ」


 寄り添い合い、鼓動を重ねた。

 奇跡のような運命、そしてこれからの永遠を、互いの中にはっきりと見とめる。

 心に生成された、それは何より確かな絆だった。


 モース10――


 二人はすべてに、感謝を捧げた。








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