75 / 82
母と娘
2
しおりを挟む
巨大な国際展示場で、同人誌即売会というイベントが開催される。三日間行われるが、峰子が参加するのは一日のみ。
それが今日、八月十四日だ。
娘が「本屋めぐりに行ってきます」と言って、朝早くから出かけた。母親はいつもと変わらぬ態度で返事をしたが、実際はそわそわして、落ち着かなかった。
峰子が出かけたあと、母親は通常どおり家事をこなしてから、外出の支度に取り掛かる。
サマースーツに着替え、きちんと身支度を整えた頃、夫と息子はそれぞれ出かけていた。
家の中はシンと静まりかえり、誰の気配もない。
母親は小さく深呼吸し、腕時計を確かめた。迎えが来るまでまだ余裕がある。
上がり框に腰かけ、ぼんやりしながらも、娘についてつらつら考えてみた。
同人誌即売会――
母親は、娘がそのイベントに参加すると知ってから、スマートフォンで言葉の意味を調べた。創作に興味のない母親には、未知の世界だった。
まさか娘が、その同人誌を読むだけでなく、作って、販売しているとは……
娘の趣味といえば、漫画やアニメーション、小説。昔から好きなのは知っている。
また、アクセサリーや鉱物に関心があるのも承知していた。だから、大学もその方面に進むものと思い込んだのだ。
ところが、峰子は就職を希望した。
大学に行かせるつもりで、資金もちゃんと準備したのに。まさに青天の霹靂である。
母親は裏切られたようなショックを受け、峰子をきつく叱り、辛く当たった。
(それでも、あの子は曲げなかった)
まるで、この選択に命がかかっていると言わんばかりの目で母親を見返し、がんとして譲らなかった。
「考えてみれば、峰子はあの頃既に、秘密の趣味を持っていたのね」
だけど母親は、何もかも同人誌のせいにするのは違うと思い始めている。
子どもが親に秘密を持つのは、珍しいことではない。
むしろ当然の現象なのだ。
親と子は別個の生き物で、一心同体にあらず。
母親は、あの青年に接してから、そんな風に考えるようになった。
彼は、ありのままの峰子を好きだと言い切った。私はどうだろう?
自分が理想とする峰子だけを、好きなのではないか――
進学しない峰子、同人誌を好きな峰子、親に秘密を持つ峰子。
あの倒錯した趣味も全部否定したい。
私だったら考えられないから。
とんでもない。やめさせたい。私の理想と違う。
だが、そんな母親にあの青年は、峰子の趣味嗜好を知った上で、好きだと言った。
しかもそれは男女の情が絡んだのろけではなく、本当に、彼は丸ごと峰子を愛しているのだ。
滝口慧一。
彼の、屈託のない言動を思い出し、母親はつい笑った。
あれこれ考えすぎて、こんがらがっている自分に比べて、なんという単純さ。
――僕は彼女が好きですよ。ぜんぶ、ひっくるめて。
さらりと言ってくれる。まったくもって、清々しい青年だ。
だけど、と母親は思う。
愛というものは、そんなシンプルな心の中にあるのかもしれない。何の飾り気もない、単純で分かりやすい彼の心に。
ドアの向こうで、車の停まる音が聞こえた。
自分もシンプルに答えを出そう。母親は、彼の率直さを真似てみる。素直に、意地を張らず、答えを出すのだ。
「私は、峰子のありのままを受け入れる。そして彼女を、一個の人間として認め、解放しなければならない。子どもを自分の思いどおりにしようなんて、そもそも……間違っていたのよ」
軽やかに呼び鈴が鳴った。
母親は顔を上げ、いつものようにしゃんと背筋を伸ばす。
微かな敗北感を噛みしめながら、それでも彼の存在は有難く、頼もしかった。
