モース10

藤谷 郁

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霧の中

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 キャンセル待ちの部屋が空いたと、昨夜遅くにホテルから連絡があった。

 行き先は長野県の蓼科高原。

 峰子に伝えると、嬉しそうな返事が返ってきた。



 そして、出発の朝八時――

 自宅から離れた表通りで、峰子は待っていた。

 迎えに来た慧一の車を見つけて、大きく手を振る。その無邪気な様子に、慧一は明るい気分になった。

 旅のスタートは上々だ。


「慧一さん、おはようございます」

「おはよう」


 一旦車を降りて、峰子の姿を見回す。

 半袖のカットソーに、スポーツブランドのパンツ。珍しく活発な服装だ。
 腕にジャケットを提げている。
 高原に行くので、羽織るものを用意したのだろう。

 服装に合わせてか、化粧はナチュラルメイクである。

 慧一はサングラスを外し、無遠慮にまじまじと眺めた。あからさまな視線に峰子は照れたのか、そそくさと助手席に乗り込んでしまう。


(女らしい格好だけが色気じゃないんだな)


 慧一も車に乗ると、峰子を横目で窺いつつ、ハンドルをしっかりと握った。




 諏訪インターを降りた後、国道を経て地方道に入り、北上しながら霧ケ峰に向かう。諏訪方面から霧ケ峰・車山高原へと、ビーナスラインを走るコースだ。

 空は多少曇ってきたが、景色は明るく、雨も降っていない。

 だがしばらく行くうちに、雲行きが怪しくなってきた。今にも降り出しそうな空模様である。

 慧一はしかし、機嫌よく車を走らせた。

 彼にとって、天気はさほど問題ではない。隣にいる恋人の心さえ明るければ、それでOKなのだ。



 途中、駐車場を見つけたので小休止することにした。

 車を降りると肌がひんやりした。

 しばらく景色を眺めていると、南から急に風が吹き上げ、周囲の山々を白い霧が隠してしまう。

 あっという間のできごとだった。


「すごいですね、山の天気って」


 気まぐれともいえる変わりように、峰子が目を丸くする。


「そうだな。平地の人間は驚かされる」


 慧一は峰子の腕からジャケットを取り上げると、肩に掛けてやった。自分もリネンの上着を羽織り、駐車場の隅にある自動販売機へと彼女を促す。


「カフェオレが好きなんですね」


 慧一がカフェオレを選ぶのを見て、峰子が言った。


「ああ、やわらかな味が好きなんだ。家でも自分で作って飲んでるよ」

「そうなんですか、うふふ」

「何だよ」

「ごめんなさい。慧一さんが、小鍋を片手に台所に立つところを想像しちゃって……」

「はい?」


 きょとんとする慧一を見て、峰子がクスクス笑う。


「一緒になったら、君に作ってもらうよ」

「え……」


 峰子の顔が戸惑いの表情に変わった。

 慧一は缶を逆さにしてグイッと飲み干し、霧の中を歩き出す。


(いつもそうだ。どうしても、答えを恐れて背を向けてしまう。逃げてるんだ、俺は)


 白い景色へと、彼女の反応も見ずに進んで行く。

 すると、すぐに足音が追いかけてきた。


「待って!」


 峰子がしがみ付くように、慧一の腕に掴まる。


「もう少し、待って下さい」


 か細いけれど、必死な声。彼女の中で、結論はまだ出ていないのだ。

 慧一は解せなかった。

 デートに誘った夜、この子は俺と一緒ならどこでも満足と言った。それは国内限定なのか。海の向こうは無理なのか。

 あるいは、旅行ならいいが、結婚は駄目とか……それとも、あの家から離れられないのか。

 どうして迷うのだろう。


 霧ケ峰は霧の中。峰子の心も霧の中――


「洒落にならねえ」


 真っ白な霧の中で、身動きのとれない自分を嗤った。


「……ごめんなさい、慧一さん」


 慧一はしかし、迷いながらも懸命にしがみついてくる女を憎みきれない。焦りも恐れも封じ込めて、彼女の細い肩を抱いた。


「いいよ。よく考えてくれって言ったのは俺だ。待ってるよ」


 二人はそのまま寄り添い合う。

 今はこうして、互いの体温を感じるだけでいい。何も考えず、温もりを分かち合うことができればいいのだ。


 霧は、長い間留まってはいなかった。

 しばらくすると空が明るくなり、道を行く車がスピードをそろそろと上げ始めるのが分かった。


(霧は晴れる。いつか必ず答えは出る。待ってやれよ)


 峰子の手を取ると、ゆったりとした足取りで歩き出した。



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