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一泊旅行のお誘い
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夕方、慧一は帰り支度をすると、後ろのデスクに声をかけた。
「真介、もう帰るんだろ。時間があるならロマンに付き合えよ」
「ああ、いいね。俺も寄りたいと思ってた」
真介はパソコンの電源を切り、誘いに応じた。
◇ ◇ ◇
「家族でキャンプか。夏休みらしい光景だな」
真介が窓を眺めながら言う。この時期は山のキャンプ場に訪れる車が多く、ロマンの周辺も賑やかな雰囲気だ。
「そうだな」
家族という言葉に、慧一はドキッとする。カフェオレを飲みながら、峰子を思い浮かべた。
「それにしても、お前と三原さん、いい感じじゃないか」
「ん?」
峰子の名前が出て、さらにドキッとした。
「上手くいってるみたいだな」
真介は慧一の動揺に気付かず、ニコニコと笑う。
「まあね」
今はそれしか言えない。これからどうなるのか、自分にも分からないのだ。
「それに、何だか彼女、どこか変わった気がしたな」
「……」
「今までも愛想のいい子だったけど、もっとこう、なんて言うか……」
適当な言葉が出ない真介に代わり、慧一がつぶやく。
「色気を感じる?」
「あ、ああ、そうなんだ。そう、思ったんだよ」
真介は赤くなり、何度も頷いた。
慧一は複雑だった。
この奥手な男にも分かるぐらい、峰子の雰囲気は変わった。
その原因は言うまでもなく慧一自身なので、色香を封じ込めてほしいなどと願うのは身勝手である。
でも、地味な峰子でいてほしい。
女の匂いを敏感に嗅ぎつけ、雄として近付いてくる奴らに、誘惑されないように。
慧一は、若い営業マンの眼の色を思い出す。明らかに、雄の色だった。だから、こっちも雄としてイライラしたのだ。
黙り込む慧一に、真介は訝しげに声をかけた。
「どうした……怒ったのか?」
慧一は顔を横に振り、ため息をつく。
この苦しい胸の内を話すことができたら、どんなに楽だろう。
だけど、誰にも言えない。誰にも解決できない。峰子以外は誰も俺を幸せに出来ない。そこまで考えてしまう。
こんな気持ちは初めてのことで、免疫のない辛さだった。
(もし、峰子に断られたら……)
彼女はもう十分に女だ。
遠い外国なんぞに行ってしまっては、どうにもできない。彼女がもし、他の誰かと恋をしても、そいつに抱かれても……
めまいがしそうな感情が渦巻く。仮定の話で、これほど取り乱すなんて。
慧一は、嫉妬という嵐のような感情を持て余した。
「具合が悪そうだな。大丈夫か」
真介の声で我に返る。
「三原さんと何かあったのか」
親友に心配されて、つい甘えそうになったが、耐えた。
「いや、別に」
慧一は飲みかけのカップを置き、「自分から誘っておいてすまない」と真介に謝り、先に帰ることにした。
彼はついて来ようとするが、それをやんわり断って店を出た。
独りになりたかった。
駐車場は夕闇に包まれていた。風に乗り、遅れてきたキャンパーのペグを打つ音が聞こえる。
(家族でキャンプか……)
そんな未来が俺にもあるのだろうか。
慧一は苦しい胸を抱えたまま、じっと耐えるしかなかった。
◇ ◇ ◇
夜、慧一はカレンダーを見ながら、盆休みの予定を検討した。
峰子とは具体的な約束をしていない。プロポーズの返事はひとまず横に置き、デートに誘いたいと思う。
だが、スマートフォンを手にしても、いざとなると発信できなかった。今朝の彼女を思うと、どうしてもためらってしまう。
峰子の番号を出したり引っ込めたり、そんな作業を何度か繰り返した後、
「情けないぞ、お前!」
自分を叱咤し、思い切って発信した。
クソ度胸である。
呼び出し音が聞こえると、鼓動が速くなった。
だが、いっこうに出る気配がなく、そのまま留守番電話に切り替わってしまう。
慧一は軽くショックを受けたが、また電話すると伝言を吹き込んでおいた。
(どうして出ないんだ)
口を尖らせ、ベッドの上にスマートフォンを放った。
床に寝そべり腐っていると、電話が鳴った。ただしそれは、自宅の固定電話である。
階段下から、母親の応答する声が聞こえた。
「……少しお待ちください。慧一、電話よ!」
思わず飛び起きる。
母親が二階に上がってきて、慧一の部屋を覗いた。彼女の持つ子機から、保留中のメロディが流れている。
「誰から?」
期待を込めて尋ねるも、返事はハズレだった。
「課長さんからよ」
慧一に子機を手渡すと、母親は階段を下りていった。
『悪いね、夜遅く』
課長のはきはきとした声が聞こえる。慧一はベッドに放ったスマートフォンを見ながら、耳だけ子機に集中させた。
「いえ、大丈夫です」
『この間の件だけど、どうやら本決まりになりそうだ』
「そうですか」
心で息をつく。決まるなら決まるで、早く知りたかった。
『休み明けに内示が出るよ。もう一度確認しておこうと、電話したんだ。どうだい、行けそうか』
「ええ、特に問題ありません」
慧一は目を閉じた。
『そうか、良かった。実は前任者の都合で急な人事になってね、ちょっと言いにくかったんだ』
普段は厳しい課長が遠慮がちに言うので、慧一はつい微笑する。
『正式に辞令が下りるのは十月で、向こうに移るのは十二月だと。意外と余裕のあるスケジュールだな』
「分かりました」
『任期は五年だ。詳しいことはまた話があるから、その時に。何か変わったことがあれば、いつでも言ってくれ、いいね』
