モース10

藤谷 郁

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一泊旅行のお誘い

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 夕方、慧一は帰り支度をすると、後ろのデスクに声をかけた。


「真介、もう帰るんだろ。時間があるならロマンに付き合えよ」

「ああ、いいね。俺も寄りたいと思ってた」


 真介はパソコンの電源を切り、誘いに応じた。



 ◇ ◇ ◇



「家族でキャンプか。夏休みらしい光景だな」


 真介が窓を眺めながら言う。この時期は山のキャンプ場に訪れる車が多く、ロマンの周辺も賑やかな雰囲気だ。


「そうだな」


 家族という言葉に、慧一はドキッとする。カフェオレを飲みながら、峰子を思い浮かべた。


「それにしても、お前と三原さん、いい感じじゃないか」

「ん?」


 峰子の名前が出て、さらにドキッとした。


「上手くいってるみたいだな」


 真介は慧一の動揺に気付かず、ニコニコと笑う。


「まあね」


 今はそれしか言えない。これからどうなるのか、自分にも分からないのだ。


「それに、何だか彼女、どこか変わった気がしたな」

「……」

「今までも愛想のいい子だったけど、もっとこう、なんて言うか……」


 適当な言葉が出ない真介に代わり、慧一がつぶやく。


「色気を感じる?」

「あ、ああ、そうなんだ。そう、思ったんだよ」


 真介は赤くなり、何度も頷いた。


 慧一は複雑だった。

 この奥手な男にも分かるぐらい、峰子の雰囲気は変わった。

 その原因は言うまでもなく慧一自身なので、色香を封じ込めてほしいなどと願うのは身勝手である。

 でも、地味な峰子でいてほしい。

 女の匂いを敏感に嗅ぎつけ、雄として近付いてくる奴らに、誘惑されないように。

 慧一は、若い営業マンの眼の色を思い出す。明らかに、雄の色だった。だから、こっちも雄としてイライラしたのだ。

 黙り込む慧一に、真介は訝しげに声をかけた。


「どうした……怒ったのか?」


 慧一は顔を横に振り、ため息をつく。

 この苦しい胸の内を話すことができたら、どんなに楽だろう。

 だけど、誰にも言えない。誰にも解決できない。峰子以外は誰も俺を幸せに出来ない。そこまで考えてしまう。

 こんな気持ちは初めてのことで、免疫のない辛さだった。


(もし、峰子に断られたら……)


 彼女はもう十分に女だ。

 遠い外国なんぞに行ってしまっては、どうにもできない。彼女がもし、他の誰かと恋をしても、そいつに抱かれても……

 めまいがしそうな感情が渦巻く。仮定の話で、これほど取り乱すなんて。

 慧一は、嫉妬という嵐のような感情を持て余した。


「具合が悪そうだな。大丈夫か」


 真介の声で我に返る。


「三原さんと何かあったのか」


 親友に心配されて、つい甘えそうになったが、耐えた。


「いや、別に」


 慧一は飲みかけのカップを置き、「自分から誘っておいてすまない」と真介に謝り、先に帰ることにした。

 彼はついて来ようとするが、それをやんわり断って店を出た。

 独りになりたかった。



 駐車場は夕闇に包まれていた。風に乗り、遅れてきたキャンパーのペグを打つ音が聞こえる。


(家族でキャンプか……)


 そんな未来が俺にもあるのだろうか。

 慧一は苦しい胸を抱えたまま、じっと耐えるしかなかった。



 ◇ ◇ ◇



 夜、慧一はカレンダーを見ながら、盆休みの予定を検討した。

 峰子とは具体的な約束をしていない。プロポーズの返事はひとまず横に置き、デートに誘いたいと思う。

 だが、スマートフォンを手にしても、いざとなると発信できなかった。今朝の彼女を思うと、どうしてもためらってしまう。

 峰子の番号を出したり引っ込めたり、そんな作業を何度か繰り返した後、


「情けないぞ、お前!」


 自分を叱咤し、思い切って発信した。

 クソ度胸である。

 呼び出し音が聞こえると、鼓動が速くなった。

 だが、いっこうに出る気配がなく、そのまま留守番電話に切り替わってしまう。

 慧一は軽くショックを受けたが、また電話すると伝言を吹き込んでおいた。


(どうして出ないんだ)


 口を尖らせ、ベッドの上にスマートフォンを放った。


 床に寝そべり腐っていると、電話が鳴った。ただしそれは、自宅の固定電話である。

 階段下から、母親の応答する声が聞こえた。


「……少しお待ちください。慧一、電話よ!」


 思わず飛び起きる。

 母親が二階に上がってきて、慧一の部屋を覗いた。彼女の持つ子機から、保留中のメロディが流れている。


「誰から?」


 期待を込めて尋ねるも、返事はハズレだった。


「課長さんからよ」


 慧一に子機を手渡すと、母親は階段を下りていった。


『悪いね、夜遅く』


 課長のはきはきとした声が聞こえる。慧一はベッドに放ったスマートフォンを見ながら、耳だけ子機に集中させた。


「いえ、大丈夫です」

『この間の件だけど、どうやら本決まりになりそうだ』

「そうですか」


 心で息をつく。決まるなら決まるで、早く知りたかった。


『休み明けに内示が出るよ。もう一度確認しておこうと、電話したんだ。どうだい、行けそうか』

「ええ、特に問題ありません」


 慧一は目を閉じた。


『そうか、良かった。実は前任者の都合で急な人事になってね、ちょっと言いにくかったんだ』


 普段は厳しい課長が遠慮がちに言うので、慧一はつい微笑する。


『正式に辞令が下りるのは十月で、向こうに移るのは十二月だと。意外と余裕のあるスケジュールだな』

「分かりました」

『任期は五年だ。詳しいことはまた話があるから、その時に。何か変わったことがあれば、いつでも言ってくれ、いいね』

「ありがとうございます」


 父親のように気遣ってくれる上司に感謝の念を持った。
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