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紅い唇
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中庭から職場に戻る途中、慧一は組合事務所の前を通った。
会社の中で峰子と顔を合わせることは滅多にない。今週は休憩時間が重ならないので、尚更である。顔を見たければ、こうして意識的に近付く他ないのだ。
慧一は歩調を緩め、事務所のガラスドアを外から覗いてみた。
峰子がカウンター越しに誰かと話している。背の高い男のようだ。峰子は笑顔で、随分楽しそうにしている。
(組合のオジサンか?)
そう思って通り過ぎようとした時、男がこちらを向く。オジサンではなく、若い男だ。ワイシャツにジャケットを羽織り、首にセキュリティカードを提げている。
男は親しそうに峰子に手を振り、事務所から出て来た。
峰子も軽く手を上げ見送っている。気のせいか、嬉しそうな表情に見える。
男は、事務所を何度も振り返りながら歩いて来る。その場に立ち止まっていた慧一と目が合うと、
「こんにちは!」
爽やかに挨拶した。峰子と変わらない年頃の、活発なタイプの青年だ。会社の人間ではなく、事務所に出入りする営業マンだろう。
「ふうん、あんな若い奴が来てるのか」
青年が行ってしまうと、慧一はもう一度事務所に顔を向ける。すると峰子が慧一に気付き、わざわざドアから顔を出して小さく手を振った。
ドキッとした。
彼女の雰囲気が、いつもと違っている。
「お疲れ様です」
「お、おう」
控え目に声をかけてきた彼女に、慧一は帽子を取って合図し、職場へと急いだ。仕事に遅れそうなので、話す間がない。
雰囲気の違うわけが分かった――
いつもの薔薇色ではなく、赤みの強い、大人びた色の口紅をつけていた。大人っぽい峰子も良いなと思いつつ、苛立ちを覚える。
若い営業マンは、楽しそうに峰子と喋っていた。事務所を出たあと何度も振り返ったのは、峰子を気にしてのことだ。
慧一は面白くない。
勝手な感情だが、どうしようもなかった。
慧一は工場に戻る前に、薬品倉庫に寄った。
金属加工に使う薬品を取りに来たのだが、その場で少し息を整える。心がざわついたまま薬品を扱うのは危ない。
「どうした、難しい顔して。問題でもあるのか」
ふいに、誰かが肩を叩いた。驚いてその人を見ると、製造課長だった。
「あ、いえ。何でもないです」
慌てて顔を引き締める。仕事中に彼女のことを考えていた慧一は、上司を前にして、ばつが悪かった。
「滝口。お前、海外は好きか」
課長が唐突に質問した。
「海外……ですか?」
「ああ。聞くところによると、学生の頃からあちこち旅してるそうじゃないか」
「ええ。バックパッカーですが、結構行ってますね」
課長の言わんとすることが分からぬまま答える。世間話ではなさそうだが。
「ふむ。じゃあ、もし外国で暮らそうと思えばどうだ、やっていけそうか」
「あ……」
ようやくピンときた。
人のいない場所で声を掛けたのは、慧一個人に関わる用件だからだ。
「転勤ですか?」
ズバリと訊く慧一に、課長は頷く。
「そういう話があるんだ。君が候補に挙がってる」
「つまり、海外ですよね」
「うん、少し遠いな」
イングランド南西部に生産工場がある。そこが行き先だと告げられても、すぐに返事はできない。
慧一の頭に、峰子の顔が浮かんだ。
「まあ、考えておいてくれ。君が今扱ってる機械と同じものが向こうにある。その面倒を見てもらいたいのだ」
課長は慧一の肩を励ますように叩くと、現場に戻っていった。
何から考えればいいのか分からない。
薬品倉庫の片隅で、慧一は独り、しばし佇んでいた。
会社の中で峰子と顔を合わせることは滅多にない。今週は休憩時間が重ならないので、尚更である。顔を見たければ、こうして意識的に近付く他ないのだ。
慧一は歩調を緩め、事務所のガラスドアを外から覗いてみた。
峰子がカウンター越しに誰かと話している。背の高い男のようだ。峰子は笑顔で、随分楽しそうにしている。
(組合のオジサンか?)
そう思って通り過ぎようとした時、男がこちらを向く。オジサンではなく、若い男だ。ワイシャツにジャケットを羽織り、首にセキュリティカードを提げている。
男は親しそうに峰子に手を振り、事務所から出て来た。
峰子も軽く手を上げ見送っている。気のせいか、嬉しそうな表情に見える。
男は、事務所を何度も振り返りながら歩いて来る。その場に立ち止まっていた慧一と目が合うと、
「こんにちは!」
爽やかに挨拶した。峰子と変わらない年頃の、活発なタイプの青年だ。会社の人間ではなく、事務所に出入りする営業マンだろう。
「ふうん、あんな若い奴が来てるのか」
青年が行ってしまうと、慧一はもう一度事務所に顔を向ける。すると峰子が慧一に気付き、わざわざドアから顔を出して小さく手を振った。
ドキッとした。
彼女の雰囲気が、いつもと違っている。
「お疲れ様です」
「お、おう」
控え目に声をかけてきた彼女に、慧一は帽子を取って合図し、職場へと急いだ。仕事に遅れそうなので、話す間がない。
雰囲気の違うわけが分かった――
いつもの薔薇色ではなく、赤みの強い、大人びた色の口紅をつけていた。大人っぽい峰子も良いなと思いつつ、苛立ちを覚える。
若い営業マンは、楽しそうに峰子と喋っていた。事務所を出たあと何度も振り返ったのは、峰子を気にしてのことだ。
慧一は面白くない。
勝手な感情だが、どうしようもなかった。
慧一は工場に戻る前に、薬品倉庫に寄った。
金属加工に使う薬品を取りに来たのだが、その場で少し息を整える。心がざわついたまま薬品を扱うのは危ない。
「どうした、難しい顔して。問題でもあるのか」
ふいに、誰かが肩を叩いた。驚いてその人を見ると、製造課長だった。
「あ、いえ。何でもないです」
慌てて顔を引き締める。仕事中に彼女のことを考えていた慧一は、上司を前にして、ばつが悪かった。
「滝口。お前、海外は好きか」
課長が唐突に質問した。
「海外……ですか?」
「ああ。聞くところによると、学生の頃からあちこち旅してるそうじゃないか」
「ええ。バックパッカーですが、結構行ってますね」
課長の言わんとすることが分からぬまま答える。世間話ではなさそうだが。
「ふむ。じゃあ、もし外国で暮らそうと思えばどうだ、やっていけそうか」
「あ……」
ようやくピンときた。
人のいない場所で声を掛けたのは、慧一個人に関わる用件だからだ。
「転勤ですか?」
ズバリと訊く慧一に、課長は頷く。
「そういう話があるんだ。君が候補に挙がってる」
「つまり、海外ですよね」
「うん、少し遠いな」
イングランド南西部に生産工場がある。そこが行き先だと告げられても、すぐに返事はできない。
慧一の頭に、峰子の顔が浮かんだ。
「まあ、考えておいてくれ。君が今扱ってる機械と同じものが向こうにある。その面倒を見てもらいたいのだ」
課長は慧一の肩を励ますように叩くと、現場に戻っていった。
何から考えればいいのか分からない。
薬品倉庫の片隅で、慧一は独り、しばし佇んでいた。
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