モース10

藤谷 郁

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紅い唇

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 中庭から職場に戻る途中、慧一は組合事務所の前を通った。

 会社の中で峰子と顔を合わせることは滅多にない。今週は休憩時間が重ならないので、尚更である。顔を見たければ、こうして意識的に近付く他ないのだ。

 慧一は歩調を緩め、事務所のガラスドアを外から覗いてみた。

 峰子がカウンター越しに誰かと話している。背の高い男のようだ。峰子は笑顔で、随分楽しそうにしている。


(組合のオジサンか?)


 そう思って通り過ぎようとした時、男がこちらを向く。オジサンではなく、若い男だ。ワイシャツにジャケットを羽織り、首にセキュリティカードを提げている。

 男は親しそうに峰子に手を振り、事務所から出て来た。

 峰子も軽く手を上げ見送っている。気のせいか、嬉しそうな表情に見える。

 男は、事務所を何度も振り返りながら歩いて来る。その場に立ち止まっていた慧一と目が合うと、


「こんにちは!」


 爽やかに挨拶した。峰子と変わらない年頃の、活発なタイプの青年だ。会社の人間ではなく、事務所に出入りする営業マンだろう。


「ふうん、あんな若い奴が来てるのか」


 青年が行ってしまうと、慧一はもう一度事務所に顔を向ける。すると峰子が慧一に気付き、わざわざドアから顔を出して小さく手を振った。

 ドキッとした。

 彼女の雰囲気が、いつもと違っている。


「お疲れ様です」

「お、おう」


 控え目に声をかけてきた彼女に、慧一は帽子を取って合図し、職場へと急いだ。仕事に遅れそうなので、話す間がない。

 雰囲気の違うわけが分かった――

 いつもの薔薇色ではなく、赤みの強い、大人びた色の口紅をつけていた。大人っぽい峰子も良いなと思いつつ、苛立ちを覚える。

 若い営業マンは、楽しそうに峰子と喋っていた。事務所を出たあと何度も振り返ったのは、峰子を気にしてのことだ。

 慧一は面白くない。

 勝手な感情だが、どうしようもなかった。



 慧一は工場に戻る前に、薬品倉庫に寄った。

 金属加工に使う薬品を取りに来たのだが、その場で少し息を整える。心がざわついたまま薬品を扱うのは危ない。


「どうした、難しい顔して。問題でもあるのか」


 ふいに、誰かが肩を叩いた。驚いてその人を見ると、製造課長だった。


「あ、いえ。何でもないです」


 慌てて顔を引き締める。仕事中に彼女のことを考えていた慧一は、上司を前にして、ばつが悪かった。


「滝口。お前、海外は好きか」


 課長が唐突に質問した。


「海外……ですか?」

「ああ。聞くところによると、学生の頃からあちこち旅してるそうじゃないか」

「ええ。バックパッカーですが、結構行ってますね」


 課長の言わんとすることが分からぬまま答える。世間話ではなさそうだが。


「ふむ。じゃあ、もし外国で暮らそうと思えばどうだ、やっていけそうか」

「あ……」


 ようやくピンときた。
 人のいない場所で声を掛けたのは、慧一個人に関わる用件だからだ。


「転勤ですか?」


 ズバリと訊く慧一に、課長は頷く。


「そういう話があるんだ。君が候補に挙がってる」

「つまり、海外ですよね」

「うん、少し遠いな」


 イングランド南西部に生産工場がある。そこが行き先だと告げられても、すぐに返事はできない。

 慧一の頭に、峰子の顔が浮かんだ。


「まあ、考えておいてくれ。君が今扱ってる機械と同じものが向こうにある。その面倒を見てもらいたいのだ」


 課長は慧一の肩を励ますように叩くと、現場に戻っていった。

 何から考えればいいのか分からない。

 薬品倉庫の片隅で、慧一は独り、しばし佇んでいた。
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