「ありがとうございます」
父親のように気遣ってくれる上司に感謝の念を持った。
「真介、もう帰るんだろ。時間があるならロマンに付き合えよ」
「ああ、いいね。俺も寄りたいと思ってた」
真介はパソコンの電源を切り、誘いに応じた。
◇ ◇ ◇
「家族でキャンプか。夏休みらしい光景だな」
真介が窓を眺めながら言う。この時期は山のキャンプ場に訪れる車が多く、ロマンの周辺も賑やかな雰囲気だ。
「そうだな」
家族という言葉に、慧一はドキッとする。カフェオレを飲みながら、峰子を思い浮かべた。
「それにしても、お前と三原さん、いい感じじゃないか」
「ん?」
峰子の名前が出て、さらにドキッとした。
「上手くいってるみたいだな」
真介は慧一の動揺に気付かず、ニコニコと笑う。
「まあね」
今はそれしか言えない。これからどうなるのか、自分にも分からないのだ。
「それに、何だか彼女、どこか変わった気がしたな」
「……」
「今までも愛想のいい子だったけど、もっとこう、なんて言うか……」
適当な言葉が出ない真介に代わり、慧一がつぶやく。
「色気を感じる?」
「あ、ああ、そうなんだ。そう、思ったんだよ」
真介は赤くなり、何度も頷いた。
慧一は複雑だった。
この奥手な男にも分かるぐらい、峰子の雰囲気は変わった。
その原因は言うまでもなく慧一自身なので、色香を封じ込めてほしいなどと願うのは身勝手である。
でも、地味な峰子でいてほしい。
女の匂いを敏感に嗅ぎつけ、雄として近付いてくる奴らに、誘惑されないように。
慧一は、若い営業マンの眼の色を思い出す。明らかに、雄の色だった。だから、こっちも雄としてイライラしたのだ。
黙り込む慧一に、真介は訝しげに声をかけた。
「どうした……怒ったのか?」
慧一は顔を横に振り、ため息をつく。
この苦しい胸の内を話すことができたら、どんなに楽だろう。
だけど、誰にも言えない。誰にも解決できない。峰子以外は誰も俺を幸せに出来ない。そこまで考えてしまう。
こんな気持ちは初めてのことで、免疫のない辛さだった。
(もし、峰子に断られたら……)
彼女はもう十分に女だ。
遠い外国なんぞに行ってしまっては、どうにもできない。彼女がもし、他の誰かと恋をしても、そいつに抱かれても……
めまいがしそうな感情が渦巻く。仮定の話で、これほど取り乱すなんて。
慧一は、嫉妬という嵐のような感情を持て余した。
「具合が悪そうだな。大丈夫か」
真介の声で我に返る。
「三原さんと何かあったのか」
親友に心配されて、つい甘えそうになったが、耐えた。
「いや、別に」
慧一は飲みかけのカップを置き、「自分から誘っておいてすまない」と真介に謝り、先に帰ることにした。
彼はついて来ようとするが、それをやんわり断って店を出た。
独りになりたかった。
駐車場は夕闇に包まれていた。風に乗り、遅れてきたキャンパーのペグを打つ音が聞こえる。
(家族でキャンプか……)
そんな未来が俺にもあるのだろうか。
慧一は苦しい胸を抱えたまま、じっと耐えるしかなかった。
◇ ◇ ◇
夜、慧一はカレンダーを見ながら、盆休みの予定を検討した。
峰子とは具体的な約束をしていない。プロポーズの返事はひとまず横に置き、デートに誘いたいと思う。
だが、スマートフォンを手にしても、いざとなると発信できなかった。今朝の彼女を思うと、どうしてもためらってしまう。
峰子の番号を出したり引っ込めたり、そんな作業を何度か繰り返した後、
「情けないぞ、お前!」
自分を叱咤し、思い切って発信した。
クソ度胸である。
呼び出し音が聞こえると、鼓動が速くなった。
だが、いっこうに出る気配がなく、そのまま留守番電話に切り替わってしまう。
慧一は軽くショックを受けたが、また電話すると伝言を吹き込んでおいた。
(どうして出ないんだ)
口を尖らせ、ベッドの上にスマートフォンを放った。
床に寝そべり腐っていると、電話が鳴った。ただしそれは、自宅の固定電話である。
階段下から、母親の応答する声が聞こえた。
「……少しお待ちください。慧一、電話よ!」
思わず飛び起きる。
母親が二階に上がってきて、慧一の部屋を覗いた。彼女の持つ子機から、保留中のメロディが流れている。
「誰から?」
期待を込めて尋ねるも、返事はハズレだった。
「課長さんからよ」
慧一に子機を手渡すと、母親は階段を下りていった。
『悪いね、夜遅く』
課長のはきはきとした声が聞こえる。慧一はベッドに放ったスマートフォンを見ながら、耳だけ子機に集中させた。
「いえ、大丈夫です」
『この間の件だけど、どうやら本決まりになりそうだ』
「そうですか」
心で息をつく。決まるなら決まるで、早く知りたかった。
『休み明けに内示が出るよ。もう一度確認しておこうと、電話したんだ。どうだい、行けそうか』
「ええ、特に問題ありません」
慧一は目を閉じた。
『そうか、良かった。実は前任者の都合で急な人事になってね、ちょっと言いにくかったんだ』
普段は厳しい課長が遠慮がちに言うので、慧一はつい微笑する。
『正式に辞令が下りるのは十月で、向こうに移るのは十二月だと。意外と余裕のあるスケジュールだな』
「分かりました」
『任期は五年だ。詳しいことはまた話があるから、その時に。何か変わったことがあれば、いつでも言ってくれ、いいね』
「ありがとうございます」
父親のように気遣ってくれる上司に感謝の念を持った。
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