ありのままを愛する。ただそれだけのことが、こんなにも難しい。それでも母親は、もう大丈夫だと確信する。
彼の存在は、計り知れないほど大きい。
だけど、やりきれないほどの寂しさが胸を締め付けてくる。
峰子が遠くへ行ってしまう。
ふと涙が零れそうになり、慌ててかぶりを振った。
玄関ドアを開けると、慧一が立っていた。ぱりっとしたスーツ姿で、晴れ晴れとした笑顔で。
「こんにちは、お母さん。それじゃ、行きましょうか」
初めて会った時と同じ、いやらしさや卑屈なものがまるでない、真っ正直な眼差し。
「よろしくお願いします」
母親は深々と頭を下げた。
恐縮する慧一に母親は微笑み、彼の肩を、親しみをこめてぽんと叩いた。
時刻は午前十一時を回っている。
午後からのほうが入場しやすいとのことで、この時間になった。
「しかし暑いですねえ。今年最高じゃないですか」
車に乗り込む前、まぶしげに空を仰ぐ慧一を、母親はあらためて見つめた。
それにしても、なんと見映えの良い男だろうか。遠い昔に映画で見た、美男の俳優を思い出す。鼻筋が通ったきれいな顔立ちで、明るい眼をしていた。
堅物だった彼女には少々軽く感じられたが、嫌いではなかった。
「うふふふ」
助手席のドアを開けて待つ慧一に、笑いかけた。
「何ですか?」
(この青年には敵わない。私も、そして夫も。峰子に関しては、きっと誰も敵わないわ)
「いいえ。さ、行きましょう、慧一さん」
走り出す車の窓に、夏の陽射しが輝く。
母親はくっきりと明瞭な気持ちで、峰子のもとへ向かった。
それが今日、八月十四日だ。
娘が「本屋めぐりに行ってきます」と言って、朝早くから出かけた。母親はいつもと変わらぬ態度で返事をしたが、実際はそわそわして、落ち着かなかった。
峰子が出かけたあと、母親は通常どおり家事をこなしてから、外出の支度に取り掛かる。
サマースーツに着替え、きちんと身支度を整えた頃、夫と息子はそれぞれ出かけていた。
家の中はシンと静まりかえり、誰の気配もない。
母親は小さく深呼吸し、腕時計を確かめた。迎えが来るまでまだ余裕がある。
上がり框に腰かけ、ぼんやりしながらも、娘についてつらつら考えてみた。
同人誌即売会――
母親は、娘がそのイベントに参加すると知ってから、スマートフォンで言葉の意味を調べた。創作に興味のない母親には、未知の世界だった。
まさか娘が、その同人誌を読むだけでなく、作って、販売しているとは……
娘の趣味といえば、漫画やアニメーション、小説。昔から好きなのは知っている。
また、アクセサリーや鉱物に関心があるのも承知していた。だから、大学もその方面に進むものと思い込んだのだ。
ところが、峰子は就職を希望した。
大学に行かせるつもりで、資金もちゃんと準備したのに。まさに青天の霹靂である。
母親は裏切られたようなショックを受け、峰子をきつく叱り、辛く当たった。
(それでも、あの子は曲げなかった)
まるで、この選択に命がかかっていると言わんばかりの目で母親を見返し、がんとして譲らなかった。
「考えてみれば、峰子はあの頃既に、秘密の趣味を持っていたのね」
だけど母親は、何もかも同人誌のせいにするのは違うと思い始めている。
子どもが親に秘密を持つのは、珍しいことではない。
むしろ当然の現象なのだ。
親と子は別個の生き物で、一心同体にあらず。
母親は、あの青年に接してから、そんな風に考えるようになった。
彼は、ありのままの峰子を好きだと言い切った。私はどうだろう?
自分が理想とする峰子だけを、好きなのではないか――
進学しない峰子、同人誌を好きな峰子、親に秘密を持つ峰子。
あの倒錯した趣味も全部否定したい。
私だったら考えられないから。
とんでもない。やめさせたい。私の理想と違う。
だが、そんな母親にあの青年は、峰子の趣味嗜好を知った上で、好きだと言った。
しかもそれは男女の情が絡んだのろけではなく、本当に、彼は丸ごと峰子を愛しているのだ。
滝口慧一。
彼の、屈託のない言動を思い出し、母親はつい笑った。
あれこれ考えすぎて、こんがらがっている自分に比べて、なんという単純さ。
――僕は彼女が好きですよ。ぜんぶ、ひっくるめて。
さらりと言ってくれる。まったくもって、清々しい青年だ。
だけど、と母親は思う。
愛というものは、そんなシンプルな心の中にあるのかもしれない。何の飾り気もない、単純で分かりやすい彼の心に。
ドアの向こうで、車の停まる音が聞こえた。
自分もシンプルに答えを出そう。母親は、彼の率直さを真似てみる。素直に、意地を張らず、答えを出すのだ。
「私は、峰子のありのままを受け入れる。そして彼女を、一個の人間として認め、解放しなければならない。子どもを自分の思いどおりにしようなんて、そもそも……間違っていたのよ」
軽やかに呼び鈴が鳴った。
母親は顔を上げ、いつものようにしゃんと背筋を伸ばす。
微かな敗北感を噛みしめながら、それでも彼の存在は有難く、頼もしかった。
ありのままを愛する。ただそれだけのことが、こんなにも難しい。それでも母親は、もう大丈夫だと確信する。
彼の存在は、計り知れないほど大きい。
だけど、やりきれないほどの寂しさが胸を締め付けてくる。
峰子が遠くへ行ってしまう。
ふと涙が零れそうになり、慌ててかぶりを振った。
玄関ドアを開けると、慧一が立っていた。ぱりっとしたスーツ姿で、晴れ晴れとした笑顔で。
「こんにちは、お母さん。それじゃ、行きましょうか」
初めて会った時と同じ、いやらしさや卑屈なものがまるでない、真っ正直な眼差し。
「よろしくお願いします」
母親は深々と頭を下げた。
恐縮する慧一に母親は微笑み、彼の肩を、親しみをこめてぽんと叩いた。
時刻は午前十一時を回っている。
午後からのほうが入場しやすいとのことで、この時間になった。
「しかし暑いですねえ。今年最高じゃないですか」
車に乗り込む前、まぶしげに空を仰ぐ慧一を、母親はあらためて見つめた。
それにしても、なんと見映えの良い男だろうか。遠い昔に映画で見た、美男の俳優を思い出す。鼻筋が通ったきれいな顔立ちで、明るい眼をしていた。
堅物だった彼女には少々軽く感じられたが、嫌いではなかった。
「うふふふ」
助手席のドアを開けて待つ慧一に、笑いかけた。
「何ですか?」
(この青年には敵わない。私も、そして夫も。峰子に関しては、きっと誰も敵わないわ)
「いいえ。さ、行きましょう、慧一さん」
走り出す車の窓に、夏の陽射しが輝く。
母親はくっきりと明瞭な気持ちで、峰子のもとへ向かった。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
ホリカヨは俺様上司を癒したい!
森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。
そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。
『郡司部長、私はあなたを癒したいです』
※他の投稿サイトにも載せています。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~
日暮ミミ♪
恋愛
大財閥〈篠沢(しのざわ)グループ〉本社・篠沢商事に勤める25歳の桐島貢(きりしまみつぐ)。
彼は秋のある夜、上司の代理で出席した会社のパーティーで、会長令嬢で高校2年生の篠沢絢乃(しのざわあやの)に一目惚れ。
その三ヶ月後、会長・篠沢源一が末期ガンでこの世を去る。
葬儀の日、父の遺言により会長の後継者となった絢乃を支えるべく、秘書室へ転属する旨を彼女に伝える。
絢乃は無事、会長に就任。会長付秘書として働くことになった貢はある日、会社帰りの愛車の中で絢乃に衝動的にキスをしてしまい――!?
草食系男子の年上秘書×キュートな10代の大企業総帥による、年の差オフィスラブストーリーのヒーローサイド。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる