モース10

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
74 / 82
母と娘

しおりを挟む
 同人イベントの前夜。
 峰子は自室にこもって頒布物の準備をした。


(モースもいよいよ最終巻だし、明日は思い切り楽しもう)


 イベントに初めて参加したのは十六歳の夏。
 毎年訪れるあの場所に、来年からは参加できない――いや、参加しない。

 だが、同人誌作りは峰子の生きがいであり、大切な自己表現の作業だ。イベントに出なくなっても、創作活動は続けたいと彼女は思う。


「生きがいっていうのは、ちょっと大袈裟かな」


 でも、本当にそう感じるのだ。
 峰子にとって創作は、自分を解放する唯一の手段だった。


 あの人に出会うまでは――

 峰子は荷物をまとめてキャリーにセットすると、息をついた。
 これで準備完了である。

 明日のことを考えると落ち着かないが、とりあえず明かりを消してベッドに入った。

 眠ろうとして目を閉じる。

 すると、イベントへの興奮は収まり、代わりにあの人のことが瞼に浮かんできた。


「慧一さん……」


 名前をつぶやけば、彼との旅行が思い出される。

 高原のドライブ、青い空、連なるアルプス、霧、湖、からまつ林が見える部屋……心と体に刻みこまれた、忘れられない二人きりの旅。

 慧一は優しかった。

 子どものように泣き、わがままを言う峰子を、全部抱きしめてくれた。

 どうしてあんなに愛してくれるのだろう――

 峰子は何もかもを鮮明に思い出し、頬を染める。大きな胸に包まれた時、今までのどんな瞬間より幸せだった。


「慧一さん」


 彼の名を再びつぶやく。

 魔法の呪文のように、希望と勇気が湧いてくる。

 峰子はそっと目を開けて、子どもの頃から見つめ続けてきた天井を眺めた。


(もう、さよなら。私はここからさよならをする。私を圧迫し続けてきたものと、訣別するの……)


「おやすみなさい」


 愛しい人に夢でも会いたくて、峰子は彼を想いながら眠りについた。



 ◇ ◇ ◇



 本屋めぐりに行ってきます――

 峰子は毎年、家族にそう言って出かける。嘘をつくのは後ろめたいが、どうしようもない。

 同人誌即売会イベントに行くと知られたら、そこで何をするのか、追及されてしまう。正直に話しても、両親の理解を得られるとは絶対に思えない。

 今年も早起きして、家族に気付かれないうちに荷物を車に積み込んで準備した。そして、皆が起きだした頃に台所に顔を出し、嘘の行き先を告げる。


「本屋めぐりに行ってきます」

「あら、そう。気をつけて行ってらっしゃい」


 母親が目玉焼きを作りながら、背を向けたまま返事した。

 父親はリビングで朝刊を読んでいる。弟はコーヒーを淹れたり、手作りパンを並べるのに忙しそうだ。


「お姉も食べる?」


 弟が峰子に声をかける。彼はまだパジャマ姿で、髪もぼさぼさだ。


「ありがとう。私はさっき食べたから。胡桃パンが美味しかったよ」

「へへ、ありがと。自信作なんだ」


 姉に褒められ、嬉しそうに笑う。


「それじゃ、行ってきます」


 家族に微笑み、手を振ってから玄関へと向かった。





 峰子は一つ、家族に話したいことがあった。でも、何となく口に出せず、胸に留めている。


 私、プロポーズされました――

 滝口さんと結婚します――

 イギリスに行きます――


 順序だてて話さねば……と、頭の中でレジュメをいくつも作った。

 だが、うまく話せる自信がない。

 必ず許してもらいたいから、慎重になってしまう。


「でも、ちゃんと話さなくては」


 家族の反応を想像し、睫毛を伏せる。特に、保守的な母親に何と言われるか、考えると憂鬱になった……


 峰子は頭を振ると、車に乗り込んだ。


「今はイベントに集中しよう」


 エンジンをかけて、走り出す。
 駅で京子と待ち合わせて、電車で会場まで移動する予定だ。


 晴れた青空がまぶしい。今日も真夏の陽射しが照りつけ、暑い一日となるだろう。


 駅の立体駐車場に車を停めると、荷物を持って歩き出す。

 ディスプレイ用の布やボード、スケッチブックなどが入っているだけなので、それほど重くない。

 同人誌は宅配便で発送済みだし、新刊は印刷所から会場に搬入される。


 新刊は最終巻、『モース10』


「ケイとも、さよなら……か」


 峰子は無意識に声に出し、そのとたん実感が湧いて、何だか泣きそうになる。

 でも彼女は顔を上げ、改札口を潜った。

 新しい未来へと、旅立つように。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

魔石と神器の物語 ~アイテムショップの美人姉妹は、史上最強の助っ人です!~

エール
ファンタジー
 古代遺跡群攻略都市「イフカ」を訪れた新進気鋭の若き冒険者(ハンター)、ライナス。  彼が立ち寄った「魔法堂 白銀の翼」は、一風変わったアイテムを扱う魔道具専門店だった。  経営者は若い美人姉妹。  妹は自ら作成したアイテムを冒険の実践にて試用する、才能溢れる魔道具製作者。  そして姉の正体は、特定冒険者と契約を交わし、召喚獣として戦う闇の狂戦士だった。  最高純度の「超魔石」と「充魔石」を体内に埋め込まれた不死属性の彼女は、呪われし武具を纏い、補充用の魔石を求めて戦場に向かう。いつの日か、「人間」に戻ることを夢見て――。

夕陽を映すあなたの瞳

葉月 まい
恋愛
恋愛に興味のないサバサバ女の 心 バリバリの商社マンで優等生タイプの 昴 そんな二人が、 高校の同窓会の幹事をすることに… 意思疎通は上手くいくのか? ちゃんと幹事は出来るのか? まさか、恋に発展なんて… しないですよね?…あれ? 思わぬ二人の恋の行方は?? *✻:::✻*✻:::✻* *✻:::✻*✻:::✻* *✻:::✻*✻:::✻ 高校の同窓会の幹事をすることになった 心と昴。 8年ぶりに再会し、準備を進めるうちに いつしか二人は距離を縮めていく…。 高校時代は 決して交わることのなかった二人。 ぎこちなく、でも少しずつ お互いを想い始め… ☆*:.。. 登場人物 .。.:*☆ 久住 心 (26歳)… 水族館の飼育員 Kuzumi Kokoro 伊吹 昴 (26歳)… 海外を飛び回る商社マン Ibuki Subaru

10 sweet wedding

国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

秘密の恋

美希みなみ
恋愛
番外編更新はじめました(*ノωノ) 笠井瑞穂 25歳 東洋不動産 社長秘書 高倉由幸 31歳 東洋不動産 代表取締役社長 一途に由幸に思いをよせる、どこにでもいそうなOL瑞穂。 瑞穂は諦めるための最後の賭けに出た。 思いが届かなくても一度だけ…。 これで、あなたを諦めるから……。 短編ショートストーリーです。 番外編で由幸のお話を追加予定です。

大好きな幼馴染と結婚した夜

clayclay
恋愛
架空の国、アーケディア国でのお話。幼馴染との初めての夜。 前作の両親から生まれたエイミーと、その幼馴染のお話です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...