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スパイ峰子
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真介が好む女性は、知的で品のある、落ち着いたタイプのはずだ。
慧一は、乱雑な運転で現れた葉月聖子を目で追い、まったくこいつは論外だと、胸で舌打ちした。
大学時代を思い出す。
三年の夏、真介が学部内トップの成績を収めた。日頃から優秀な学生だが、トップというのは初めてだった。
思えば、それがきっかけだったのかもしれない。
葉月聖子という同じ学部の女が、隣り合った研究室のよしみでと、これまで口も利いたことのない真介に近付いてきたのだ。
彼女はしとやかに見えた。真介の前で、上品で知性的な女を演じたのだろう。真介の趣味に合わせ、博物館めぐりなどに誘っていた。
女性と付き合った経験が皆無の男が、理想的なタイプの彼女に惚れるのは無理からぬこと。
夏休みの間に、二人は深い関係になったらしい。
奥手の真介にしては展開が早いな――
不思議に思って真介のノロケをよく聞くと、聖子が主導権を握るのが窺いしれた。だけど妙なことに、当の真介はリードされている自覚がない。
そこがどうにもおかしかった。
慧一はだんだん、聖子の何気ない言動に、真介が語るイメージとは異質なものを感じるようになる。真介にそれとなく違和感を伝えるが、熱愛の渦中にある男には何を言っても無駄だった。
結果、真介は棄てられた。
「あの時、俺がもう少しきちっと忠告しておけば……」
慧一の胸に悔恨の痛みが残った。
聖子に対してもだが、自分自身にも腹が立って仕方がない。
その葉月聖子が、今、目の前を歩いている。
大学時代を彷彿とさせる――本人のイメージにそぐわぬ――上品な服装に身を包み、真介の待つ喫茶店のドアを開けようとしている。
慧一は確信した。真介はまた騙される。
「そうはさせるか!」
慧一が後を追おうとした時、峰子が腕をぐいと引っ張った。
「な、何だ?」
「泉さんにとって、良くない人なんですか?」
峰子の問いに、慧一は怒った顔で「そうだ」と頷く。
「あいつはあの女に一度棄てられてる。また騙されるに違いないんだ。行って俺が何とかしないと」
「私が行きましょうか」
「……えっ?」
「私はあの女性と面識がないし、その……冷静に見ることができると思います」
「あ……」
確かに、自分では感情的になって、ケンカになるだけだ。慧一は峰子に指摘され、肩の力を抜いた。
「しかし、君にそんなことを頼むのは……」
「私が行ってきます!」
きっぱりと言い切った。
峰子は戸惑う慧一の腕をぱっと離し、聖子を追って建物へと向かう。筋肉痛の体でひょこひょこと歩く姿は頼りないが、一度も振り向かない背中は、強い決意を感じさせる。
引き止めるタイミングを失った慧一は、立ち尽くすのみ。
(峰子……?)
意外なほど力強い口調。そして、ずいぶんと協力的な態度だ。
首を傾げる慧一だが、とりあえずここは彼女に任せ、車の陰からそっと見守ることにした。
◇ ◇ ◇
峰子が店に入ると、バイトのおばちゃんが「あれっ」という顔をした。しかし峰子が人差し指を唇に当てると、察してくれたようだ。
「スパイごっこ?」
面白そうに囁くおばちゃんに、峰子は頷く。
おばちゃんは、真介と聖子が座る席の後ろに、こっそり案内してくれた。峰子はブレンドをひとつ注文し、あとは息を潜める。
背後から話し声が聞こえた。
「真介君、変わってないね……って言うより、むしろ素敵になったみたい」
聖子の声は少女のようなハイトーン。甘い響きがする。
「いやまさか、そんなことないよ。君こそ、相変わらず若々しくて驚いた」
緊張のためか、真介の声は上ずっている。
アイスティーが二つ運ばれてきた。二人はしばし無言になり、おばちゃんが去ると再び会話を始める。
「私、いまさら真介君に会える義理じゃないって、随分悩んだけど、どうしてもあなたに相談したくて。それに、謝りたかったし」
「聖子……」
「真介君がどれだけ誠実で素敵な人だったのか、あいつと結婚してさんざんな目に遭って、初めて気が付いたの。私、本当に馬鹿だった。あなたみたいな人を裏切って、あんな男を選ぶだなんて」
「……」
真介は黙り込む。聖子は途中から涙声になっていた。
葉月聖子という女性が、真介にとって本当に良くない人なのか、峰子は分からなくなる。以前はそうだったかもしれないが、今は過去を悔やみ、心から泉さんを頼りにしているのではないか。
彼女の声は真剣で、切実なものに感じられた。
「離婚は成立してるんだね」
やがて、真介がぽつりと訊ねる。聖子は鼻を啜ると、
「ええ。私達には子どもがいないし、さほど揉めずに縁が切れたわ」
「そうか」
峰子は耳をそばだてる。真介が次に何を言うのか、それが問題だ。
慧一は、乱雑な運転で現れた葉月聖子を目で追い、まったくこいつは論外だと、胸で舌打ちした。
大学時代を思い出す。
三年の夏、真介が学部内トップの成績を収めた。日頃から優秀な学生だが、トップというのは初めてだった。
思えば、それがきっかけだったのかもしれない。
葉月聖子という同じ学部の女が、隣り合った研究室のよしみでと、これまで口も利いたことのない真介に近付いてきたのだ。
彼女はしとやかに見えた。真介の前で、上品で知性的な女を演じたのだろう。真介の趣味に合わせ、博物館めぐりなどに誘っていた。
女性と付き合った経験が皆無の男が、理想的なタイプの彼女に惚れるのは無理からぬこと。
夏休みの間に、二人は深い関係になったらしい。
奥手の真介にしては展開が早いな――
不思議に思って真介のノロケをよく聞くと、聖子が主導権を握るのが窺いしれた。だけど妙なことに、当の真介はリードされている自覚がない。
そこがどうにもおかしかった。
慧一はだんだん、聖子の何気ない言動に、真介が語るイメージとは異質なものを感じるようになる。真介にそれとなく違和感を伝えるが、熱愛の渦中にある男には何を言っても無駄だった。
結果、真介は棄てられた。
「あの時、俺がもう少しきちっと忠告しておけば……」
慧一の胸に悔恨の痛みが残った。
聖子に対してもだが、自分自身にも腹が立って仕方がない。
その葉月聖子が、今、目の前を歩いている。
大学時代を彷彿とさせる――本人のイメージにそぐわぬ――上品な服装に身を包み、真介の待つ喫茶店のドアを開けようとしている。
慧一は確信した。真介はまた騙される。
「そうはさせるか!」
慧一が後を追おうとした時、峰子が腕をぐいと引っ張った。
「な、何だ?」
「泉さんにとって、良くない人なんですか?」
峰子の問いに、慧一は怒った顔で「そうだ」と頷く。
「あいつはあの女に一度棄てられてる。また騙されるに違いないんだ。行って俺が何とかしないと」
「私が行きましょうか」
「……えっ?」
「私はあの女性と面識がないし、その……冷静に見ることができると思います」
「あ……」
確かに、自分では感情的になって、ケンカになるだけだ。慧一は峰子に指摘され、肩の力を抜いた。
「しかし、君にそんなことを頼むのは……」
「私が行ってきます!」
きっぱりと言い切った。
峰子は戸惑う慧一の腕をぱっと離し、聖子を追って建物へと向かう。筋肉痛の体でひょこひょこと歩く姿は頼りないが、一度も振り向かない背中は、強い決意を感じさせる。
引き止めるタイミングを失った慧一は、立ち尽くすのみ。
(峰子……?)
意外なほど力強い口調。そして、ずいぶんと協力的な態度だ。
首を傾げる慧一だが、とりあえずここは彼女に任せ、車の陰からそっと見守ることにした。
◇ ◇ ◇
峰子が店に入ると、バイトのおばちゃんが「あれっ」という顔をした。しかし峰子が人差し指を唇に当てると、察してくれたようだ。
「スパイごっこ?」
面白そうに囁くおばちゃんに、峰子は頷く。
おばちゃんは、真介と聖子が座る席の後ろに、こっそり案内してくれた。峰子はブレンドをひとつ注文し、あとは息を潜める。
背後から話し声が聞こえた。
「真介君、変わってないね……って言うより、むしろ素敵になったみたい」
聖子の声は少女のようなハイトーン。甘い響きがする。
「いやまさか、そんなことないよ。君こそ、相変わらず若々しくて驚いた」
緊張のためか、真介の声は上ずっている。
アイスティーが二つ運ばれてきた。二人はしばし無言になり、おばちゃんが去ると再び会話を始める。
「私、いまさら真介君に会える義理じゃないって、随分悩んだけど、どうしてもあなたに相談したくて。それに、謝りたかったし」
「聖子……」
「真介君がどれだけ誠実で素敵な人だったのか、あいつと結婚してさんざんな目に遭って、初めて気が付いたの。私、本当に馬鹿だった。あなたみたいな人を裏切って、あんな男を選ぶだなんて」
「……」
真介は黙り込む。聖子は途中から涙声になっていた。
葉月聖子という女性が、真介にとって本当に良くない人なのか、峰子は分からなくなる。以前はそうだったかもしれないが、今は過去を悔やみ、心から泉さんを頼りにしているのではないか。
彼女の声は真剣で、切実なものに感じられた。
「離婚は成立してるんだね」
やがて、真介がぽつりと訊ねる。聖子は鼻を啜ると、
「ええ。私達には子どもがいないし、さほど揉めずに縁が切れたわ」
「そうか」
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