モース10

藤谷 郁

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望まぬ再会

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 蓼科のホテルに着いたのは夕方だった。

 五階建ての小ぎれいな建物は別荘地の中にあり、通りから離れた場所なので、周囲はとても静かだ。キャンセル待ちで予約した最上階のツインルームは、天井が高いためか広く感じられる。


「高原の避暑地か……」


 慧一は窓辺に立つ峰子を見ながら、何となく口にした。すると、客室係の青年が愛想よく応えた。


「この辺りは年間を通して雨が少なく、からっとしています。特に夏は涼しくて過ごしやすいですよ」

「ふうん」

「気候風土はイギリスに似ているとも言われます」


 峰子がこちらを向き、慧一と目を合わせた。

 だけどすぐに逸らし、窓を開けてベランダに出てしまう。



「どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」


 客室係が退室すると同時に、慧一はベランダに出て、峰子を後ろから抱きすくめた。


「きゃっ」

「部屋に入ろう」


 峰子を中に連れ戻すと、窓を閉めてカーテンも引いた。


「慧一さん……?」

「誘惑したのは、君だからな」


 湖のほとりで、峰子からキスしたことを言っている。慧一は、その仕返しとばかりに、彼女の唇を塞いだ。


「夜まで我慢できない」


 慧一は囁き、峰子を強く抱きしめた。


「……あ、あのっ」


 ベッドに行こうとすると、胸の中で峰子がもがいた。腕を緩めてみると、困った顔で慧一を見上げている。


「何だ?」

「いえ、その……少し待ってください。私、実はそろそろ……」


 彼女の頬が赤くなるのを見て、慧一はもしやと察する。


「マジか……」

「はい。月のものが、きてるかも」



 慧一はこれ以上ないほど落ち込んでしまった。

 愕然とした顔でベッドに座り、肩を落とす。峰子は気の毒になって、彼の背中を撫でさすった。


「でも、まだ前兆があるだけで、始まっていません。だから、お風呂にだって入れますし、もちろん、その……大丈夫ですから」


 峰子は月のものがくる可能性があると告げただけで、実際、まだ始まってはいない。そのことを強調して、彼に望みを持たせた。


「そうなのか?」

「はい」


 慧一はしかし、その気にならなかった。


「いや、やっぱり駄目だ。これは戒めなんだ。君を容赦なく扱おうとした報いなんだよ」

「……え?」


 何やら独りごとをつぶやき、うな垂れる。峰子はわけが分からず、オロオロした。


「君は今、デリケートな状態なんだ。いつもとは違うんだから」


 今のは強がりだと分かる。彼の姿は惨めで、今にも泣きそうに見えた。


「……慧一さん、そんなに?」


 ここまでがっかりされるとは――

 峰子は驚きとともに、何ともいえない愛しさを覚える。欲しいものが手に入らなくて落ち込む小さな子どもみたいで、かわいくなってしまう。

 少しでも望みを叶えてあげたい。慰めてあげたい。


「あの、慧一さん」

「ん?」

「少しくらいなら、大丈夫ですよ」


 彼はゆっくりと顔を上げると、峰子を見た。


「少し?」

「はい」


 だが彼は喜ぶどころか、不満そうに口を尖らせる。


「そういうのは、生殺しと言うのだよ」

「な、なま……?」


 峰子はぽかんとする。思いも寄らぬ反応に戸惑うばかりだ。

 慧一はサッと立ち上がるとクローゼットへずんずんと歩き、浴衣を引っ張り出した。

 怒ったのだろうか。

 峰子は困惑するが、彼はくるりとこちらを向き、


「風呂に入ろうぜ。汗かいちゃった」


 吹っ切れたように、明るく笑った。



◇ ◇ ◇



 一階の大浴場に行く途中、フロントの前を通る。

 ロビーは多くの人で賑やかだ。これからチェックインする客もいれば、既に浴衣姿の客もいる。

 慧一は、ふと視線を感じて立ち止まった。ロビーのソファに座る女性が、こちらをじっと見ている気がした。


「どうかしたのですか?」


 急に足を止める慧一を、峰子が不思議そうに見上げた。


「いや、なんでもない……」

「お久しぶりね、慧一さん!」


 再び歩きかけたところへ声が飛んだ。聞き覚えのある声。

 女はニコニコしながら近付いてきて、二人を交互に眺めた。そして、慧一に視線を定めると、


「うわあ、すっごい偶然。嘘みたいね」


 腕を広げ、大げさに感激を表す。


「私、すぐ近くの別荘に来てるの。ここには温泉に入るために寄ったんだけどね」


 問われもしないのに勝手に説明を始める。相変わらず自己中なやつだ――

 慧一は天を仰ぎたい気分になるが、観念する。

 ここまで接近されては無視もできない。


「よお」


 ぶっきらぼうに挨拶を返す。

 峰子が二人を見比べた。不機嫌な慧一と、にこやかに話しかけてきた美女。何となく事情が呑み込めたらしい。

 そんな峰子に、女が微笑みかける。


「はじめまして。私、川本唯といいます。こちらの滝口さんとは以前、とても親しく……あら、こんな話は無粋ですわね」


 楽しげに笑う唯に、慧一は顔をしかめた。


「峰子、先に行ってろ」

「は、はい」


 峰子は唯に会釈をすると、大浴場へ先に歩いていった。
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