50 / 82
スパイ峰子
2
しおりを挟む
「それで君は、俺とやり直したいと。昨夜、電話でそう言ったよね。それは本気なんだね」
「ええ、もちろん」
しばしの間があり、再び真介の声がした。
「そうか……よく分かった」
真介がどんな顔をしているのか、背後に身を隠す峰子には分からない。ただ、彼の誠実さは、ひしひしと伝わってくる。
「嬉しいと思うよ、俺は」
「真介君……」
峰子は固唾を呑む。
真介はOKしそうだ。でも、これでいいのだろうか。
(慧一さんが止めようとしたのに……)
思わず顔を出しそうになった時、真介が口を開く。峰子の耳に、大きくはっきりとその言葉は聞こえた。
「でも、俺は君の気持ちに応えることはできない」
空気が凍る気配がした。
聖子が愕然とするのが、ありありと見えるようだった。
「やっぱり、怒ってるのね」
「そうじゃない。もう昔のことだよ。それに、確かに俺は君に振られてショックだったけど、君のことを本当に好きだったから、恨んじゃいない」
峰子は彼の発言に驚く。そして、えもいわれぬ感動を覚えた。
真介は彼女に棄てられたのだと、慧一は言った。だけど今の言葉が、その棄てられた人間のものだとは到底思えない。
でも、真介は真面目だ。
どうしようもないほど優しく、お人好しで、そして芯の通った人柄が、言葉に表れている。
峰子はもう顔を出そうとせず、見守ることにした。
「お願い、真介君。私を助けて。あなたが必要なの。愛してるのよ!」
聖子はほとんど泣き声だ。
真介は無言になるが、それも数秒のことだった。
「もう、二度と会わない。君は思い出であり、過去の人だ」
「真介君!?」
「今、俺には大切な人がいる」
「……」
聖子は絶句した。
そして背後にいる峰子も、重い沈黙の下でぴたりと固まる。
(大切な人がいる……泉さんに?)
知らなかった。慧一さんは知っているのだろうか――
「だったら、昨夜の電話で言ってくれたら良かったじゃない!」
聖子が急に声を荒げ、責め始めた。豹変したと言ってもいい変わり方だ。
「聖子……」
真介のため息が聞こえた。
「ねえ、そうでしょ? 黙ってないで何とか言ったらどうなの!?」
「君は相変わらずだ。そして俺も、相変わらずの愚か者だってことが、よく分かったよ」
「……どういう意味?」
「力になれなくて済まない。さようなら……葉月さん」
真介が立ち上がった。峰子の横を通り過ぎ、レジのほうへすたすたと歩く。聖子は動けないのか、椅子に座ったままだ。
(あ、どうしよう……)
峰子は焦り、自分も退散することにした。
真介がおばちゃんと短く言葉を交わし、会計を済ませて出て行くのが見えた。峰子もレジでコーヒーの代金を払おうとすると、おばちゃんが顔の前で手を振る。
「真介君がね、あなたの分も出してくれたわ」
「ええっ?」
「ばれてたのよ」
おばちゃんは肩をすくめ、苦笑した。
峰子は慌てて外に出て、真介を捜した。
だが、すでに彼は自分の車に乗り込み、発進するところだった。
「泉さんっ」
車は駐車場を出てしまい、峰子は呆然と見送るのみ。
彼のために何も出来ず、ただ盗み聞きをしただけだった。峰子は額に浮ぶ汗を手の甲で拭い、それから、報告しなければならない人を思い出す。
「慧一さん、あっ……」
振り返ると、慧一が立っていた。
「あいつ、バカヤロウじゃなかったみたいだな」
「えっ?」
慧一は、何も言わなくてもいいと伝えるように、峰子の肩を抱く。
「真介のやつ、車を出す前に俺に合図したよ。ちょっと、照れた感じでさ」
「……そうなんですか」
泉さんは知っていたのだ。私のこと、そして慧一さんのことも――
二人は寄り添い、静かな駐車場にしばし佇んだ。
「行こうか、峰子。もうここに用は無い」
慧一の表情は明るく、すっきりしている。峰子も微笑み、彼とともに車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
慧一は海沿いの道を走り、見晴らしのいい場所に車を停めると、少し話さないかと峰子を誘った。
このまま帰るには気分が落ち着かず、そして、まだ峰子と離れたくなかった。
「歩くの、辛いか?」
「いいえ。筋肉痛なら、だいぶ直りましたよ」
峰子はその場で、足踏みをしてみせる。ユーモラスな仕草に、慧一は思わず笑みを浮かべた。
「さすが、若いな」
彼女の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
駐車場から海側へ、緩やかなスロープが続く。
きれいに整備された散策路は歩きやすかった。松原を抜けてさらに進むと、砂浜に出た。海水浴場から離れた場所なので、人影もまばらだ。
「どうだった、真介の様子は。あの女……聖子と、きれいに別れたんだろ?」
慧一は海を見ながら、峰子に確認した。
「はい。彼女は、泉さんとやり直したいと言いましたが、泉さんは、えっと……嬉しく思うけれど、君はもう過去の人だと言って」
「うん」
「力になれなくてすまないと、それと……今、俺には大切な人がいると告げて、彼女を受け入れませんでした」
慧一は峰子に視線を移す。
「大切な人?」
「はい」
再び海を見つめる。彼は無意識に、繋いだ手に力を込めていた。
「ええ、もちろん」
しばしの間があり、再び真介の声がした。
「そうか……よく分かった」
真介がどんな顔をしているのか、背後に身を隠す峰子には分からない。ただ、彼の誠実さは、ひしひしと伝わってくる。
「嬉しいと思うよ、俺は」
「真介君……」
峰子は固唾を呑む。
真介はOKしそうだ。でも、これでいいのだろうか。
(慧一さんが止めようとしたのに……)
思わず顔を出しそうになった時、真介が口を開く。峰子の耳に、大きくはっきりとその言葉は聞こえた。
「でも、俺は君の気持ちに応えることはできない」
空気が凍る気配がした。
聖子が愕然とするのが、ありありと見えるようだった。
「やっぱり、怒ってるのね」
