モース10

藤谷 郁

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母と娘

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 同人イベントの前夜。
 峰子は自室にこもって頒布物の準備をした。


(モースもいよいよ最終巻だし、明日は思い切り楽しもう)


 イベントに初めて参加したのは十六歳の夏。
 毎年訪れるあの場所に、来年からは参加できない――いや、参加しない。

 だが、同人誌作りは峰子の生きがいであり、大切な自己表現の作業だ。イベントに出なくなっても、創作活動は続けたいと彼女は思う。


「生きがいっていうのは、ちょっと大袈裟かな」


 でも、本当にそう感じるのだ。
 峰子にとって創作は、自分を解放する唯一の手段だった。


 あの人に出会うまでは――

 峰子は荷物をまとめてキャリーにセットすると、息をついた。
 これで準備完了である。

 明日のことを考えると落ち着かないが、とりあえず明かりを消してベッドに入った。

 眠ろうとして目を閉じる。

 すると、イベントへの興奮は収まり、代わりにあの人のことが瞼に浮かんできた。


「慧一さん……」


 名前をつぶやけば、彼との旅行が思い出される。

 高原のドライブ、青い空、連なるアルプス、霧、湖、からまつ林が見える部屋……心と体に刻みこまれた、忘れられない二人きりの旅。

 慧一は優しかった。

 子どものように泣き、わがままを言う峰子を、全部抱きしめてくれた。

 どうしてあんなに愛してくれるのだろう――

 峰子は何もかもを鮮明に思い出し、頬を染める。大きな胸に包まれた時、今までのどんな瞬間より幸せだった。


「慧一さん」


 彼の名を再びつぶやく。

 魔法の呪文のように、希望と勇気が湧いてくる。

 峰子はそっと目を開けて、子どもの頃から見つめ続けてきた天井を眺めた。


(もう、さよなら。私はここからさよならをする。私を圧迫し続けてきたものと、訣別するの……)


「おやすみなさい」


 愛しい人に夢でも会いたくて、峰子は彼を想いながら眠りについた。



 ◇ ◇ ◇



 本屋めぐりに行ってきます――

 峰子は毎年、家族にそう言って出かける。嘘をつくのは後ろめたいが、どうしようもない。

 同人誌即売会イベントに行くと知られたら、そこで何をするのか、追及されてしまう。正直に話しても、両親の理解を得られるとは絶対に思えない。

 今年も早起きして、家族に気付かれないうちに荷物を車に積み込んで準備した。そして、皆が起きだした頃に台所に顔を出し、嘘の行き先を告げる。


「本屋めぐりに行ってきます」

「あら、そう。気をつけて行ってらっしゃい」


 母親が目玉焼きを作りながら、背を向けたまま返事した。

 父親はリビングで朝刊を読んでいる。弟はコーヒーを淹れたり、手作りパンを並べるのに忙しそうだ。


「お姉も食べる?」


 弟が峰子に声をかける。彼はまだパジャマ姿で、髪もぼさぼさだ。


「ありがとう。私はさっき食べたから。胡桃パンが美味しかったよ」

「へへ、ありがと。自信作なんだ」


 姉に褒められ、嬉しそうに笑う。


「それじゃ、行ってきます」


 家族に微笑み、手を振ってから玄関へと向かった。





 峰子は一つ、家族に話したいことがあった。でも、何となく口に出せず、胸に留めている。


 私、プロポーズされました――

 滝口さんと結婚します――

 イギリスに行きます――


 順序だてて話さねば……と、頭の中でレジュメをいくつも作った。

 だが、うまく話せる自信がない。

 必ず許してもらいたいから、慎重になってしまう。


「でも、ちゃんと話さなくては」


 家族の反応を想像し、睫毛を伏せる。特に、保守的な母親に何と言われるか、考えると憂鬱になった……


 峰子は頭を振ると、車に乗り込んだ。


「今はイベントに集中しよう」


 エンジンをかけて、走り出す。
 駅で京子と待ち合わせて、電車で会場まで移動する予定だ。


 晴れた青空がまぶしい。今日も真夏の陽射しが照りつけ、暑い一日となるだろう。


 駅の立体駐車場に車を停めると、荷物を持って歩き出す。

 ディスプレイ用の布やボード、スケッチブックなどが入っているだけなので、それほど重くない。

 同人誌は宅配便で発送済みだし、新刊は印刷所から会場に搬入される。


 新刊は最終巻、『モース10』


「ケイとも、さよなら……か」


 峰子は無意識に声に出し、そのとたん実感が湧いて、何だか泣きそうになる。

 でも彼女は顔を上げ、改札口を潜った。

 新しい未来へと、旅立つように。
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