モース10

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
64 / 82
霧の中

しおりを挟む
 キャンセル待ちの部屋が空いたと、昨夜遅くにホテルから連絡があった。

 行き先は長野県の蓼科高原。

 峰子に伝えると、嬉しそうな返事が返ってきた。



 そして、出発の朝八時――

 自宅から離れた表通りで、峰子は待っていた。

 迎えに来た慧一の車を見つけて、大きく手を振る。その無邪気な様子に、慧一は明るい気分になった。

 旅のスタートは上々だ。


「慧一さん、おはようございます」

「おはよう」


 一旦車を降りて、峰子の姿を見回す。

 半袖のカットソーに、スポーツブランドのパンツ。珍しく活発な服装だ。
 腕にジャケットを提げている。
 高原に行くので、羽織るものを用意したのだろう。

 服装に合わせてか、化粧はナチュラルメイクである。

 慧一はサングラスを外し、無遠慮にまじまじと眺めた。あからさまな視線に峰子は照れたのか、そそくさと助手席に乗り込んでしまう。


(女らしい格好だけが色気じゃないんだな)


 慧一も車に乗ると、峰子を横目で窺いつつ、ハンドルをしっかりと握った。




 諏訪インターを降りた後、国道を経て地方道に入り、北上しながら霧ケ峰に向かう。諏訪方面から霧ケ峰・車山高原へと、ビーナスラインを走るコースだ。

 空は多少曇ってきたが、景色は明るく、雨も降っていない。

 だがしばらく行くうちに、雲行きが怪しくなってきた。今にも降り出しそうな空模様である。

 慧一はしかし、機嫌よく車を走らせた。

 彼にとって、天気はさほど問題ではない。隣にいる恋人の心さえ明るければ、それでOKなのだ。



 途中、駐車場を見つけたので小休止することにした。

 車を降りると肌がひんやりした。

 しばらく景色を眺めていると、南から急に風が吹き上げ、周囲の山々を白い霧が隠してしまう。

 あっという間のできごとだった。


「すごいですね、山の天気って」


 気まぐれともいえる変わりように、峰子が目を丸くする。


「そうだな。平地の人間は驚かされる」


 慧一は峰子の腕からジャケットを取り上げると、肩に掛けてやった。自分もリネンの上着を羽織り、駐車場の隅にある自動販売機へと彼女を促す。


「カフェオレが好きなんですね」


 慧一がカフェオレを選ぶのを見て、峰子が言った。


「ああ、やわらかな味が好きなんだ。家でも自分で作って飲んでるよ」

「そうなんですか、うふふ」

「何だよ」

「ごめんなさい。慧一さんが、小鍋を片手に台所に立つところを想像しちゃって……」

「はい?」


 きょとんとする慧一を見て、峰子がクスクス笑う。


「一緒になったら、君に作ってもらうよ」

「え……」


 峰子の顔が戸惑いの表情に変わった。

 慧一は缶を逆さにしてグイッと飲み干し、霧の中を歩き出す。


(いつもそうだ。どうしても、答えを恐れて背を向けてしまう。逃げてるんだ、俺は)


 白い景色へと、彼女の反応も見ずに進んで行く。

 すると、すぐに足音が追いかけてきた。


「待って!」


 峰子がしがみ付くように、慧一の腕に掴まる。


「もう少し、待って下さい」


 か細いけれど、必死な声。彼女の中で、結論はまだ出ていないのだ。

 慧一は解せなかった。

 デートに誘った夜、この子は俺と一緒ならどこでも満足と言った。それは国内限定なのか。海の向こうは無理なのか。

 あるいは、旅行ならいいが、結婚は駄目とか……それとも、あの家から離れられないのか。

 どうして迷うのだろう。


 霧ケ峰は霧の中。峰子の心も霧の中――


「洒落にならねえ」


 真っ白な霧の中で、身動きのとれない自分を嗤った。


「……ごめんなさい、慧一さん」


 慧一はしかし、迷いながらも懸命にしがみついてくる女を憎みきれない。焦りも恐れも封じ込めて、彼女の細い肩を抱いた。


「いいよ。よく考えてくれって言ったのは俺だ。待ってるよ」


 二人はそのまま寄り添い合う。

 今はこうして、互いの体温を感じるだけでいい。何も考えず、温もりを分かち合うことができればいいのだ。


 霧は、長い間留まってはいなかった。

 しばらくすると空が明るくなり、道を行く車がスピードをそろそろと上げ始めるのが分かった。


(霧は晴れる。いつか必ず答えは出る。待ってやれよ)


 峰子の手を取ると、ゆったりとした足取りで歩き出した。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ホリカヨは俺様上司を癒したい!

森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。 そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。 『郡司部長、私はあなたを癒したいです』 ※他の投稿サイトにも載せています。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

そこは優しい悪魔の腕の中

真木
恋愛
極道の義兄に引き取られ、守られて育った遥花。檻のような愛情に囲まれていても、彼女は恋をしてしまった。悪いひとたちだけの、恋物語。

強面騎士団長と転生皇女の物語

狭山雪菜
恋愛
コイタ王国第一皇女のサーシャは、とある理由から未婚のまま城に住んでいた。 成人式もとっくに済ませた20歳になると、国王陛下から縁談を結ばれて1年後に結婚式を挙げた。 その相手は、コイタ王国の騎士団団長だったのだがーー この作品は、「小説家になろう」にも掲載しております。

トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~

日暮ミミ♪
恋愛
大財閥〈篠沢(しのざわ)グループ〉本社・篠沢商事に勤める25歳の桐島貢(きりしまみつぐ)。 彼は秋のある夜、上司の代理で出席した会社のパーティーで、会長令嬢で高校2年生の篠沢絢乃(しのざわあやの)に一目惚れ。 その三ヶ月後、会長・篠沢源一が末期ガンでこの世を去る。 葬儀の日、父の遺言により会長の後継者となった絢乃を支えるべく、秘書室へ転属する旨を彼女に伝える。 絢乃は無事、会長に就任。会長付秘書として働くことになった貢はある日、会社帰りの愛車の中で絢乃に衝動的にキスをしてしまい――!? 草食系男子の年上秘書×キュートな10代の大企業総帥による、年の差オフィスラブストーリーのヒーローサイド。

貴族の爵位って面倒ね。

しゃーりん
恋愛
ホリーは公爵令嬢だった母と男爵令息だった父との間に生まれた男爵令嬢。 両親はとても仲が良くて弟も可愛くて、とても幸せだった。 だけど、母の運命を変えた学園に入学する歳になって…… 覚悟してたけど、男爵令嬢って私だけじゃないのにどうして? 理不尽な嫌がらせに助けてくれる人もいないの? ホリーが嫌がらせされる原因は母の元婚約者の息子の指示で… 嫌がらせがきっかけで自国の貴族との縁が難しくなったホリーが隣国の貴族と幸せになるお話です。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...