モース10

藤谷 郁

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霧の中

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『あなたと初めて会った夜、微かに石鹸の香りがしたわ』

「石鹸?」

『ええ。でもどうしてかしら、峰子からはなにも感じないのに、あなただけお風呂に入ったばかりのような石鹸の香り。私は鼻がとっても利くのよ。本当に微かな香りだったけど』


 慧一はハッとする。
 峰子と初めてベッドをともにした、あの夜だ。


(峰子はボディソープを使わなかったのか!)


 その事実に思い至り、愕然とする。

 男とデートする際、親に配慮する女性と慧一は付き合ったことがない。しかし、それにしても迂闊だった。


『正直、あの時は何て人だろうと思ったわ。よほどのお間抜けさんか、無神経か、図々しいか、どれかだと思って、あなたの顔を見たの』


(そうだったのか……)


 今更ながら冷や汗が出る。慧一は心して、次の言葉を待った。


『そうしたら、あなたは全く悪びれもせず、あんな真っ正直な目で私を見てるじゃない。いやらしさや卑屈なものが、まるでなかった』


(だからあの時、この人は俺の顔を見て驚き、何か言いたそうにしたんだ)


 慧一はひとり赤面した。


『その上きちんと挨拶をして、手土産を持って、まあ本当に、おっほほほ』


 とうとう母親は大きく笑った。

 峰子にも、聞こえているかもしれない。一体何があったのかと、不思議に思うだろう。


『あの夜は、峰子の様子がいつもと違ってたの。階段をバタバタと上がったり下りたり、あなたを外まで見送ったりして、あんな風に興奮して人と接する姿を初めて見た』

「そうなんですか」


 母親の観察眼に感心しつつ、 慧一は落ち着いて考えてみた。


(と言うことは、二回目に立ち寄った時も、俺と峰子が何をして来たか、この人はすっかり分かってたのか。あの日も俺は体をボディソープで洗った。要するに、二度も凡ミスをやらかしたってわけだ)


 慧一はあらためて汗を拭う。最高だと思った両親との対面は、実はぎりぎりの綱渡りだったのだ。


『あなたは思ったことを小気味良いぐらいにやってしまう人。間抜けでも無神経でもない、図々しくもない。つまり、ただただ自分に正直に、行動する人なのよ』


 慧一は頭を垂れた。本当に敵わない。

 石鹸の香り。

 ただひとつの綻びからこうまでバレてしまうとは。

 やはり俺は間抜けだと思った。


(それにしても、そこまで見抜きながら、なぜ俺を黙って帰したのだろう。娘の貞操を奪った男を……この母親にしては甘すぎる対応だ)


 不思議に感じるのを察してか、母親が急に声を落とした。


『あの頃、峰子の倒錯本を見つけていなかったら、滝口さんを許さなかったと思います』

「同人誌ですか」

『ええ』


 母親が声をひそめた。


『あなたと……つまり男性と普通に恋愛する姿を見て、妙な話ですが、とても安心したのですよ』

「そう、だったんですか」


 恋愛という言葉に、慧一は違和感を覚える。

 初めての夜は、まだ恋愛関係と確信できない時期だった。母親にはそう見えたのか。それとも、男女の仲になったなら恋愛関係という概念だろうか。

 慧一は頭を振った。今はそんなことを考えている場合ではない。

 それより、この母親がなぜ自分に対して「あの人なら安全ね」と言ったのか、理解できた気がする。


(俺は峰子の恋愛対象として、ノーマルで安全な三次元の男。この母親の基準からすると、娘の貞節よりも、倒錯した趣味のほうが深刻な憂いごとというわけだ。その辺りが、この家のパラドックスかもしれない)


「ええと、よく分かりました。もう、バレバレですね。僕の行動は」


 慧一は白旗を掲げつつ、話を戻した。


『そう。だからもう、私は何も言いません。ただ……』

「ただ?」

『お父さんのことは、あまり刺激しないでほしいの。父親にとって、娘はいつまでも大事な宝物みたいなものだから』

「ということは、お父さんには内緒、ですか」

『あなたからすると隠し事をするなんて本意じゃないかもしれないけれど、これだけはどうか承知してください』


 母親にはすっかり性格を把握されたようで、こう出られては、もはや何も言うことはない。従うことにした。


『それでは、峰子に代わりますね。あっ、あと、十四日の件ですけど』

「ええ」

『当日は、よろしくお願いします』

「分かりました。僕のほうこそ、よろしくお願いします」


 イベントについて短く打ち合わせをした後、母親は電話を代わった。


 しばらくすると、峰子の声が飛び込んできた。


『大丈夫ですか!?』


 噛みつくような勢いだ。心配でしょうがなかったのだろう。


「ああ、もちろん。お母さんも別に怒ってなかっただろ?」

『それはそうですけど』

「旅行は予定どおり、明後日から一泊だ」

『……信じられません』


 許可を得たと思っているらしい。

 まあ半分は正解だ。いいともダメとも言われなかったのだから。


「ただ、お父さんには内緒だよ。それでもいいか」

『構いません』

「峰子……」


 きっぱりとした返事に感激し、思わず名前を呼んだ。


「愛してるよ」

『……』


 反応がない。照れたのか、それとも言葉を探しているのか。

 だが慧一には、その困惑が嬉しかった。



 通話を切ると、早速ホテル探しに取り掛かる。こんな時期だから、どこも満室だろう。

 どこだっていい。

 宿が取れなきゃ、テントだろうが車中だろうが、それでも構わない。朝も夜も二人で一緒に過ごせるなら、どこでも “満足” だ。


 慧一は期待で胸をいっぱいにして、他のすべてをどこかへ押しやる。

 恋愛の陽の当たる場所で、彼は今、楽しいことにのみ集中していた。

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