78 / 82
彼女のホーム
3
しおりを挟む「よお、峰子に京子ちゃん。調子はどうだい」
額の汗をハンカチで拭いながら、彼はスペースの前まで来て、明るく笑う。そして、緊張のあまり棒立ち状態の峰子に、連れて来た人物を引き合わせた。
その人は――
「おかあさ……」
峰子は口を開けたまま動かない。いや、動けないでいる。
母親も何と声をかければ良いのか分からないのか、ぎこちなく笑うばかり。
「ちょ……、慧一さん?」
脇に立つ京子が、慧一を責めるように見上げた。峰子が親に内緒で同人活動するのを、彼女も知っている。
しかし慧一は、とても真面目な様子で二人を見守る。すべて承知の上だと、彼の表情が語っていた。
「どうして、お母さんがここに?」
峰子はテーブルに手を付き、首を垂れた。秘密の隠れ家を発見された子どものように、小さくなって。
「おいで、峰子。俺を信じて」
慧一は恋人の肩を包むように抱くと、外に出るよう促した。
「京子ちゃん、留守番を頼むよ。悪いね」
何か言いたそうにする京子に慧一は言い置き、親子と共にホールを出て行った。
「じゃ、俺はひと回りして来ます。三十分もしたら戻りますので」
外に出ると、慧一は峰子と母親を残し、人波へと消えてしまった。
峰子は困惑しながらも、慧一の「俺を信じて」という言葉を頼りに、なんとか取り乱さずに済んだ。なぜ、どうして……という疑問は渦巻くけれど。
母と娘は、複数のホールを繋ぐ広々とした通路の壁際に、凭れるように立った。
互いに口を利かず、イベントを楽しむ人々の様子を眺める。
「暑いわね」
母親はバッグからハンカチを取り出し、峰子に差し出した。
「汗、すごいわよ」
「……」
峰子は黙って受け取ると、首元を拭う。
母親らしいシンプルな柄のハンカチ。子どもの頃も、こうしてよく借りたのを峰子は思い出す。
「……お母さん、どうしてここへ?」
ハンカチを握りしめ、峰子はやっと声を出した。
目を合わせると母親は微笑して、
「慧一さんに誘われたの。イベントに一緒に行きませんかって」
「ええっ?」
まさかとは思った。だけど、本当にそうだと知って峰子はびっくりする。
「お母さんね、いろいろ考えたの。あなたのことを、こんなにじっくり考えたこと、今までなかった」
娘の顔を見上げながら、母親は話し始めた。
同人誌を発見したこと、慧一に相談したこと、そして、これまでの親子関係について。
順序立ててゆっくりと話す。
『この子、こんなに背が高かったかしら』と、今更気づきながら。
すべて聞き終えた峰子は目を閉じ、ふうっと息をついた。
母親は何もかも知っていた。その上でイベント会場に来たのだ。そして、こんな秘密を持つ娘に対して怒るどころか、そのまま認めている。
奇跡のようだ。
「私はずっと、あなたを苦しめてたのね」
峰子はハッと目を開け、母親を見返す。
「本当に、ごめんなさい」
母親は、今までの親子関係を詫びた。
子どもを縛っていた、目に見えぬ糸を解くように、これまでのことを詫びたのだ。
「お母さん……」
峰子は今、解き放たれた。
彼女を圧迫し続けてきたものから自由になるのを、全身で感じる。
隣に立つ母を、あらためて見つめた。
いつの間にか、ずいぶん年を取っていることに気が付く。
胸がキリキリと痛んだ。
「お母さん」
「なあに」
「私も、ごめんね」
「……」
母親はぽかんとし、呆れたように笑う。
「本当にあなたは、お人好しなんだから」
「えっ……お、お人好し?」
「そんなことじゃ、外国に行っても大変よ。きちんと意思を持たないと。YESかNOか、はっきり言えなくちゃね」
「……」
絶句する峰子に、母親はいたずらっぽく片目をつむる。そして、いつものようにシャキッと背筋を伸ばした。
「ほら、あなたの旦那さま」
峰子の背後を指差す。その先には、上着を肩に引っ掛け、悠々と歩いて来る慧一の姿があった。
「あのっ、お母さん。もしかして、ぜんぶ知って……」
「峰子に幸せになってほしい。それだけはいつまでも変わらない、私の願いよ」
母親は娘の背中に手を当て、彼のほうへと勢いよく押し出した。
「きゃあっ」
つんのめって転びそうになる峰子を、慧一が慌てて抱きとめる。峰子の表情を彼は確かめ、嬉しそうに笑った。
「ご、ごめんなさい」
周囲の視線が集まるのを感じ、峰子は急いで離れようとするが、そのまま強く抱きしめられた。
「あのっ、慧一さん?」
「良かったな、峰子」
慧一の腕に力が入る。もう逃れられない。
「俺はいつだって、君が大好きだ!」
誰が見ていようが、ここがどこであろうが、慧一には関係ない。
ただ、峰子が自由になり、自分の腕の中に納まった。それが何よりの幸せ。彼女の素のままの表情が、愛しくて堪らないのだ。
「君はもう飛び立てる。俺の胸をホームにして、疲れたらいつでも休むといい。俺も、温かな君の胸を借りるだろう。そうして俺達は一緒に生きるんだ。これから……」
「慧一さん……っ」
青空に、夏の太陽が輝く。
ギャラリーができても、峰子はもう構わない。
しっかりと抱き合い、揺るぎのない想いを、愛する人に伝えた。
額の汗をハンカチで拭いながら、彼はスペースの前まで来て、明るく笑う。そして、緊張のあまり棒立ち状態の峰子に、連れて来た人物を引き合わせた。
その人は――
「おかあさ……」
峰子は口を開けたまま動かない。いや、動けないでいる。
母親も何と声をかければ良いのか分からないのか、ぎこちなく笑うばかり。
「ちょ……、慧一さん?」
脇に立つ京子が、慧一を責めるように見上げた。峰子が親に内緒で同人活動するのを、彼女も知っている。
しかし慧一は、とても真面目な様子で二人を見守る。すべて承知の上だと、彼の表情が語っていた。
「どうして、お母さんがここに?」
峰子はテーブルに手を付き、首を垂れた。秘密の隠れ家を発見された子どものように、小さくなって。
「おいで、峰子。俺を信じて」
慧一は恋人の肩を包むように抱くと、外に出るよう促した。
「京子ちゃん、留守番を頼むよ。悪いね」
何か言いたそうにする京子に慧一は言い置き、親子と共にホールを出て行った。
「じゃ、俺はひと回りして来ます。三十分もしたら戻りますので」
外に出ると、慧一は峰子と母親を残し、人波へと消えてしまった。
峰子は困惑しながらも、慧一の「俺を信じて」という言葉を頼りに、なんとか取り乱さずに済んだ。なぜ、どうして……という疑問は渦巻くけれど。
母と娘は、複数のホールを繋ぐ広々とした通路の壁際に、凭れるように立った。
互いに口を利かず、イベントを楽しむ人々の様子を眺める。
「暑いわね」
母親はバッグからハンカチを取り出し、峰子に差し出した。
「汗、すごいわよ」
「……」
峰子は黙って受け取ると、首元を拭う。
母親らしいシンプルな柄のハンカチ。子どもの頃も、こうしてよく借りたのを峰子は思い出す。
「……お母さん、どうしてここへ?」
ハンカチを握りしめ、峰子はやっと声を出した。
目を合わせると母親は微笑して、
「慧一さんに誘われたの。イベントに一緒に行きませんかって」
「ええっ?」
まさかとは思った。だけど、本当にそうだと知って峰子はびっくりする。
「お母さんね、いろいろ考えたの。あなたのことを、こんなにじっくり考えたこと、今までなかった」
娘の顔を見上げながら、母親は話し始めた。
同人誌を発見したこと、慧一に相談したこと、そして、これまでの親子関係について。
順序立ててゆっくりと話す。
『この子、こんなに背が高かったかしら』と、今更気づきながら。
すべて聞き終えた峰子は目を閉じ、ふうっと息をついた。
母親は何もかも知っていた。その上でイベント会場に来たのだ。そして、こんな秘密を持つ娘に対して怒るどころか、そのまま認めている。
奇跡のようだ。
「私はずっと、あなたを苦しめてたのね」
峰子はハッと目を開け、母親を見返す。
「本当に、ごめんなさい」
母親は、今までの親子関係を詫びた。
子どもを縛っていた、目に見えぬ糸を解くように、これまでのことを詫びたのだ。
「お母さん……」
峰子は今、解き放たれた。
彼女を圧迫し続けてきたものから自由になるのを、全身で感じる。
隣に立つ母を、あらためて見つめた。
いつの間にか、ずいぶん年を取っていることに気が付く。
胸がキリキリと痛んだ。
「お母さん」
「なあに」
「私も、ごめんね」
「……」
母親はぽかんとし、呆れたように笑う。
「本当にあなたは、お人好しなんだから」
「えっ……お、お人好し?」
「そんなことじゃ、外国に行っても大変よ。きちんと意思を持たないと。YESかNOか、はっきり言えなくちゃね」
「……」
絶句する峰子に、母親はいたずらっぽく片目をつむる。そして、いつものようにシャキッと背筋を伸ばした。
「ほら、あなたの旦那さま」
峰子の背後を指差す。その先には、上着を肩に引っ掛け、悠々と歩いて来る慧一の姿があった。
「あのっ、お母さん。もしかして、ぜんぶ知って……」
「峰子に幸せになってほしい。それだけはいつまでも変わらない、私の願いよ」
母親は娘の背中に手を当て、彼のほうへと勢いよく押し出した。
「きゃあっ」
つんのめって転びそうになる峰子を、慧一が慌てて抱きとめる。峰子の表情を彼は確かめ、嬉しそうに笑った。
「ご、ごめんなさい」
周囲の視線が集まるのを感じ、峰子は急いで離れようとするが、そのまま強く抱きしめられた。
「あのっ、慧一さん?」
「良かったな、峰子」
慧一の腕に力が入る。もう逃れられない。
「俺はいつだって、君が大好きだ!」
誰が見ていようが、ここがどこであろうが、慧一には関係ない。
ただ、峰子が自由になり、自分の腕の中に納まった。それが何よりの幸せ。彼女の素のままの表情が、愛しくて堪らないのだ。
「君はもう飛び立てる。俺の胸をホームにして、疲れたらいつでも休むといい。俺も、温かな君の胸を借りるだろう。そうして俺達は一緒に生きるんだ。これから……」
「慧一さん……っ」
青空に、夏の太陽が輝く。
ギャラリーができても、峰子はもう構わない。
しっかりと抱き合い、揺るぎのない想いを、愛する人に伝えた。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
魔石と神器の物語 ~アイテムショップの美人姉妹は、史上最強の助っ人です!~
エール
ファンタジー
古代遺跡群攻略都市「イフカ」を訪れた新進気鋭の若き冒険者(ハンター)、ライナス。
彼が立ち寄った「魔法堂 白銀の翼」は、一風変わったアイテムを扱う魔道具専門店だった。
経営者は若い美人姉妹。
妹は自ら作成したアイテムを冒険の実践にて試用する、才能溢れる魔道具製作者。
そして姉の正体は、特定冒険者と契約を交わし、召喚獣として戦う闇の狂戦士だった。
最高純度の「超魔石」と「充魔石」を体内に埋め込まれた不死属性の彼女は、呪われし武具を纏い、補充用の魔石を求めて戦場に向かう。いつの日か、「人間」に戻ることを夢見て――。
夕陽を映すあなたの瞳
葉月 まい
恋愛
恋愛に興味のないサバサバ女の 心
バリバリの商社マンで優等生タイプの 昴
そんな二人が、
高校の同窓会の幹事をすることに…
意思疎通は上手くいくのか?
ちゃんと幹事は出来るのか?
まさか、恋に発展なんて…
しないですよね?…あれ?
思わぬ二人の恋の行方は??
*✻:::✻*✻:::✻* *✻:::✻*✻:::✻* *✻:::✻*✻:::✻
高校の同窓会の幹事をすることになった
心と昴。
8年ぶりに再会し、準備を進めるうちに
いつしか二人は距離を縮めていく…。
高校時代は
決して交わることのなかった二人。
ぎこちなく、でも少しずつ
お互いを想い始め…
☆*:.。. 登場人物 .。.:*☆
久住 心 (26歳)… 水族館の飼育員
Kuzumi Kokoro
伊吹 昴 (26歳)… 海外を飛び回る商社マン
Ibuki Subaru
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる