74 / 82
母と娘
1
しおりを挟む
同人イベントの前夜。
峰子は自室にこもって頒布物の準備をした。
(モースもいよいよ最終巻だし、明日は思い切り楽しもう)
イベントに初めて参加したのは十六歳の夏。
毎年訪れるあの場所に、来年からは参加できない――いや、参加しない。
だが、同人誌作りは峰子の生きがいであり、大切な自己表現の作業だ。イベントに出なくなっても、創作活動は続けたいと彼女は思う。
「生きがいっていうのは、ちょっと大袈裟かな」
でも、本当にそう感じるのだ。
峰子にとって創作は、自分を解放する唯一の手段だった。
あの人に出会うまでは――
峰子は荷物をまとめてキャリーにセットすると、息をついた。
これで準備完了である。
明日のことを考えると落ち着かないが、とりあえず明かりを消してベッドに入った。
眠ろうとして目を閉じる。
すると、イベントへの興奮は収まり、代わりにあの人のことが瞼に浮かんできた。
「慧一さん……」
名前をつぶやけば、彼との旅行が思い出される。
高原のドライブ、青い空、連なるアルプス、霧、湖、からまつ林が見える部屋……心と体に刻みこまれた、忘れられない二人きりの旅。
慧一は優しかった。
子どものように泣き、わがままを言う峰子を、全部抱きしめてくれた。
どうしてあんなに愛してくれるのだろう――
峰子は何もかもを鮮明に思い出し、頬を染める。大きな胸に包まれた時、今までのどんな瞬間より幸せだった。
「慧一さん」
彼の名を再びつぶやく。
魔法の呪文のように、希望と勇気が湧いてくる。
峰子はそっと目を開けて、子どもの頃から見つめ続けてきた天井を眺めた。
(もう、さよなら。私はここからさよならをする。私を圧迫し続けてきたものと、訣別するの……)
「おやすみなさい」
愛しい人に夢でも会いたくて、峰子は彼を想いながら眠りについた。
◇ ◇ ◇
本屋めぐりに行ってきます――
峰子は毎年、家族にそう言って出かける。嘘をつくのは後ろめたいが、どうしようもない。
同人誌即売会イベントに行くと知られたら、そこで何をするのか、追及されてしまう。正直に話しても、両親の理解を得られるとは絶対に思えない。
今年も早起きして、家族に気付かれないうちに荷物を車に積み込んで準備した。そして、皆が起きだした頃に台所に顔を出し、嘘の行き先を告げる。
「本屋めぐりに行ってきます」
「あら、そう。気をつけて行ってらっしゃい」
母親が目玉焼きを作りながら、背を向けたまま返事した。
父親はリビングで朝刊を読んでいる。弟はコーヒーを淹れたり、手作りパンを並べるのに忙しそうだ。
「お姉も食べる?」
弟が峰子に声をかける。彼はまだパジャマ姿で、髪もぼさぼさだ。
「ありがとう。私はさっき食べたから。胡桃パンが美味しかったよ」
「へへ、ありがと。自信作なんだ」
姉に褒められ、嬉しそうに笑う。
「それじゃ、行ってきます」
家族に微笑み、手を振ってから玄関へと向かった。
峰子は一つ、家族に話したいことがあった。でも、何となく口に出せず、胸に留めている。
私、プロポーズされました――
滝口さんと結婚します――
イギリスに行きます――
順序だてて話さねば……と、頭の中でレジュメをいくつも作った。
だが、うまく話せる自信がない。
必ず許してもらいたいから、慎重になってしまう。
「でも、ちゃんと話さなくては」
家族の反応を想像し、睫毛を伏せる。特に、保守的な母親に何と言われるか、考えると憂鬱になった……
峰子は頭を振ると、車に乗り込んだ。
「今はイベントに集中しよう」
エンジンをかけて、走り出す。
駅で京子と待ち合わせて、電車で会場まで移動する予定だ。
晴れた青空がまぶしい。今日も真夏の陽射しが照りつけ、暑い一日となるだろう。
駅の立体駐車場に車を停めると、荷物を持って歩き出す。
ディスプレイ用の布やボード、スケッチブックなどが入っているだけなので、それほど重くない。
同人誌は宅配便で発送済みだし、新刊は印刷所から会場に搬入される。
新刊は最終巻、『モース10』
「ケイとも、さよなら……か」
峰子は無意識に声に出し、そのとたん実感が湧いて、何だか泣きそうになる。
でも彼女は顔を上げ、改札口を潜った。
新しい未来へと、旅立つように。
峰子は自室にこもって頒布物の準備をした。
(モースもいよいよ最終巻だし、明日は思い切り楽しもう)
イベントに初めて参加したのは十六歳の夏。
毎年訪れるあの場所に、来年からは参加できない――いや、参加しない。
だが、同人誌作りは峰子の生きがいであり、大切な自己表現の作業だ。イベントに出なくなっても、創作活動は続けたいと彼女は思う。
「生きがいっていうのは、ちょっと大袈裟かな」
でも、本当にそう感じるのだ。
峰子にとって創作は、自分を解放する唯一の手段だった。
あの人に出会うまでは――
峰子は荷物をまとめてキャリーにセットすると、息をついた。
これで準備完了である。
明日のことを考えると落ち着かないが、とりあえず明かりを消してベッドに入った。
眠ろうとして目を閉じる。
すると、イベントへの興奮は収まり、代わりにあの人のことが瞼に浮かんできた。
「慧一さん……」
名前をつぶやけば、彼との旅行が思い出される。
高原のドライブ、青い空、連なるアルプス、霧、湖、からまつ林が見える部屋……心と体に刻みこまれた、忘れられない二人きりの旅。
慧一は優しかった。
子どものように泣き、わがままを言う峰子を、全部抱きしめてくれた。
どうしてあんなに愛してくれるのだろう――
峰子は何もかもを鮮明に思い出し、頬を染める。大きな胸に包まれた時、今までのどんな瞬間より幸せだった。
「慧一さん」
彼の名を再びつぶやく。
魔法の呪文のように、希望と勇気が湧いてくる。
峰子はそっと目を開けて、子どもの頃から見つめ続けてきた天井を眺めた。
(もう、さよなら。私はここからさよならをする。私を圧迫し続けてきたものと、訣別するの……)
「おやすみなさい」
愛しい人に夢でも会いたくて、峰子は彼を想いながら眠りについた。
◇ ◇ ◇
本屋めぐりに行ってきます――
峰子は毎年、家族にそう言って出かける。嘘をつくのは後ろめたいが、どうしようもない。
同人誌即売会イベントに行くと知られたら、そこで何をするのか、追及されてしまう。正直に話しても、両親の理解を得られるとは絶対に思えない。
今年も早起きして、家族に気付かれないうちに荷物を車に積み込んで準備した。そして、皆が起きだした頃に台所に顔を出し、嘘の行き先を告げる。
「本屋めぐりに行ってきます」
「あら、そう。気をつけて行ってらっしゃい」
母親が目玉焼きを作りながら、背を向けたまま返事した。
父親はリビングで朝刊を読んでいる。弟はコーヒーを淹れたり、手作りパンを並べるのに忙しそうだ。
「お姉も食べる?」
弟が峰子に声をかける。彼はまだパジャマ姿で、髪もぼさぼさだ。
「ありがとう。私はさっき食べたから。胡桃パンが美味しかったよ」
「へへ、ありがと。自信作なんだ」
姉に褒められ、嬉しそうに笑う。
「それじゃ、行ってきます」
家族に微笑み、手を振ってから玄関へと向かった。
峰子は一つ、家族に話したいことがあった。でも、何となく口に出せず、胸に留めている。
私、プロポーズされました――
滝口さんと結婚します――
イギリスに行きます――
順序だてて話さねば……と、頭の中でレジュメをいくつも作った。
だが、うまく話せる自信がない。
必ず許してもらいたいから、慎重になってしまう。
「でも、ちゃんと話さなくては」
家族の反応を想像し、睫毛を伏せる。特に、保守的な母親に何と言われるか、考えると憂鬱になった……
峰子は頭を振ると、車に乗り込んだ。
「今はイベントに集中しよう」
エンジンをかけて、走り出す。
駅で京子と待ち合わせて、電車で会場まで移動する予定だ。
晴れた青空がまぶしい。今日も真夏の陽射しが照りつけ、暑い一日となるだろう。
駅の立体駐車場に車を停めると、荷物を持って歩き出す。
ディスプレイ用の布やボード、スケッチブックなどが入っているだけなので、それほど重くない。
同人誌は宅配便で発送済みだし、新刊は印刷所から会場に搬入される。
新刊は最終巻、『モース10』
「ケイとも、さよなら……か」
峰子は無意識に声に出し、そのとたん実感が湧いて、何だか泣きそうになる。
でも彼女は顔を上げ、改札口を潜った。
新しい未来へと、旅立つように。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ホリカヨは俺様上司を癒したい!
森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。
そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。
『郡司部長、私はあなたを癒したいです』
※他の投稿サイトにも載せています。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。

淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~
伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華
結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空
幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。
割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。
思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。
二人の結婚生活は一体どうなる?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる