モース10

藤谷 郁

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連れていって

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『おかげ様で順調です。そのことで、慧一さんにお礼を言わなくちゃと思って』

「お礼?」

『胎教のCDをありがとうございます。早速聴いてますよ』

「ああ、CDね。さすが里奈ちゃん、殊勝な心がけだな。素直でよろしい」


 胎教のCDを買うよう、春彦にギフト券を渡しておいたのだ。まだ早いとか何とか言っていたが、ちゃんと買ったらしい。

 ただ、慧一が薦めるロックではなく、クラシックを選んだようだが。


「それで電話をくれたのか。里奈ちゃんの声が聞けて俺も嬉しいよ。なかなか会えないもんなあ。寂しくってさあ」


 慧一は星空を見上げ、離れた場所で暮らす弟夫婦を思った。


『赤ちゃんが生まれたら千葉に連れて行きますので、楽しみに待っててくださいね』


 義妹は嬉しそうに言う。


「赤ちゃんか……誰に似るのかな。君に似ると一番いいんだけど。そうだな、やっぱり俺に似てるといいな。男でも女でも、きっとモテモテだぜ」

『そうですね……なんて言ったら春彦に怒られちゃいますよ。あっ何でもない。ふふ、聞こえちゃったみたいです』


 弟が傍にいるようだ。文句を言う声が聞こえる。


「まあとにかく体を大事にしてくれよ。困ったことがあったら何でも言ってくれ。他人じゃないんだから」

『はい、わかりました。慧一さんもお元気……』


 突然会話が中断された。

 慧一の後頭部に何かがぶつかり、そのはずみでスマートフォンを床に落としたのだ。


「何だ!?」


 後ろを向くと、寝ていたはずの峰子が枕を片手に突っ立っていた。今の一撃は、その枕で加えられたようだ。

 慧一は頭を押さえながら、彼女に向き直る。


「……どうしたんだ」


 峰子は目を真っ赤にして、泣き顔だった。


「酷い!」


 呆然とする慧一に、峰子はいきなり飛びかかってきた。


「待て、おい! こら落ち着け」


 慧一を枕で何度も叩く。
 枕を取り上げると、今度は拳を握りしめ、しゃにむに殴りかかってきた。

 女の拳も顔面に当たると結構痛い。

 慧一は二、三発食らったところで峰子の手首を掴み、もがく体をそのまま床にねじ伏せた。


「痛えだろ! 何するんだ」


 口の中を切ったようで、苦い味がする。血が一滴、泣いている峰子の頬に落ちた。


「どうしたんだよ」


 しゃくりあげる女の肩を掴み、揺すぶった。


「子どもを……」


 涙声で、ぽつりと漏らす。


「子どもを産む人が……いるんですね。うっううっ……」

「は?」

「慧一さんの子どもを、産む人が」

「……」



 やっと分かった。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった峰子を、呆れ顔で見下ろす。


「酷いです。酷いです、ううっ……」


 堰を切ったように、峰子は涙を流し続ける。

 拭っても拭っても間に合わない、滝の涙だ。

 今まで貯めていたものが一息に噴き出たような、そんな泣き方に、慧一は思わず知らず見とれた。

 五分ばかり、二人はそのままでいた。

 峰子は多少落ち着いた様子だが、まだ泣き続けている。


「馬鹿な……!」


 慧一は堪りかねたように吐き出す。

 峰子は、慧一と里奈が電話するのを聞き誤解したらしい。

 だがそれにしても、あまりにも飛躍しすぎの峰子の発想に、他の言葉が浮かばない。


「俺の子どもじゃないよ」


 ため息交じりの慧一に、峰子が懸命に抗議する。


「でも、だって……俺に似てるといいなって、言ってたじゃないですか」


 切れた口元を押さえながら、慧一はかぶりを振った。


「俺の弟の子どもだよ。俺に似たって、おかしくないだろう」


 峰子はぽかんとした。

 涙にまみれたその顔は小さな子どものようで、慧一の胸は切なく痛む。


「……弟?」


 峰子はゆっくりと起きて、慧一と向き合って座る。

 慧一が電話で話したことを頭の中で再生したのか、はっとした表情になった。


「……ああっ」


 すべて理解したようだ。みるみる青ざめる頬を両手で押さえ、おかしいぐらい狼狽する。


「では、里奈さんというのは、つまり」


 峰子は恐る恐る、慧一が親しげに呼ぶ女性が誰なのか、確認した。


義妹いもうとだよ。弟の嫁さん」

「……そう、だったんですか」


 峰子は愕然とし、慧一の痛々しい口元に目を当てる。そして、慌てたように正座すると、床に額を擦り付けた。


「わ、私ったら、なんてことを……ごめんなさい、ごめんなさい。慧一さん、ごめんなさい!!」

「峰子」

「信じようと思ってたのに……ごめんなさいっ」


 峰子の言葉を聞き、慧一は納得する。
 やはり、唯に何か言われたのだ。そして、いっぱいいっぱいになって、冷静に考えればどうということもない会話を誤解した。

 何てことだ――

 峰子はかわいそうなぐらい小さくなっている。

 一人で何もかも抱えて、かわいそうに。

 慧一は峰子を抱き寄せると、子どもをあやすように背中をさすった。


「いいんだよ、峰子。いいんだ」


 嬉しかった。

 峰子の心の底まで見せてもらえたような、そんな喜びで慧一の胸は満たされる。やっとこの子を手に入れることが出来た。抱きしめることが出来たのだ。

 峰子は慧一の腕に抱かれ、再び嗚咽を始めた。


 あたたかく、何もかも受け入れてくれる男性ひと。どうして迷ったりしたの。こんなにも、求めているのに――


 彼女はそっと顔を上げた。涙に濡れた瞳に、強い決意が表れている。


「私も一緒に行きます。イギリスに、連れていって下さい」


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