55 / 82
夢のビジョン
1
しおりを挟む
峰子の母親は、娘の趣味を知っていた。男同士の恋愛を描いた漫画や小説を愛好し、収集することを。
慧一は驚きつつも、自分も「知っている」と伝えた。
「あれを見つけた時は、まさかと思ったわ」
薄暗い街灯のもと、慧一の車にもたれるようにして立つ母親は、少し蒼ざめて見える。
「大丈夫ですか?」
慧一が車から出ようとすると、彼女はそれを止めた。
「大丈夫。すぐに戻らなきゃいけないから」
母親はさらに声をひそめ、娘の秘密を発見した日の衝撃を語った。
それは、一か月前のこと。平日の午前中。
母親は、カーテンを洗おうとして峰子の部屋に入った。よく晴れた、青空がきれいな日だった。
「あの子って、どこか抜けた所があって。引き出しの鍵を掛け忘れたんでしょうね、少し開いていたの。私はきちんと閉まっていないと気になる性質だから、閉めようとした。もちろん、中を見るつもりはまったく無かったのよ。あの子のプライバシーだし。でも、引き出しの隙間から目に入ってきたものに、私は心底驚いて、つい……見てしまった……」
一度言葉を途切れさせると、母親は小さく息をついた。
「まあ、それがあなた……男同士のあれが……描かれた本がいっぱい入っているじゃない」
BLの同人誌だ――
慧一には母親のショックが想像できる。峰子と、あの倒錯した世界をどうやって結びつければ良いのか……と、混乱したのだろう。
母親は背後を気にしている。
峰子の部屋と思われる二階の窓は暗い。今、風呂に入っているらしい。
「それで、もう腰が抜けそうになって、あの子が帰ってきたら……いいえ、今すぐ会社に電話して問いただそうかと思ったわ」
母親は強い調子で言うが、頭を左右に振る。
「でも、できなかった。あの大量のいかがわしい本を眺めるうちに、あの子をあんな風にさせたのは、もしかしたら私と夫なのではと思えてきて」
「あんな風?」
慧一は眉根を寄せた。
だが、それは母親の目には映らない。彼女は、峰子の部屋の窓を見上げ、話している。
「私達は……特に私は、長子である峰子を厳しく躾けました。その結果、確かに真面目で良い子にはなりました。でも反面、あの子は親に合わせてばかりで、自分の意思を表さない。家ばかりでなく学校でも、我慢して、周りに気を遣ってばかりいると、担任の教師から何度も指摘された」
慧一は、峰子の堅実な仕事ぶりや、人当たりの良さ、その社会性がどうして身に付いたのか分かった気がする。
そしてまた、人と親密に付き合うのを苦手とする、二面性の理由も。
峰子は両親にとって、素直で世話の掛からない、大人しい女の子だった。
いや、今でも……
「躾を厳しくし過ぎたのでは。その結果が、あの倒錯した趣味なのではないかと。慧一さん」
母親はこちらに向き直り、黙ったままの慧一を、必死な声で呼んだ。
「あの子は、大丈夫でしょうか」
慧一は胸を衝かれた。
ついさっきまで、きちんと整頓されたリビングで、てきぱきとお茶を出し、朗らかに笑っていた母親。穏やかでありながら気丈に見えたこの人が、頼りなく狼狽している。
そして、つい最近見知ったばかりの男に、娘を案じる心を、ありのまま吐露している。それは取りも直さず、他に相談する相手がいないといった、差し迫った状況を示しているのだ。
峰子の家庭環境は、表面を見ただけでは分からない複雑なものがあるようだ。
もっとも、何処の家庭も大なり小なり問題はあるだろうし、それが普通なのかもしれないが。
「峰子さんは……」
慧一は、無難な言い方を考える。
だが、心を開いてくれた相手にそれは不誠実だと感じ、はっきりと口にした。
「僕にとっては、それほど良い子じゃありません」
「えっ?」
母親は怪訝な表情になった。
「それは、どういう意味でしょうか」
慧一は母親に、本当に思っていることを言った。
「峰子さんは、なかなか意思表示をしてくれません。かと思うと、驚くほど大胆な発言をして、僕を振り回します」
「まあ……」
母親は口ごもり、気まずそうにする。躾が至らずすみません、といった顔だ。
「でも、僕は彼女が好きですよ。ぜんぶ、ひっくるめて」
「ええっ?」
母親は疑っている。あばたもえくぼだと言いたそうだ。
「ちなみに、ノロケではありません」
慧一が注釈を入れると、気まずそうに笑う。母親の頭越しに、峰子の部屋の明かりが点くのが見えた。
慧一はふと思いつき、母親に提案した。
「お母さん、今度の日曜日は空いていますか?」
「日曜日?」
「はい。峰子さんの趣味のイベントがあるんです。もし良ければ、僕と行ってみませんか」
「あら、そうなんですか。まあ、そんな行事があるのですか」
母親は、ぴんとこない様子。
峰子は親に隠れて、同人活動をしているのだ。
「峰子さんには内緒で行きましょう。時間と場所は、またご連絡します」
「え、ええ……」
母親は、よく分からないなりに頷いている。慧一はスマートフォンを取り出し、母親の電話番号を聞いて、登録した。
「そういえば、峰子さんの趣味について、お父さんもご存じなんですか?」
母親は顔を曇らせる。
「いいえ、あの人は何も知りません。あんな同人誌ものを見せたら、峰子を勘当するかもしれません」
「……」
慧一は、黙ってエンジンをかけた。両親とも、峰子と別世界にいる人なのだ。
「それでは、失礼します。今夜はありがとうございました」
「こちらこそ……あの、よろしくお願いいたします」
慧一は車を出し、ふとバックミラーを見る。
夜の中で、母親が途方に暮れたように、立ちすくんでいた。
十四日の日曜日――
峰子は怒るかもしれない。
それでも慧一は、世話を焼くことに決めた。あの子が自由になるために、それは通るべき道だと思えたから。
慧一は驚きつつも、自分も「知っている」と伝えた。
「あれを見つけた時は、まさかと思ったわ」
薄暗い街灯のもと、慧一の車にもたれるようにして立つ母親は、少し蒼ざめて見える。
「大丈夫ですか?」
慧一が車から出ようとすると、彼女はそれを止めた。
「大丈夫。すぐに戻らなきゃいけないから」
母親はさらに声をひそめ、娘の秘密を発見した日の衝撃を語った。
それは、一か月前のこと。平日の午前中。
母親は、カーテンを洗おうとして峰子の部屋に入った。よく晴れた、青空がきれいな日だった。
「あの子って、どこか抜けた所があって。引き出しの鍵を掛け忘れたんでしょうね、少し開いていたの。私はきちんと閉まっていないと気になる性質だから、閉めようとした。もちろん、中を見るつもりはまったく無かったのよ。あの子のプライバシーだし。でも、引き出しの隙間から目に入ってきたものに、私は心底驚いて、つい……見てしまった……」
一度言葉を途切れさせると、母親は小さく息をついた。
「まあ、それがあなた……男同士のあれが……描かれた本がいっぱい入っているじゃない」
BLの同人誌だ――
慧一には母親のショックが想像できる。峰子と、あの倒錯した世界をどうやって結びつければ良いのか……と、混乱したのだろう。
母親は背後を気にしている。
峰子の部屋と思われる二階の窓は暗い。今、風呂に入っているらしい。
「それで、もう腰が抜けそうになって、あの子が帰ってきたら……いいえ、今すぐ会社に電話して問いただそうかと思ったわ」
母親は強い調子で言うが、頭を左右に振る。
「でも、できなかった。あの大量のいかがわしい本を眺めるうちに、あの子をあんな風にさせたのは、もしかしたら私と夫なのではと思えてきて」
「あんな風?」
慧一は眉根を寄せた。
だが、それは母親の目には映らない。彼女は、峰子の部屋の窓を見上げ、話している。
「私達は……特に私は、長子である峰子を厳しく躾けました。その結果、確かに真面目で良い子にはなりました。でも反面、あの子は親に合わせてばかりで、自分の意思を表さない。家ばかりでなく学校でも、我慢して、周りに気を遣ってばかりいると、担任の教師から何度も指摘された」
慧一は、峰子の堅実な仕事ぶりや、人当たりの良さ、その社会性がどうして身に付いたのか分かった気がする。
そしてまた、人と親密に付き合うのを苦手とする、二面性の理由も。
峰子は両親にとって、素直で世話の掛からない、大人しい女の子だった。
いや、今でも……
「躾を厳しくし過ぎたのでは。その結果が、あの倒錯した趣味なのではないかと。慧一さん」
母親はこちらに向き直り、黙ったままの慧一を、必死な声で呼んだ。
「あの子は、大丈夫でしょうか」
慧一は胸を衝かれた。
ついさっきまで、きちんと整頓されたリビングで、てきぱきとお茶を出し、朗らかに笑っていた母親。穏やかでありながら気丈に見えたこの人が、頼りなく狼狽している。
そして、つい最近見知ったばかりの男に、娘を案じる心を、ありのまま吐露している。それは取りも直さず、他に相談する相手がいないといった、差し迫った状況を示しているのだ。
峰子の家庭環境は、表面を見ただけでは分からない複雑なものがあるようだ。
もっとも、何処の家庭も大なり小なり問題はあるだろうし、それが普通なのかもしれないが。
「峰子さんは……」
慧一は、無難な言い方を考える。
だが、心を開いてくれた相手にそれは不誠実だと感じ、はっきりと口にした。
「僕にとっては、それほど良い子じゃありません」
「えっ?」
母親は怪訝な表情になった。
「それは、どういう意味でしょうか」
慧一は母親に、本当に思っていることを言った。
「峰子さんは、なかなか意思表示をしてくれません。かと思うと、驚くほど大胆な発言をして、僕を振り回します」
「まあ……」
母親は口ごもり、気まずそうにする。躾が至らずすみません、といった顔だ。
「でも、僕は彼女が好きですよ。ぜんぶ、ひっくるめて」
「ええっ?」
母親は疑っている。あばたもえくぼだと言いたそうだ。
「ちなみに、ノロケではありません」
慧一が注釈を入れると、気まずそうに笑う。母親の頭越しに、峰子の部屋の明かりが点くのが見えた。
慧一はふと思いつき、母親に提案した。
「お母さん、今度の日曜日は空いていますか?」
「日曜日?」
「はい。峰子さんの趣味のイベントがあるんです。もし良ければ、僕と行ってみませんか」
「あら、そうなんですか。まあ、そんな行事があるのですか」
母親は、ぴんとこない様子。
峰子は親に隠れて、同人活動をしているのだ。
「峰子さんには内緒で行きましょう。時間と場所は、またご連絡します」
「え、ええ……」
母親は、よく分からないなりに頷いている。慧一はスマートフォンを取り出し、母親の電話番号を聞いて、登録した。
「そういえば、峰子さんの趣味について、お父さんもご存じなんですか?」
母親は顔を曇らせる。
「いいえ、あの人は何も知りません。あんな同人誌ものを見せたら、峰子を勘当するかもしれません」
「……」
慧一は、黙ってエンジンをかけた。両親とも、峰子と別世界にいる人なのだ。
「それでは、失礼します。今夜はありがとうございました」
「こちらこそ……あの、よろしくお願いいたします」
慧一は車を出し、ふとバックミラーを見る。
夜の中で、母親が途方に暮れたように、立ちすくんでいた。
十四日の日曜日――
峰子は怒るかもしれない。
それでも慧一は、世話を焼くことに決めた。あの子が自由になるために、それは通るべき道だと思えたから。
10
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
ホリカヨは俺様上司を癒したい!
森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。
そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。
『郡司部長、私はあなたを癒したいです』
※他の投稿サイトにも載せています。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~
日暮ミミ♪
恋愛
大財閥〈篠沢(しのざわ)グループ〉本社・篠沢商事に勤める25歳の桐島貢(きりしまみつぐ)。
彼は秋のある夜、上司の代理で出席した会社のパーティーで、会長令嬢で高校2年生の篠沢絢乃(しのざわあやの)に一目惚れ。
その三ヶ月後、会長・篠沢源一が末期ガンでこの世を去る。
葬儀の日、父の遺言により会長の後継者となった絢乃を支えるべく、秘書室へ転属する旨を彼女に伝える。
絢乃は無事、会長に就任。会長付秘書として働くことになった貢はある日、会社帰りの愛車の中で絢乃に衝動的にキスをしてしまい――!?
草食系男子の年上秘書×キュートな10代の大企業総帥による、年の差オフィスラブストーリーのヒーローサイド。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる