モース10

藤谷 郁

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スパイ峰子

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 真介が好む女性は、知的で品のある、落ち着いたタイプのはずだ。

 慧一は、乱雑な運転で現れた葉月聖子を目で追い、まったくこいつは論外だと、胸で舌打ちした。


 大学時代を思い出す。

 三年の夏、真介が学部内トップの成績を収めた。日頃から優秀な学生だが、トップというのは初めてだった。

 思えば、それがきっかけだったのかもしれない。

 葉月聖子という同じ学部の女が、隣り合った研究室のよしみでと、これまで口も利いたことのない真介に近付いてきたのだ。

 彼女はしとやかに見えた。真介の前で、上品で知性的な女を演じたのだろう。真介の趣味に合わせ、博物館めぐりなどに誘っていた。

 女性と付き合った経験が皆無の男が、理想的なタイプの彼女に惚れるのは無理からぬこと。

 夏休みの間に、二人は深い関係になったらしい。


 奥手の真介にしては展開が早いな――


 不思議に思って真介のノロケをよく聞くと、聖子が主導権を握るのが窺いしれた。だけど妙なことに、当の真介はリードされている自覚がない。

 そこがどうにもおかしかった。

 慧一はだんだん、聖子の何気ない言動に、真介が語るイメージとは異質なものを感じるようになる。真介にそれとなく違和感を伝えるが、熱愛の渦中にある男には何を言っても無駄だった。

 結果、真介は棄てられた。


「あの時、俺がもう少しきちっと忠告しておけば……」


 慧一の胸に悔恨の痛みが残った。

 聖子に対してもだが、自分自身にも腹が立って仕方がない。

 その葉月聖子が、今、目の前を歩いている。

 大学時代を彷彿とさせる――本人のイメージにそぐわぬ――上品な服装に身を包み、真介の待つ喫茶店のドアを開けようとしている。

 慧一は確信した。真介はまた騙される。


「そうはさせるか!」


 慧一が後を追おうとした時、峰子が腕をぐいと引っ張った。


「な、何だ?」

「泉さんにとって、良くない人なんですか?」


 峰子の問いに、慧一は怒った顔で「そうだ」と頷く。


「あいつはあの女に一度棄てられてる。また騙されるに違いないんだ。行って俺が何とかしないと」

「私が行きましょうか」

「……えっ?」

「私はあの女性と面識がないし、その……冷静に見ることができると思います」

「あ……」


 確かに、自分では感情的になって、ケンカになるだけだ。慧一は峰子に指摘され、肩の力を抜いた。


「しかし、君にそんなことを頼むのは……」

「私が行ってきます!」


 きっぱりと言い切った。

 峰子は戸惑う慧一の腕をぱっと離し、聖子を追って建物へと向かう。筋肉痛の体でひょこひょこと歩く姿は頼りないが、一度も振り向かない背中は、強い決意を感じさせる。

 引き止めるタイミングを失った慧一は、立ち尽くすのみ。


(峰子……?)


 意外なほど力強い口調。そして、ずいぶんと協力的な態度だ。

 首を傾げる慧一だが、とりあえずここは彼女に任せ、車の陰からそっと見守ることにした。




◇ ◇ ◇



 峰子が店に入ると、バイトのおばちゃんが「あれっ」という顔をした。しかし峰子が人差し指を唇に当てると、察してくれたようだ。


「スパイごっこ?」


 面白そうに囁くおばちゃんに、峰子は頷く。

 おばちゃんは、真介と聖子が座る席の後ろに、こっそり案内してくれた。峰子はブレンドをひとつ注文し、あとは息を潜める。

 背後から話し声が聞こえた。


「真介君、変わってないね……って言うより、むしろ素敵になったみたい」


 聖子の声は少女のようなハイトーン。甘い響きがする。


「いやまさか、そんなことないよ。君こそ、相変わらず若々しくて驚いた」


 緊張のためか、真介の声は上ずっている。

 アイスティーが二つ運ばれてきた。二人はしばし無言になり、おばちゃんが去ると再び会話を始める。


「私、いまさら真介君に会える義理じゃないって、随分悩んだけど、どうしてもあなたに相談したくて。それに、謝りたかったし」

「聖子……」

「真介君がどれだけ誠実で素敵な人だったのか、あいつと結婚してさんざんな目に遭って、初めて気が付いたの。私、本当に馬鹿だった。あなたみたいな人を裏切って、あんな男を選ぶだなんて」

「……」


 真介は黙り込む。聖子は途中から涙声になっていた。


 葉月聖子という女性が、真介にとって本当に良くない人なのか、峰子は分からなくなる。以前はそうだったかもしれないが、今は過去を悔やみ、心から泉さんを頼りにしているのではないか。

 彼女の声は真剣で、切実なものに感じられた。


「離婚は成立してるんだね」


 やがて、真介がぽつりと訊ねる。聖子は鼻を啜ると、


「ええ。私達には子どもがいないし、さほど揉めずに縁が切れたわ」

「そうか」


 峰子は耳をそばだてる。真介が次に何を言うのか、それが問題だ。
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