モース10

藤谷 郁

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 峰子は誰かと密に付き合うのが苦手なはずだ。

 それなのに、彼と二人きりで旅行なんて、信じられない。恋人になったとは聞いたが、いくら何でも早すぎる。

 京子は、二人のスピード展開についていけず、混乱した。

 しかし、ふと思い出す。慧一との電話で、京子はモースになぞらえて、彼に結婚を示唆した。もしやあれが刺激になって……?

 京子は自分のことのように、どきどきしてきた。


「待って、峰子ちゃん。もしかして、ひょっとすると」

「は、はい?」

「プロポーズされたとか!?」

「あ……っ」


 峰子は手にした同人誌を、バサッと落とした。どうやら図星である。


「京子ちゃん、私……」


 峰子は言おうと思っていた。

 京子にだけは、必ず早く言おうと決めていたのだ。

 だけど、いざとなると切り出せない。つまりそれは、しばしの別れを意味する報告でもあるから。


「いやいや待って、峰子ちゃん。まず言わせてほしいのよ、私から」

「えっ?」


 京子は峰子の手を握り締めると、視線を合わせてから静かに伝えた。


「おめでとう」


 京子の手の平はジュースのパックで冷えていたが、すぐに温もった。峰子が強い力で握り返したから。


「京子ちゃん、私……すぐに言おうと思ってたの。だけど」

「うんうん」


 分かってほしくて一生懸命な峰子の手を、京子もぎゅっと握り返す。


「大丈夫、ちゃんと伝わってるよ」


 後悔が押し寄せるのを、峰子は止められなかった。

 どうしてもっと彼女と二人きりで食事をしたり、旅行をしたり、親密に付き合えなかったのだろう。峰子の性格を理解し、適度な距離を置いてくれるこの優しい友人と、どうして手のひとつも繋がずにこられたのだろう。


「京子ちゃん。私、外国に行くの。慧一さんと結婚したら、イギリスに」

「え……?」



 スペースの前を、ひっきりなしに人が行き交う。時間は流れる。物事は形を変えてゆく。


「こういうの、なんて言ったっけか。ゆく河の流れは絶えずして……方丈記だっけ」


 京子は泣きそうになりながら、やっと笑う。峰子も釣られて語尾が震えた。


「でも、ずっとじゃないよ。きっと帰ってくるから」

「そう、そっか。そう……」


 失いかけて初めて知る、その人の大切さ。

 峰子は今、他人事のように思っていた言葉を、骨身に沁みて実感した。

 しみじみとした気持ちで、二人は向き合う。

 感情の高ぶりを抑え、峰子が現状を少しずつ話すのを、京子は黙って聞いた。


「じゃあ、互いの親には、まだ何も言ってないの?」

「うん。私、慧一さんのご両親の顔も知らなくて」


 京子はしばし考え込むが、突然、「あっ」と声を上げる。


「そういえば慧一さんが、今日は誰かと一緒に来るって言ってた。確か、身内の人だとか」

「ええっ!?」


 峰子は打たれたように、椅子から立ち上がった。


「ここへ? お家の人と一緒に来るの?」

「う、うん、多分? だって身内というと、やっぱりそうだよね」

「嘘、困る。そんなのは」


 峰子は大いにうろたえ、テーブルに並ぶ同人誌の数々を見回す。ここは腐女子のジャンル、BLコーナーなのだ。


「どうしよう、京子ちゃん!」

「ど、どうしようって……あっ」


 京子にも打つ手はない。

 なぜなら、彼女の視界には既に、片手を上げて合図する滝口慧一の姿があった。


「覚悟を決めるしかないよ、峰子ちゃん。慧一さんだって考えがあるはずだよきっと」


 京子は峰子を励まし、慧一が来るほうへ彼女の体を向けさせた。


「きちんと挨拶して、とにかく失礼のないようにするの。大丈夫よ」

「う、うん」


 京子のアドバイスを聞きながら、峰子はめまいがしそうだった。こんなの、サプライズなんてものではない。奇襲だ、夜襲だ、あんまりだ!

 峰子の心情をよそに、慧一がどんどん近付いてくる。

 彼はスーツ姿だ。

 とても素敵だけれど、今は見惚れる余裕がない。

 彼はニコニコしている。

 峰子の驚く顔を見て、満足するかのように。


(本当に、なんて人だろう)


 後ろに誰かいる。きっと彼のお母さんだと峰子は思い、緊張する。


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