モース10

藤谷 郁

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母と娘

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 巨大な国際展示場で、同人誌即売会というイベントが開催される。三日間行われるが、峰子が参加するのは一日のみ。

 それが今日、八月十四日だ。

 娘が「本屋めぐりに行ってきます」と言って、朝早くから出かけた。母親はいつもと変わらぬ態度で返事をしたが、実際はそわそわして、落ち着かなかった。


 峰子が出かけたあと、母親は通常どおり家事をこなしてから、外出の支度に取り掛かる。

 サマースーツに着替え、きちんと身支度を整えた頃、夫と息子はそれぞれ出かけていた。

 家の中はシンと静まりかえり、誰の気配もない。

 母親は小さく深呼吸し、腕時計を確かめた。迎えが来るまでまだ余裕がある。

 上がり框に腰かけ、ぼんやりしながらも、娘についてつらつら考えてみた。


 同人誌即売会――


 母親は、娘がそのイベントに参加すると知ってから、スマートフォンで言葉の意味を調べた。創作に興味のない母親には、未知の世界だった。

 まさか娘が、その同人誌を読むだけでなく、作って、販売しているとは……

 娘の趣味といえば、漫画やアニメーション、小説。昔から好きなのは知っている。

 また、アクセサリーや鉱物に関心があるのも承知していた。だから、大学もその方面に進むものと思い込んだのだ。

 ところが、峰子は就職を希望した。

 大学に行かせるつもりで、資金もちゃんと準備したのに。まさに青天の霹靂である。

 母親は裏切られたようなショックを受け、峰子をきつく叱り、辛く当たった。


(それでも、あの子は曲げなかった)


 まるで、この選択に命がかかっていると言わんばかりの目で母親を見返し、がんとして譲らなかった。


「考えてみれば、峰子はあの頃既に、秘密の趣味を持っていたのね」


 だけど母親は、何もかも同人誌のせいにするのは違うと思い始めている。

 子どもが親に秘密を持つのは、珍しいことではない。
 むしろ当然の現象なのだ。

 親と子は別個の生き物で、一心同体にあらず。

 母親は、あの青年に接してから、そんな風に考えるようになった。

 彼は、ありのままの峰子を好きだと言い切った。私はどうだろう?

 自分が理想とする峰子だけを、好きなのではないか――

 進学しない峰子、同人誌を好きな峰子、親に秘密を持つ峰子。

 あの倒錯した趣味も全部否定したい。

 私だったら考えられないから。

 とんでもない。やめさせたい。私の理想と違う。

 だが、そんな母親にあの青年は、峰子の趣味嗜好を知った上で、好きだと言った。

 しかもそれは男女の情が絡んだのろけではなく、本当に、彼は丸ごと峰子を愛しているのだ。

 滝口慧一。

 彼の、屈託のない言動を思い出し、母親はつい笑った。

 あれこれ考えすぎて、こんがらがっている自分に比べて、なんという単純さ。


 ――僕は彼女が好きですよ。ぜんぶ、ひっくるめて。


 さらりと言ってくれる。まったくもって、清々しい青年だ。

 だけど、と母親は思う。

 愛というものは、そんなシンプルな心の中にあるのかもしれない。何の飾り気もない、単純で分かりやすい彼の心に。


 ドアの向こうで、車の停まる音が聞こえた。

 自分もシンプルに答えを出そう。母親は、彼の率直さを真似てみる。素直に、意地を張らず、答えを出すのだ。


「私は、峰子のありのままを受け入れる。そして彼女を、一個の人間として認め、解放しなければならない。子どもを自分の思いどおりにしようなんて、そもそも……間違っていたのよ」


 軽やかに呼び鈴が鳴った。

 母親は顔を上げ、いつものようにしゃんと背筋を伸ばす。

 微かな敗北感を噛みしめながら、それでも彼の存在は有難く、頼もしかった。

 ありのままを愛する。ただそれだけのことが、こんなにも難しい。それでも母親は、もう大丈夫だと確信する。

 彼の存在は、計り知れないほど大きい。

 だけど、やりきれないほどの寂しさが胸を締め付けてくる。

 峰子が遠くへ行ってしまう。

 ふと涙が零れそうになり、慌ててかぶりを振った。


 玄関ドアを開けると、慧一が立っていた。ぱりっとしたスーツ姿で、晴れ晴れとした笑顔で。


「こんにちは、お母さん。それじゃ、行きましょうか」


 初めて会った時と同じ、いやらしさや卑屈なものがまるでない、真っ正直な眼差し。


「よろしくお願いします」


 母親は深々と頭を下げた。

 恐縮する慧一に母親は微笑み、彼の肩を、親しみをこめてぽんと叩いた。


 時刻は午前十一時を回っている。
 午後からのほうが入場しやすいとのことで、この時間になった。


「しかし暑いですねえ。今年最高じゃないですか」


 車に乗り込む前、まぶしげに空を仰ぐ慧一を、母親はあらためて見つめた。

 それにしても、なんと見映えの良い男だろうか。遠い昔に映画で見た、美男の俳優を思い出す。鼻筋が通ったきれいな顔立ちで、明るい眼をしていた。

 堅物だった彼女には少々軽く感じられたが、嫌いではなかった。


「うふふふ」


 助手席のドアを開けて待つ慧一に、笑いかけた。


「何ですか?」


(この青年には敵わない。私も、そして夫も。峰子に関しては、きっと誰も敵わないわ)


「いいえ。さ、行きましょう、慧一さん」


 走り出す車の窓に、夏の陽射しが輝く。


 母親はくっきりと明瞭な気持ちで、峰子のもとへ向かった。


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