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だから好きになった
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夜、転勤の打診があったことを両親に報せた。
「何年ぐらい務めるの?」
母親が食後のコーヒーを運びながら訊いてくる。あまり喜ばしい顔ではない。
「短くて五年かな」
慧一は淡々と答える。
まだ本決まりではないし、実感がないのだ。
「五年……帰って来る頃は三十三歳か」
父親が指折り数えて言うと、母親はふっと息をついた。
「あんた、良い人いないの?」
慧一はカップを置いて、腕組みをする。
(いることはいるが……)
「奥さんがいるなら安心して送り出せるけど、独り身のまま外国に行くなんて」
母親が元気なく言うと、父親が可笑しそうに笑った。
「おいおい。慧一が就職した時、一人暮らしをしたいって言うのを無理に引き止めたのは母さんだろ。寂しいかもしれんが、今まで一緒に住んでもらったんだから、そろそろ解放してあげなさい」
「はあ?」
夫の言い方が気に入らないのか、母親はムキになった。
「寂しいから言ってるんじゃないわよ。それにあの時は、会社が近いのにアパートを借りるなんて無駄だから、一緒に住むようすすめたのよ」
「だったらいいじゃないか。今度はイギリスだろ、一人で住むしか仕方あるまい。仕事に慧一の能力が必要だから白羽の矢が立ったんだ。奥さんがいようがいまいが、そんな事情はこの際無関係だよ」
父親のさらりとした意見に、慧一は感心する。普段は口出ししないが、やはりこの父親は分かっている。
しかし母親は、夫にそんなことを言われても納得できないようだ。
「お父さんはね、慧一が大学生の頃に住んでたアパートを覗いたことも無いから、そんな風に言えるのよ」
「ほう、どんなだった」
「言いたくないけど、ごみ溜めだったわ」
慧一は「ひでえ」と口を尖らせるが、抗議はしない。実際、その通りだったからだ。
父親はコーヒーを飲み終えると、ふうっと息をついた。
「ならば、母さんがついて行くしかないな。イギリスで、母と息子の二人暮らしだ」
「それだけは勘弁して!」
即座に断る息子に、
「行くわけないでしょ、馬鹿!」
母親は軽く小突く真似をした。
両親が笑うのを見て、慧一は少し気楽になる。母親が心配する気持ちはよく分かっているのだ。
ひとしきり笑った後、母親がぽつりと漏らした。
「でも、いやなら断ってもいいんでしょ」
慧一は空になったカップをテーブルに置くと、両親の顔を交互に見やった。
「断る理由も無いし、まあ……俺としては、どちらかといえば乗り気だね」
明るく意思表明する息子に、母親は驚くが、父親は頷いている。
「そうなの?」
「うん」
「なら仕方ないわね」
「うん」
「でも……」
椅子を立ちかける慧一に、母親はなおも心配そうな声でつぶやいた。
「奥さんが一緒ならねえ」
(奥さんか……)
慧一はもちろん、峰子を思い浮かべる。だが、いきなり海外へ連れて行くとなると、いささか自信がなかった。
◇ ◇ ◇
慧一は自室に戻ると、伊上京子に電話をかけた。十四日のイベントについて詳しく聞きたかったのだ。
その前振りに峰子との現状を話すと、京子は驚きの声を上げた。
『マジですか。あの峰子ちゃんと恋人になったなんて……信じられません』
慧一は京子の気持ちを、よく理解することができた。自分でも時々、夢みたいな展開だと思う。
『そ、それで、ええと……十四日の日曜日に、一般参加されるわけですね』
京子は気を取り直し、イベントについて教えてくれた。
『会場は広いし暑いし、何よりすっごく混むし、結構大変ですよ。いきなり一人で参加して大丈夫かなあ』
「いや、一人じゃないよ」
『えっ? 誰かと一緒なんですか』
「うん。連れがいる」
峰子の母親だと、今は言わずとも良いだろう。
『もしかして、例の真介さん?』
「いや、違う。うーん……言うなれば俺の身内だな」
将来の――と、心で付け足した。
『そうなんですか。真介さんなら、一度会ってみたいと思ったんだけどなあ』
京子があまりにも残念そうなので、慧一はもしやと思う。
『あっ、違いますよ? シンのモデルとして興味があるだけで、個人的にってわけじゃありませんから』
「ははっ……分かってるよ」
言いわけの裏にある本音を、今は見過ごす。人の世話を焼く余裕はまだない。
『でも、私のほうに電話をされたってことは、峰子ちゃんに内緒なんですよね』
京子が急に声をひそめ、確認する。
「一応ね。でもまあ臨機応変ってことで、その辺りは君に任せるよ」
『わっ、責任重大ですね。うふふ』
いたずらっぽく笑う京子の顔が目に浮かび、慧一は頭を掻いた。
『それにしても、慧一さん』
「うん?」
『モースみたいですね』
「何が?」
『慧一さんと峰子ちゃんですよ』
京子の真面目な声に、慧一は耳を澄ます。
「どういうことだ?」
『だって、ケイとシンも同じ会社に勤めてる設定だし、八歳違いじゃないですか』
「ああ、そう言えばそうだな」
『初めは脆かった二人の絆が段々と強くなり、愛し合うようになる。慧一さんと峰子ちゃんに、そのまま当てはまるじゃないですか』
「なるほど……」
モースのストーリーを、頭の中で辿ってみる。
『結末はご存知ですよね』
「ああ」
地球上で最も硬い物質であるダイヤモンドのように、他の何ものにも征服されることのない不屈の愛、強い絆でケイとシンは結ばれる。身も心も――
『本当に、あの通りになるといいですね』
慧一は床に寝そべると、静かに目を閉じる。峰子の潤んだ瞳が、彼を見つめていた。
「もうなってるよ」
『何言ってるんですか。違いますよ!』
京子の甲高い声に、ぱっと瞼を開く。
「違う?」
『ダイヤモンドですよ、慧一さん。ダイヤモンドは永遠の愛、愛の約束、それすなわち……』
京子は一呼吸おいて、ゆっくりと教えた。
『結・婚……です!』
「何年ぐらい務めるの?」
母親が食後のコーヒーを運びながら訊いてくる。あまり喜ばしい顔ではない。
「短くて五年かな」
慧一は淡々と答える。
まだ本決まりではないし、実感がないのだ。
「五年……帰って来る頃は三十三歳か」
父親が指折り数えて言うと、母親はふっと息をついた。
「あんた、良い人いないの?」
慧一はカップを置いて、腕組みをする。
(いることはいるが……)
「奥さんがいるなら安心して送り出せるけど、独り身のまま外国に行くなんて」
母親が元気なく言うと、父親が可笑しそうに笑った。
「おいおい。慧一が就職した時、一人暮らしをしたいって言うのを無理に引き止めたのは母さんだろ。寂しいかもしれんが、今まで一緒に住んでもらったんだから、そろそろ解放してあげなさい」
「はあ?」
夫の言い方が気に入らないのか、母親はムキになった。
「寂しいから言ってるんじゃないわよ。それにあの時は、会社が近いのにアパートを借りるなんて無駄だから、一緒に住むようすすめたのよ」
「だったらいいじゃないか。今度はイギリスだろ、一人で住むしか仕方あるまい。仕事に慧一の能力が必要だから白羽の矢が立ったんだ。奥さんがいようがいまいが、そんな事情はこの際無関係だよ」
父親のさらりとした意見に、慧一は感心する。普段は口出ししないが、やはりこの父親は分かっている。
しかし母親は、夫にそんなことを言われても納得できないようだ。
「お父さんはね、慧一が大学生の頃に住んでたアパートを覗いたことも無いから、そんな風に言えるのよ」
「ほう、どんなだった」
「言いたくないけど、ごみ溜めだったわ」
慧一は「ひでえ」と口を尖らせるが、抗議はしない。実際、その通りだったからだ。
父親はコーヒーを飲み終えると、ふうっと息をついた。
「ならば、母さんがついて行くしかないな。イギリスで、母と息子の二人暮らしだ」
「それだけは勘弁して!」
即座に断る息子に、
「行くわけないでしょ、馬鹿!」
母親は軽く小突く真似をした。
両親が笑うのを見て、慧一は少し気楽になる。母親が心配する気持ちはよく分かっているのだ。
ひとしきり笑った後、母親がぽつりと漏らした。
「でも、いやなら断ってもいいんでしょ」
慧一は空になったカップをテーブルに置くと、両親の顔を交互に見やった。
「断る理由も無いし、まあ……俺としては、どちらかといえば乗り気だね」
明るく意思表明する息子に、母親は驚くが、父親は頷いている。
「そうなの?」
「うん」
「なら仕方ないわね」
「うん」
「でも……」
椅子を立ちかける慧一に、母親はなおも心配そうな声でつぶやいた。
「奥さんが一緒ならねえ」
(奥さんか……)
慧一はもちろん、峰子を思い浮かべる。だが、いきなり海外へ連れて行くとなると、いささか自信がなかった。
◇ ◇ ◇
慧一は自室に戻ると、伊上京子に電話をかけた。十四日のイベントについて詳しく聞きたかったのだ。
その前振りに峰子との現状を話すと、京子は驚きの声を上げた。
『マジですか。あの峰子ちゃんと恋人になったなんて……信じられません』
慧一は京子の気持ちを、よく理解することができた。自分でも時々、夢みたいな展開だと思う。
『そ、それで、ええと……十四日の日曜日に、一般参加されるわけですね』
京子は気を取り直し、イベントについて教えてくれた。
『会場は広いし暑いし、何よりすっごく混むし、結構大変ですよ。いきなり一人で参加して大丈夫かなあ』
「いや、一人じゃないよ」
『えっ? 誰かと一緒なんですか』
「うん。連れがいる」
峰子の母親だと、今は言わずとも良いだろう。
『もしかして、例の真介さん?』
「いや、違う。うーん……言うなれば俺の身内だな」
将来の――と、心で付け足した。
『そうなんですか。真介さんなら、一度会ってみたいと思ったんだけどなあ』
京子があまりにも残念そうなので、慧一はもしやと思う。
『あっ、違いますよ? シンのモデルとして興味があるだけで、個人的にってわけじゃありませんから』
「ははっ……分かってるよ」
言いわけの裏にある本音を、今は見過ごす。人の世話を焼く余裕はまだない。
『でも、私のほうに電話をされたってことは、峰子ちゃんに内緒なんですよね』
京子が急に声をひそめ、確認する。
「一応ね。でもまあ臨機応変ってことで、その辺りは君に任せるよ」
『わっ、責任重大ですね。うふふ』
いたずらっぽく笑う京子の顔が目に浮かび、慧一は頭を掻いた。
『それにしても、慧一さん』
「うん?」
『モースみたいですね』
「何が?」
『慧一さんと峰子ちゃんですよ』
京子の真面目な声に、慧一は耳を澄ます。
「どういうことだ?」
『だって、ケイとシンも同じ会社に勤めてる設定だし、八歳違いじゃないですか』
「ああ、そう言えばそうだな」
『初めは脆かった二人の絆が段々と強くなり、愛し合うようになる。慧一さんと峰子ちゃんに、そのまま当てはまるじゃないですか』
「なるほど……」
モースのストーリーを、頭の中で辿ってみる。
『結末はご存知ですよね』
「ああ」
地球上で最も硬い物質であるダイヤモンドのように、他の何ものにも征服されることのない不屈の愛、強い絆でケイとシンは結ばれる。身も心も――
『本当に、あの通りになるといいですね』
慧一は床に寝そべると、静かに目を閉じる。峰子の潤んだ瞳が、彼を見つめていた。
「もうなってるよ」
『何言ってるんですか。違いますよ!』
京子の甲高い声に、ぱっと瞼を開く。
「違う?」
『ダイヤモンドですよ、慧一さん。ダイヤモンドは永遠の愛、愛の約束、それすなわち……』
京子は一呼吸おいて、ゆっくりと教えた。
『結・婚……です!』
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