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スパイ峰子
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「それで君は、俺とやり直したいと。昨夜、電話でそう言ったよね。それは本気なんだね」
「ええ、もちろん」
しばしの間があり、再び真介の声がした。
「そうか……よく分かった」
真介がどんな顔をしているのか、背後に身を隠す峰子には分からない。ただ、彼の誠実さは、ひしひしと伝わってくる。
「嬉しいと思うよ、俺は」
「真介君……」
峰子は固唾を呑む。
真介はOKしそうだ。でも、これでいいのだろうか。
(慧一さんが止めようとしたのに……)
思わず顔を出しそうになった時、真介が口を開く。峰子の耳に、大きくはっきりとその言葉は聞こえた。
「でも、俺は君の気持ちに応えることはできない」
空気が凍る気配がした。
聖子が愕然とするのが、ありありと見えるようだった。
「やっぱり、怒ってるのね」
「そうじゃない。もう昔のことだよ。それに、確かに俺は君に振られてショックだったけど、君のことを本当に好きだったから、恨んじゃいない」
峰子は彼の発言に驚く。そして、えもいわれぬ感動を覚えた。
真介は彼女に棄てられたのだと、慧一は言った。だけど今の言葉が、その棄てられた人間のものだとは到底思えない。
でも、真介は真面目だ。
どうしようもないほど優しく、お人好しで、そして芯の通った人柄が、言葉に表れている。
峰子はもう顔を出そうとせず、見守ることにした。
「お願い、真介君。私を助けて。あなたが必要なの。愛してるのよ!」
聖子はほとんど泣き声だ。
真介は無言になるが、それも数秒のことだった。
「もう、二度と会わない。君は思い出であり、過去の人だ」
「真介君!?」
「今、俺には大切な人がいる」
「……」
聖子は絶句した。
そして背後にいる峰子も、重い沈黙の下でぴたりと固まる。
(大切な人がいる……泉さんに?)
知らなかった。慧一さんは知っているのだろうか――
「だったら、昨夜の電話で言ってくれたら良かったじゃない!」
聖子が急に声を荒げ、責め始めた。豹変したと言ってもいい変わり方だ。
「聖子……」
真介のため息が聞こえた。
「ねえ、そうでしょ? 黙ってないで何とか言ったらどうなの!?」
「君は相変わらずだ。そして俺も、相変わらずの愚か者だってことが、よく分かったよ」
「……どういう意味?」
「力になれなくて済まない。さようなら……葉月さん」
真介が立ち上がった。峰子の横を通り過ぎ、レジのほうへすたすたと歩く。聖子は動けないのか、椅子に座ったままだ。
(あ、どうしよう……)
峰子は焦り、自分も退散することにした。
真介がおばちゃんと短く言葉を交わし、会計を済ませて出て行くのが見えた。峰子もレジでコーヒーの代金を払おうとすると、おばちゃんが顔の前で手を振る。
「真介君がね、あなたの分も出してくれたわ」
「ええっ?」
「ばれてたのよ」
おばちゃんは肩をすくめ、苦笑した。
峰子は慌てて外に出て、真介を捜した。
だが、すでに彼は自分の車に乗り込み、発進するところだった。
「泉さんっ」
車は駐車場を出てしまい、峰子は呆然と見送るのみ。
彼のために何も出来ず、ただ盗み聞きをしただけだった。峰子は額に浮ぶ汗を手の甲で拭い、それから、報告しなければならない人を思い出す。
「慧一さん、あっ……」
振り返ると、慧一が立っていた。
「あいつ、バカヤロウじゃなかったみたいだな」
「えっ?」
慧一は、何も言わなくてもいいと伝えるように、峰子の肩を抱く。
「真介のやつ、車を出す前に俺に合図したよ。ちょっと、照れた感じでさ」
「……そうなんですか」
泉さんは知っていたのだ。私のこと、そして慧一さんのことも――
二人は寄り添い、静かな駐車場にしばし佇んだ。
「行こうか、峰子。もうここに用は無い」
慧一の表情は明るく、すっきりしている。峰子も微笑み、彼とともに車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
慧一は海沿いの道を走り、見晴らしのいい場所に車を停めると、少し話さないかと峰子を誘った。
このまま帰るには気分が落ち着かず、そして、まだ峰子と離れたくなかった。
「歩くの、辛いか?」
「いいえ。筋肉痛なら、だいぶ直りましたよ」
峰子はその場で、足踏みをしてみせる。ユーモラスな仕草に、慧一は思わず笑みを浮かべた。
「さすが、若いな」
彼女の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
駐車場から海側へ、緩やかなスロープが続く。
きれいに整備された散策路は歩きやすかった。松原を抜けてさらに進むと、砂浜に出た。海水浴場から離れた場所なので、人影もまばらだ。
「どうだった、真介の様子は。あの女……聖子と、きれいに別れたんだろ?」
慧一は海を見ながら、峰子に確認した。
「はい。彼女は、泉さんとやり直したいと言いましたが、泉さんは、えっと……嬉しく思うけれど、君はもう過去の人だと言って」
「うん」
「力になれなくてすまないと、それと……今、俺には大切な人がいると告げて、彼女を受け入れませんでした」
慧一は峰子に視線を移す。
「大切な人?」
「はい」
再び海を見つめる。彼は無意識に、繋いだ手に力を込めていた。
「ええ、もちろん」
しばしの間があり、再び真介の声がした。
「そうか……よく分かった」
真介がどんな顔をしているのか、背後に身を隠す峰子には分からない。ただ、彼の誠実さは、ひしひしと伝わってくる。
「嬉しいと思うよ、俺は」
「真介君……」
峰子は固唾を呑む。
真介はOKしそうだ。でも、これでいいのだろうか。
(慧一さんが止めようとしたのに……)
思わず顔を出しそうになった時、真介が口を開く。峰子の耳に、大きくはっきりとその言葉は聞こえた。
「でも、俺は君の気持ちに応えることはできない」
空気が凍る気配がした。
聖子が愕然とするのが、ありありと見えるようだった。
「やっぱり、怒ってるのね」
「そうじゃない。もう昔のことだよ。それに、確かに俺は君に振られてショックだったけど、君のことを本当に好きだったから、恨んじゃいない」
峰子は彼の発言に驚く。そして、えもいわれぬ感動を覚えた。
真介は彼女に棄てられたのだと、慧一は言った。だけど今の言葉が、その棄てられた人間のものだとは到底思えない。
でも、真介は真面目だ。
どうしようもないほど優しく、お人好しで、そして芯の通った人柄が、言葉に表れている。
峰子はもう顔を出そうとせず、見守ることにした。
「お願い、真介君。私を助けて。あなたが必要なの。愛してるのよ!」
聖子はほとんど泣き声だ。
真介は無言になるが、それも数秒のことだった。
「もう、二度と会わない。君は思い出であり、過去の人だ」
「真介君!?」
「今、俺には大切な人がいる」
「……」
聖子は絶句した。
そして背後にいる峰子も、重い沈黙の下でぴたりと固まる。
(大切な人がいる……泉さんに?)
知らなかった。慧一さんは知っているのだろうか――
「だったら、昨夜の電話で言ってくれたら良かったじゃない!」
聖子が急に声を荒げ、責め始めた。豹変したと言ってもいい変わり方だ。
「聖子……」
真介のため息が聞こえた。
「ねえ、そうでしょ? 黙ってないで何とか言ったらどうなの!?」
「君は相変わらずだ。そして俺も、相変わらずの愚か者だってことが、よく分かったよ」
「……どういう意味?」
「力になれなくて済まない。さようなら……葉月さん」
真介が立ち上がった。峰子の横を通り過ぎ、レジのほうへすたすたと歩く。聖子は動けないのか、椅子に座ったままだ。
(あ、どうしよう……)
峰子は焦り、自分も退散することにした。
真介がおばちゃんと短く言葉を交わし、会計を済ませて出て行くのが見えた。峰子もレジでコーヒーの代金を払おうとすると、おばちゃんが顔の前で手を振る。
「真介君がね、あなたの分も出してくれたわ」
「ええっ?」
「ばれてたのよ」
おばちゃんは肩をすくめ、苦笑した。
峰子は慌てて外に出て、真介を捜した。
だが、すでに彼は自分の車に乗り込み、発進するところだった。
「泉さんっ」
車は駐車場を出てしまい、峰子は呆然と見送るのみ。
彼のために何も出来ず、ただ盗み聞きをしただけだった。峰子は額に浮ぶ汗を手の甲で拭い、それから、報告しなければならない人を思い出す。
「慧一さん、あっ……」
振り返ると、慧一が立っていた。
「あいつ、バカヤロウじゃなかったみたいだな」
「えっ?」
慧一は、何も言わなくてもいいと伝えるように、峰子の肩を抱く。
「真介のやつ、車を出す前に俺に合図したよ。ちょっと、照れた感じでさ」
「……そうなんですか」
泉さんは知っていたのだ。私のこと、そして慧一さんのことも――
二人は寄り添い、静かな駐車場にしばし佇んだ。
「行こうか、峰子。もうここに用は無い」
慧一の表情は明るく、すっきりしている。峰子も微笑み、彼とともに車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
慧一は海沿いの道を走り、見晴らしのいい場所に車を停めると、少し話さないかと峰子を誘った。
このまま帰るには気分が落ち着かず、そして、まだ峰子と離れたくなかった。
「歩くの、辛いか?」
「いいえ。筋肉痛なら、だいぶ直りましたよ」
峰子はその場で、足踏みをしてみせる。ユーモラスな仕草に、慧一は思わず笑みを浮かべた。
「さすが、若いな」
彼女の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
駐車場から海側へ、緩やかなスロープが続く。
きれいに整備された散策路は歩きやすかった。松原を抜けてさらに進むと、砂浜に出た。海水浴場から離れた場所なので、人影もまばらだ。
「どうだった、真介の様子は。あの女……聖子と、きれいに別れたんだろ?」
慧一は海を見ながら、峰子に確認した。
「はい。彼女は、泉さんとやり直したいと言いましたが、泉さんは、えっと……嬉しく思うけれど、君はもう過去の人だと言って」
「うん」
「力になれなくてすまないと、それと……今、俺には大切な人がいると告げて、彼女を受け入れませんでした」
慧一は峰子に視線を移す。
「大切な人?」
「はい」
再び海を見つめる。彼は無意識に、繋いだ手に力を込めていた。
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