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紅い唇
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月曜日。
慧一は昼休憩に、中庭を覗いてみた。
峰子が言ったとおり、真介が木陰のベンチで本を読んでいる。
背後から忍び足で近付くと、サッと目隠しした。
「だーれだ」
「うわあっ!」
真介は跳び上がり、本を取り落とした。
あたふたと狼狽する姿を見て、慧一は声を上げて笑った。
真介は辺りを見回し、人が誰もいないのを確かめて、胸を撫で下ろした。
「まったくもう、お前は小学生か!」
「二十八歳、社会人です」
「……」
慧一のとぼけた返事に呆れながら、真介は本を拾ってベンチに座り直す。慧一も笑みを残しつつ、隣に腰かけた。
静かな場所である。
真介が好みそうな、気持ちの良い庭だと慧一は思う。
ただ、今は真夏だ。木陰とはいえやはり気温が高いので、快適ではない。じっとしているだけで汗が滲んでくる。
「暑いな」
慧一は上着を脱いでシャツ一枚になった。
「休憩室は空調が効きすぎて冷えるからな。俺はここがちょうどいいんだ」
真介は涼しげな顔で、本のページをめくる。
だが集中できないのか、いくらも読まないうちに本を閉じると、こちらをちらりと見た。
「どうした?」
「いや……その……」
真介は口ごもるが、やがて意を決したように言う。
「昨日は、すまなかった。自分が過去に失敗したその轍を、また踏むところだった。お前が気付かせてくれたから……」
「俺じゃない。お前が決めたことだろ」
慧一は、真介の言葉を遮った。
その反応を予想していたのか、真介は黙って頷く。
「そうだな、俺が決めたことだ」
蝉がどこからか飛んできて、木の幹にとまった。ゆっくりとした動作で上方に移動するのを、真介が目で追っている。
慧一は、ふいに質問を投げた。
「大切な人って誰だ」
「……え?」
真介は蝉から視線を外し、こちらを向く。
「お前、聖子に『今、俺には大切な人がいる』って言ったそうじゃないか」
「ああ……そのことか」
真介は、まぶしそうに目を細めた。
「三原さんに聞いたんだな」
「そうだ」
「彼女はなかなか優秀なスパイだ」
「いいから答えろ。誰なんだ、俺の知ってる子か」
詰め寄る慧一を、真介は待て待てと手の平で押さえる。
「知ってるも何も……」
やっぱり峰子のことか――と、慧一が言いかけた時、思わぬ答えが返ってきた。
「お前だよ、慧一」
真介は真っ直ぐに目を合わせる。ふざけたところなど微塵もない、真剣な眼差しだ。
「俺?」
「そう、お前。だって、親身になって俺を心配してくれるのは慧一だけだろ。お前を大切にしなくてはと、心から思ったんだ」
純粋で曇りのない瞳は峰子そっくりで、慧一を動揺させる。
思わず目を逸らし、いたたまれないように、脱いだ上着を頭から被った。
「なあ、慧一」
「……」
「照れるなよ。お前だけじゃなく、今、周りにいる、身近で大切な人達のことも指して言ったんだ」
「……」
慧一は反応しない。
真介は仕方なく、再び木の幹に視線を戻す。もう蝉の姿は見えなくなっていた。
「聖子には借金があったらしい」
黙っている慧一に、真介は独り言のように話す。
「金遣いが荒いのは聖子のほうで、旦那が愛想をつかして離婚することになった。DVも嘘。それが真相だと分かったのさ」
「……調べたのか?」
上着の陰から声がした。
「少し気になってね。あの後、聖子と共通の知り合いに電話してみたんだ」
「そうか……」
「本当に、あの子は変わってない。俺も相変わらず愚かで、鈍くさいがね」
やはり真介は、聖子とやり直すつもりで、彼女と会う約束をしたのだ。
そんなところを愚かだと自虐するのだろうが、慧一は、真介のそんなところが好きだと思う。口にこそ出さないが――もどかしくても、だからこそ腐れ縁なのだ。
「休憩時間が終わる。俺は先に行くよ」
真介が立ち上がり、顔を見せようとしない慧一に声をかけた。
鳴き出した蝉の声に紛れ、足音が遠ざかっていく。
(こっちこそ、ありがとうな、真介)
慧一は上着を被ったまま、親友の言葉ひとつひとつを噛みしめた。うんざりするような暑さの中、それは爽やかな清涼剤となり、彼を感動させた。
慧一は昼休憩に、中庭を覗いてみた。
峰子が言ったとおり、真介が木陰のベンチで本を読んでいる。
背後から忍び足で近付くと、サッと目隠しした。
「だーれだ」
「うわあっ!」
真介は跳び上がり、本を取り落とした。
あたふたと狼狽する姿を見て、慧一は声を上げて笑った。
真介は辺りを見回し、人が誰もいないのを確かめて、胸を撫で下ろした。
「まったくもう、お前は小学生か!」
「二十八歳、社会人です」
「……」
慧一のとぼけた返事に呆れながら、真介は本を拾ってベンチに座り直す。慧一も笑みを残しつつ、隣に腰かけた。
静かな場所である。
真介が好みそうな、気持ちの良い庭だと慧一は思う。
ただ、今は真夏だ。木陰とはいえやはり気温が高いので、快適ではない。じっとしているだけで汗が滲んでくる。
「暑いな」
慧一は上着を脱いでシャツ一枚になった。
「休憩室は空調が効きすぎて冷えるからな。俺はここがちょうどいいんだ」
真介は涼しげな顔で、本のページをめくる。
だが集中できないのか、いくらも読まないうちに本を閉じると、こちらをちらりと見た。
「どうした?」
「いや……その……」
真介は口ごもるが、やがて意を決したように言う。
「昨日は、すまなかった。自分が過去に失敗したその轍を、また踏むところだった。お前が気付かせてくれたから……」
「俺じゃない。お前が決めたことだろ」
慧一は、真介の言葉を遮った。
その反応を予想していたのか、真介は黙って頷く。
「そうだな、俺が決めたことだ」
蝉がどこからか飛んできて、木の幹にとまった。ゆっくりとした動作で上方に移動するのを、真介が目で追っている。
慧一は、ふいに質問を投げた。
「大切な人って誰だ」
「……え?」
真介は蝉から視線を外し、こちらを向く。
「お前、聖子に『今、俺には大切な人がいる』って言ったそうじゃないか」
「ああ……そのことか」
真介は、まぶしそうに目を細めた。
「三原さんに聞いたんだな」
「そうだ」
「彼女はなかなか優秀なスパイだ」
「いいから答えろ。誰なんだ、俺の知ってる子か」
詰め寄る慧一を、真介は待て待てと手の平で押さえる。
「知ってるも何も……」
やっぱり峰子のことか――と、慧一が言いかけた時、思わぬ答えが返ってきた。
「お前だよ、慧一」
真介は真っ直ぐに目を合わせる。ふざけたところなど微塵もない、真剣な眼差しだ。
「俺?」
「そう、お前。だって、親身になって俺を心配してくれるのは慧一だけだろ。お前を大切にしなくてはと、心から思ったんだ」
純粋で曇りのない瞳は峰子そっくりで、慧一を動揺させる。
思わず目を逸らし、いたたまれないように、脱いだ上着を頭から被った。
「なあ、慧一」
「……」
「照れるなよ。お前だけじゃなく、今、周りにいる、身近で大切な人達のことも指して言ったんだ」
「……」
慧一は反応しない。
真介は仕方なく、再び木の幹に視線を戻す。もう蝉の姿は見えなくなっていた。
「聖子には借金があったらしい」
黙っている慧一に、真介は独り言のように話す。
「金遣いが荒いのは聖子のほうで、旦那が愛想をつかして離婚することになった。DVも嘘。それが真相だと分かったのさ」
「……調べたのか?」
上着の陰から声がした。
「少し気になってね。あの後、聖子と共通の知り合いに電話してみたんだ」
「そうか……」
「本当に、あの子は変わってない。俺も相変わらず愚かで、鈍くさいがね」
やはり真介は、聖子とやり直すつもりで、彼女と会う約束をしたのだ。
そんなところを愚かだと自虐するのだろうが、慧一は、真介のそんなところが好きだと思う。口にこそ出さないが――もどかしくても、だからこそ腐れ縁なのだ。
「休憩時間が終わる。俺は先に行くよ」
真介が立ち上がり、顔を見せようとしない慧一に声をかけた。
鳴き出した蝉の声に紛れ、足音が遠ざかっていく。
(こっちこそ、ありがとうな、真介)
慧一は上着を被ったまま、親友の言葉ひとつひとつを噛みしめた。うんざりするような暑さの中、それは爽やかな清涼剤となり、彼を感動させた。
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