「そうじゃない。もう昔のことだよ。それに、確かに俺は君に振られてショックだったけど、君のことを本当に好きだったから、恨んじゃいない」
峰子は彼の発言に驚く。そして、えもいわれぬ感動を覚えた。
真介は彼女に棄てられたのだと、慧一は言った。だけど今の言葉が、その棄てられた人間のものだとは到底思えない。
でも、真介は真面目だ。
どうしようもないほど優しく、お人好しで、そして芯の通った人柄が、言葉に表れている。
峰子はもう顔を出そうとせず、見守ることにした。
「お願い、真介君。私を助けて。あなたが必要なの。愛してるのよ!」
聖子はほとんど泣き声だ。
真介は無言になるが、それも数秒のことだった。
「もう、二度と会わない。君は思い出であり、過去の人だ」
「真介君!?」
「今、俺には大切な人がいる」
「……」
聖子は絶句した。
そして背後にいる峰子も、重い沈黙の下でぴたりと固まる。
(大切な人がいる……泉さんに?)
知らなかった。慧一さんは知っているのだろうか――
「だったら、昨夜の電話で言ってくれたら良かったじゃない!」
聖子が急に声を荒げ、責め始めた。豹変したと言ってもいい変わり方だ。
「聖子……」
真介のため息が聞こえた。
「ねえ、そうでしょ? 黙ってないで何とか言ったらどうなの!?」
「君は相変わらずだ。そして俺も、相変わらずの愚か者だってことが、よく分かったよ」
「……どういう意味?」
「力になれなくて済まない。さようなら……葉月さん」
真介が立ち上がった。峰子の横を通り過ぎ、レジのほうへすたすたと歩く。聖子は動けないのか、椅子に座ったままだ。
(あ、どうしよう……)
峰子は焦り、自分も退散することにした。
真介がおばちゃんと短く言葉を交わし、会計を済ませて出て行くのが見えた。峰子もレジでコーヒーの代金を払おうとすると、おばちゃんが顔の前で手を振る。
「真介君がね、あなたの分も出してくれたわ」
「ええっ?」
「ばれてたのよ」
おばちゃんは肩をすくめ、苦笑した。
峰子は慌てて外に出て、真介を捜した。
だが、すでに彼は自分の車に乗り込み、発進するところだった。
「泉さんっ」
車は駐車場を出てしまい、峰子は呆然と見送るのみ。
彼のために何も出来ず、ただ盗み聞きをしただけだった。峰子は額に浮ぶ汗を手の甲で拭い、それから、報告しなければならない人を思い出す。
「慧一さん、あっ……」
振り返ると、慧一が立っていた。
「あいつ、バカヤロウじゃなかったみたいだな」
「えっ?」
慧一は、何も言わなくてもいいと伝えるように、峰子の肩を抱く。
「真介のやつ、車を出す前に俺に合図したよ。ちょっと、照れた感じでさ」
「……そうなんですか」
泉さんは知っていたのだ。私のこと、そして慧一さんのことも――
二人は寄り添い、静かな駐車場にしばし佇んだ。
「行こうか、峰子。もうここに用は無い」
慧一の表情は明るく、すっきりしている。峰子も微笑み、彼とともに車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
慧一は海沿いの道を走り、見晴らしのいい場所に車を停めると、少し話さないかと峰子を誘った。
このまま帰るには気分が落ち着かず、そして、まだ峰子と離れたくなかった。
「歩くの、辛いか?」
「いいえ。筋肉痛なら、だいぶ直りましたよ」
峰子はその場で、足踏みをしてみせる。ユーモラスな仕草に、慧一は思わず笑みを浮かべた。
「さすが、若いな」
彼女の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
駐車場から海側へ、緩やかなスロープが続く。
きれいに整備された散策路は歩きやすかった。松原を抜けてさらに進むと、砂浜に出た。海水浴場から離れた場所なので、人影もまばらだ。
「どうだった、真介の様子は。あの女……聖子と、きれいに別れたんだろ?」
慧一は海を見ながら、峰子に確認した。
「はい。彼女は、泉さんとやり直したいと言いましたが、泉さんは、えっと……嬉しく思うけれど、君はもう過去の人だと言って」
「うん」
「力になれなくてすまないと、それと……今、俺には大切な人がいると告げて、彼女を受け入れませんでした」
慧一は峰子に視線を移す。
「大切な人?」
「はい」
再び海を見つめる。彼は無意識に、繋いだ手に力を込めていた。
10
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ホリカヨは俺様上司を癒したい!
森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。
そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。
『郡司部長、私はあなたを癒したいです』
※他の投稿サイトにも載せています。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。

淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~
伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華
結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空
幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。
割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。
思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。
二人の結婚生活は一体どうなる?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる