モース10

藤谷 郁

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紅い唇

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 月曜日。

 慧一は昼休憩に、中庭を覗いてみた。

 峰子が言ったとおり、真介が木陰のベンチで本を読んでいる。

 背後から忍び足で近付くと、サッと目隠しした。


「だーれだ」

「うわあっ!」


 真介は跳び上がり、本を取り落とした。

 あたふたと狼狽する姿を見て、慧一は声を上げて笑った。

 真介は辺りを見回し、人が誰もいないのを確かめて、胸を撫で下ろした。


「まったくもう、お前は小学生か!」

「二十八歳、社会人です」

「……」


 慧一のとぼけた返事に呆れながら、真介は本を拾ってベンチに座り直す。慧一も笑みを残しつつ、隣に腰かけた。


 静かな場所である。

 真介が好みそうな、気持ちの良い庭だと慧一は思う。

 ただ、今は真夏だ。木陰とはいえやはり気温が高いので、快適ではない。じっとしているだけで汗が滲んでくる。


「暑いな」


 慧一は上着を脱いでシャツ一枚になった。


「休憩室は空調が効きすぎて冷えるからな。俺はここがちょうどいいんだ」


 真介は涼しげな顔で、本のページをめくる。
 だが集中できないのか、いくらも読まないうちに本を閉じると、こちらをちらりと見た。


「どうした?」

「いや……その……」


 真介は口ごもるが、やがて意を決したように言う。


「昨日は、すまなかった。自分が過去に失敗したその轍を、また踏むところだった。お前が気付かせてくれたから……」

「俺じゃない。お前が決めたことだろ」


 慧一は、真介の言葉を遮った。
 その反応を予想していたのか、真介は黙って頷く。


「そうだな、俺が決めたことだ」


 蝉がどこからか飛んできて、木の幹にとまった。ゆっくりとした動作で上方に移動するのを、真介が目で追っている。

 慧一は、ふいに質問を投げた。


「大切な人って誰だ」

「……え?」


 真介は蝉から視線を外し、こちらを向く。


「お前、聖子に『今、俺には大切な人がいる』って言ったそうじゃないか」

「ああ……そのことか」


 真介は、まぶしそうに目を細めた。


「三原さんに聞いたんだな」

「そうだ」

「彼女はなかなか優秀なスパイだ」

「いいから答えろ。誰なんだ、俺の知ってる子か」


 詰め寄る慧一を、真介は待て待てと手の平で押さえる。


「知ってるも何も……」


 やっぱり峰子のことか――と、慧一が言いかけた時、思わぬ答えが返ってきた。


「お前だよ、慧一」


 真介は真っ直ぐに目を合わせる。ふざけたところなど微塵もない、真剣な眼差しだ。


「俺?」

「そう、お前。だって、親身になって俺を心配してくれるのは慧一だけだろ。お前を大切にしなくてはと、心から思ったんだ」


 純粋で曇りのない瞳は峰子そっくりで、慧一を動揺させる。

 思わず目を逸らし、いたたまれないように、脱いだ上着を頭から被った。



「なあ、慧一」

「……」

「照れるなよ。お前だけじゃなく、今、周りにいる、身近で大切な人達のことも指して言ったんだ」

「……」


 慧一は反応しない。

 真介は仕方なく、再び木の幹に視線を戻す。もう蝉の姿は見えなくなっていた。


「聖子には借金があったらしい」


 黙っている慧一に、真介は独り言のように話す。


「金遣いが荒いのは聖子のほうで、旦那が愛想をつかして離婚することになった。DVも嘘。それが真相だと分かったのさ」

「……調べたのか?」


 上着の陰から声がした。


「少し気になってね。あの後、聖子と共通の知り合いに電話してみたんだ」

「そうか……」

「本当に、あの子は変わってない。俺も相変わらず愚かで、鈍くさいがね」


 やはり真介は、聖子とやり直すつもりで、彼女と会う約束をしたのだ。

 そんなところを愚かだと自虐するのだろうが、慧一は、真介のそんなところが好きだと思う。口にこそ出さないが――もどかしくても、だからこそ腐れ縁なのだ。


「休憩時間が終わる。俺は先に行くよ」


 真介が立ち上がり、顔を見せようとしない慧一に声をかけた。

 鳴き出した蝉の声に紛れ、足音が遠ざかっていく。


(こっちこそ、ありがとうな、真介)


 慧一は上着を被ったまま、親友の言葉ひとつひとつを噛みしめた。うんざりするような暑さの中、それは爽やかな清涼剤となり、彼を感動させた。


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