モース10

藤谷 郁

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彼女のホーム

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「よお、峰子に京子ちゃん。調子はどうだい」


 額の汗をハンカチで拭いながら、彼はスペースの前まで来て、明るく笑う。そして、緊張のあまり棒立ち状態の峰子に、連れて来た人物を引き合わせた。

 その人は――


「おかあさ……」


 峰子は口を開けたまま動かない。いや、動けないでいる。

 母親も何と声をかければ良いのか分からないのか、ぎこちなく笑うばかり。


「ちょ……、慧一さん?」


 脇に立つ京子が、慧一を責めるように見上げた。峰子が親に内緒で同人活動するのを、彼女も知っている。

 しかし慧一は、とても真面目な様子で二人を見守る。すべて承知の上だと、彼の表情が語っていた。


「どうして、お母さんがここに?」


 峰子はテーブルに手を付き、首を垂れた。秘密の隠れ家を発見された子どものように、小さくなって。


「おいで、峰子。俺を信じて」


 慧一は恋人の肩を包むように抱くと、外に出るよう促した。


「京子ちゃん、留守番を頼むよ。悪いね」


 何か言いたそうにする京子に慧一は言い置き、親子と共にホールを出て行った。




「じゃ、俺はひと回りして来ます。三十分もしたら戻りますので」


 外に出ると、慧一は峰子と母親を残し、人波へと消えてしまった。

 峰子は困惑しながらも、慧一の「俺を信じて」という言葉を頼りに、なんとか取り乱さずに済んだ。なぜ、どうして……という疑問は渦巻くけれど。


 母と娘は、複数のホールを繋ぐ広々とした通路の壁際に、凭れるように立った。

 互いに口を利かず、イベントを楽しむ人々の様子を眺める。

 
「暑いわね」


 母親はバッグからハンカチを取り出し、峰子に差し出した。


「汗、すごいわよ」

「……」


 峰子は黙って受け取ると、首元を拭う。

 母親らしいシンプルな柄のハンカチ。子どもの頃も、こうしてよく借りたのを峰子は思い出す。


「……お母さん、どうしてここへ?」


 ハンカチを握りしめ、峰子はやっと声を出した。

 目を合わせると母親は微笑して、


「慧一さんに誘われたの。イベントに一緒に行きませんかって」

「ええっ?」


 まさかとは思った。だけど、本当にそうだと知って峰子はびっくりする。


「お母さんね、いろいろ考えたの。あなたのことを、こんなにじっくり考えたこと、今までなかった」


 娘の顔を見上げながら、母親は話し始めた。

 同人誌を発見したこと、慧一に相談したこと、そして、これまでの親子関係について。

 順序立ててゆっくりと話す。

『この子、こんなに背が高かったかしら』と、今更気づきながら。

 
 すべて聞き終えた峰子は目を閉じ、ふうっと息をついた。

 母親は何もかも知っていた。その上でイベント会場に来たのだ。そして、こんな秘密を持つ娘に対して怒るどころか、そのまま認めている。

 奇跡のようだ。


「私はずっと、あなたを苦しめてたのね」


 峰子はハッと目を開け、母親を見返す。


「本当に、ごめんなさい」


 母親は、今までの親子関係を詫びた。

 子どもを縛っていた、目に見えぬ糸を解くように、これまでのことを詫びたのだ。


「お母さん……」


 峰子は今、解き放たれた。

 彼女を圧迫し続けてきたものから自由になるのを、全身で感じる。


 隣に立つ母を、あらためて見つめた。

 いつの間にか、ずいぶん年を取っていることに気が付く。

 胸がキリキリと痛んだ。


「お母さん」

「なあに」

「私も、ごめんね」

「……」


 母親はぽかんとし、呆れたように笑う。


「本当にあなたは、お人好しなんだから」

「えっ……お、お人好し?」

「そんなことじゃ、外国に行っても大変よ。きちんと意思を持たないと。YESかNOか、はっきり言えなくちゃね」

「……」


 絶句する峰子に、母親はいたずらっぽく片目をつむる。そして、いつものようにシャキッと背筋を伸ばした。


「ほら、あなたの旦那さま」


 峰子の背後を指差す。その先には、上着を肩に引っ掛け、悠々と歩いて来る慧一の姿があった。


「あのっ、お母さん。もしかして、ぜんぶ知って……」

「峰子に幸せになってほしい。それだけはいつまでも変わらない、私の願いよ」


 母親は娘の背中に手を当て、彼のほうへと勢いよく押し出した。


「きゃあっ」


 つんのめって転びそうになる峰子を、慧一が慌てて抱きとめる。峰子の表情を彼は確かめ、嬉しそうに笑った。


「ご、ごめんなさい」


 周囲の視線が集まるのを感じ、峰子は急いで離れようとするが、そのまま強く抱きしめられた。


「あのっ、慧一さん?」

「良かったな、峰子」


 慧一の腕に力が入る。もう逃れられない。


「俺はいつだって、君が大好きだ!」


 誰が見ていようが、ここがどこであろうが、慧一には関係ない。

 ただ、峰子が自由になり、自分の腕の中に納まった。それが何よりの幸せ。彼女の素のままの表情が、愛しくて堪らないのだ。


「君はもう飛び立てる。俺の胸をホームにして、疲れたらいつでも休むといい。俺も、温かな君の胸を借りるだろう。そうして俺達は一緒に生きるんだ。これから……」

「慧一さん……っ」


 青空に、夏の太陽が輝く。

 ギャラリーができても、峰子はもう構わない。

 しっかりと抱き合い、揺るぎのない想いを、愛する人に伝えた。


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