58 / 82
紅い唇
2
しおりを挟む
中庭から職場に戻る途中、慧一は組合事務所の前を通った。
会社の中で峰子と顔を合わせることは滅多にない。今週は休憩時間が重ならないので、尚更である。顔を見たければ、こうして意識的に近付く他ないのだ。
慧一は歩調を緩め、事務所のガラスドアを外から覗いてみた。
峰子がカウンター越しに誰かと話している。背の高い男のようだ。峰子は笑顔で、随分楽しそうにしている。
(組合のオジサンか?)
そう思って通り過ぎようとした時、男がこちらを向く。オジサンではなく、若い男だ。ワイシャツにジャケットを羽織り、首にセキュリティカードを提げている。
男は親しそうに峰子に手を振り、事務所から出て来た。
峰子も軽く手を上げ見送っている。気のせいか、嬉しそうな表情に見える。
男は、事務所を何度も振り返りながら歩いて来る。その場に立ち止まっていた慧一と目が合うと、
「こんにちは!」
爽やかに挨拶した。峰子と変わらない年頃の、活発なタイプの青年だ。会社の人間ではなく、事務所に出入りする営業マンだろう。
「ふうん、あんな若い奴が来てるのか」
青年が行ってしまうと、慧一はもう一度事務所に顔を向ける。すると峰子が慧一に気付き、わざわざドアから顔を出して小さく手を振った。
ドキッとした。
彼女の雰囲気が、いつもと違っている。
「お疲れ様です」
「お、おう」
控え目に声をかけてきた彼女に、慧一は帽子を取って合図し、職場へと急いだ。仕事に遅れそうなので、話す間がない。
雰囲気の違うわけが分かった――
いつもの薔薇色ではなく、赤みの強い、大人びた色の口紅をつけていた。大人っぽい峰子も良いなと思いつつ、苛立ちを覚える。
若い営業マンは、楽しそうに峰子と喋っていた。事務所を出たあと何度も振り返ったのは、峰子を気にしてのことだ。
慧一は面白くない。
勝手な感情だが、どうしようもなかった。
慧一は工場に戻る前に、薬品倉庫に寄った。
金属加工に使う薬品を取りに来たのだが、その場で少し息を整える。心がざわついたまま薬品を扱うのは危ない。
「どうした、難しい顔して。問題でもあるのか」
ふいに、誰かが肩を叩いた。驚いてその人を見ると、製造課長だった。
「あ、いえ。何でもないです」
慌てて顔を引き締める。仕事中に彼女のことを考えていた慧一は、上司を前にして、ばつが悪かった。
「滝口。お前、海外は好きか」
課長が唐突に質問した。
「海外……ですか?」
「ああ。聞くところによると、学生の頃からあちこち旅してるそうじゃないか」
「ええ。バックパッカーですが、結構行ってますね」
課長の言わんとすることが分からぬまま答える。世間話ではなさそうだが。
「ふむ。じゃあ、もし外国で暮らそうと思えばどうだ、やっていけそうか」
「あ……」
ようやくピンときた。
人のいない場所で声を掛けたのは、慧一個人に関わる用件だからだ。
「転勤ですか?」
ズバリと訊く慧一に、課長は頷く。
「そういう話があるんだ。君が候補に挙がってる」
「つまり、海外ですよね」
「うん、少し遠いな」
イングランド南西部に生産工場がある。そこが行き先だと告げられても、すぐに返事はできない。
慧一の頭に、峰子の顔が浮かんだ。
「まあ、考えておいてくれ。君が今扱ってる機械と同じものが向こうにある。その面倒を見てもらいたいのだ」
課長は慧一の肩を励ますように叩くと、現場に戻っていった。
何から考えればいいのか分からない。
薬品倉庫の片隅で、慧一は独り、しばし佇んでいた。
会社の中で峰子と顔を合わせることは滅多にない。今週は休憩時間が重ならないので、尚更である。顔を見たければ、こうして意識的に近付く他ないのだ。
慧一は歩調を緩め、事務所のガラスドアを外から覗いてみた。
峰子がカウンター越しに誰かと話している。背の高い男のようだ。峰子は笑顔で、随分楽しそうにしている。
(組合のオジサンか?)
そう思って通り過ぎようとした時、男がこちらを向く。オジサンではなく、若い男だ。ワイシャツにジャケットを羽織り、首にセキュリティカードを提げている。
男は親しそうに峰子に手を振り、事務所から出て来た。
峰子も軽く手を上げ見送っている。気のせいか、嬉しそうな表情に見える。
男は、事務所を何度も振り返りながら歩いて来る。その場に立ち止まっていた慧一と目が合うと、
「こんにちは!」
爽やかに挨拶した。峰子と変わらない年頃の、活発なタイプの青年だ。会社の人間ではなく、事務所に出入りする営業マンだろう。
「ふうん、あんな若い奴が来てるのか」
青年が行ってしまうと、慧一はもう一度事務所に顔を向ける。すると峰子が慧一に気付き、わざわざドアから顔を出して小さく手を振った。
ドキッとした。
彼女の雰囲気が、いつもと違っている。
「お疲れ様です」
「お、おう」
控え目に声をかけてきた彼女に、慧一は帽子を取って合図し、職場へと急いだ。仕事に遅れそうなので、話す間がない。
雰囲気の違うわけが分かった――
いつもの薔薇色ではなく、赤みの強い、大人びた色の口紅をつけていた。大人っぽい峰子も良いなと思いつつ、苛立ちを覚える。
若い営業マンは、楽しそうに峰子と喋っていた。事務所を出たあと何度も振り返ったのは、峰子を気にしてのことだ。
慧一は面白くない。
勝手な感情だが、どうしようもなかった。
慧一は工場に戻る前に、薬品倉庫に寄った。
金属加工に使う薬品を取りに来たのだが、その場で少し息を整える。心がざわついたまま薬品を扱うのは危ない。
「どうした、難しい顔して。問題でもあるのか」
ふいに、誰かが肩を叩いた。驚いてその人を見ると、製造課長だった。
「あ、いえ。何でもないです」
慌てて顔を引き締める。仕事中に彼女のことを考えていた慧一は、上司を前にして、ばつが悪かった。
「滝口。お前、海外は好きか」
課長が唐突に質問した。
「海外……ですか?」
「ああ。聞くところによると、学生の頃からあちこち旅してるそうじゃないか」
「ええ。バックパッカーですが、結構行ってますね」
課長の言わんとすることが分からぬまま答える。世間話ではなさそうだが。
「ふむ。じゃあ、もし外国で暮らそうと思えばどうだ、やっていけそうか」
「あ……」
ようやくピンときた。
人のいない場所で声を掛けたのは、慧一個人に関わる用件だからだ。
「転勤ですか?」
ズバリと訊く慧一に、課長は頷く。
「そういう話があるんだ。君が候補に挙がってる」
「つまり、海外ですよね」
「うん、少し遠いな」
イングランド南西部に生産工場がある。そこが行き先だと告げられても、すぐに返事はできない。
慧一の頭に、峰子の顔が浮かんだ。
「まあ、考えておいてくれ。君が今扱ってる機械と同じものが向こうにある。その面倒を見てもらいたいのだ」
課長は慧一の肩を励ますように叩くと、現場に戻っていった。
何から考えればいいのか分からない。
薬品倉庫の片隅で、慧一は独り、しばし佇んでいた。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ホリカヨは俺様上司を癒したい!
森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。
そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。
『郡司部長、私はあなたを癒したいです』
※他の投稿サイトにも載せています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~
伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華
結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空
幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。
割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。
思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。
二人の結婚生活は一体どうなる?

淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる