モース10

藤谷 郁

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幸せな日曜日

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 土曜日――

 慧一は終日、モースを読んで過ごした。


(それにしても、いろいろな意味で興味深い同人誌ほんだ)


 BLならではのエピソードだろうが、よく分からない部分がある。峰子への質問事項を、頭にメモしながら読み込んだ。




 翌日、日曜日の朝。

 とりあえず読み終わったので、その感想を伝えるという名目で峰子に電話をかけた。

 本音を言えば、彼女の声が聞きたい。できれば、どこかドライブにでも連れ出そうと目論んでいる。

 もっと深く強く、彼女と関わりたい。貪欲になっては駄目だと思いながら、なかなかコントロールが難しいものだ。




『はい、峰子です』


 彼女が電話に出たのは、呼び出し音が鳴ってすぐ。しかも、「三原」ではなく「峰子」と応答した。

 いきなり不意打ちを食らい、慧一は喜びながらも動揺する。


「おう、俺だ」

『おはようございます、慧一さん』

「おはよう」


 峰子の声は明るかった。明るいが、どこか元気がないような気もする。


「いつもと違うな」

『え……』

「どこか調子悪い?」

『……』


 息を呑む気配。どうやら図星のようだ。


「もしもし」

『すみません。あの、実はそうなんです……』

「風邪?」

『いえ……』


 やはり元気がない。
 あの日かな――と思ったが、それは言わないでおく。


「そうか。今日、できれば会えないかなーと、思ったんだけど」

『あっ、大丈夫です。会えます』


 意外にも、かぶりつくような反応。元気はあるようだ。


「具合が悪いんじゃないのか」

『違うんです」


 どうも要領を得ない。慧一はだんだん焦れてきた。


「峰子、はっきり言え。どうしたんだ」

『き……』

「き?」

『筋肉痛で』

「……」


 ようやく、峰子の状態を理解した。慧一は噴きそうになった口を押さえる。


「そ、そうか。そんなに酷いのか」

『いえ、昨日より楽になったんです。それに、今朝起きた時はガチガチでしたけど、だいぶ復活しました』

「復活?」


 言い方が面白くて、ついに笑った。


『笑わないでください』


「ゴメンゴメン。そう、それは悪かった。なら、一応動けるんだな」

『ええ』

「今から迎えに行ってもいいか」

『あ、はい。それなら私、表通りに出ていますので』

「いいよ、家の前に車をつけるよ」

『でも……』


 ためらうのは遠慮なのか、それとも、家族に見られるのが恥ずかしいのか。

 慧一は真面目な声で言った。


「遠慮するな。それに、俺は君を誘拐しようってわけじゃない。お茶に付き合ってもらうだけだ」

『はい……』

「大事な娘さんを預かる。そんなつもりでいるよ」


 納得したのかどうか、峰子は小さな声で「分かりました」と、素直に返事した。


「じゃあ、これから行くよ」

『はい、待っています』


 数秒の間を置き、通話が切れた。



「あっ、そういえば、モースの感想を伝えるはずだったのに」


 同人誌を介さずとも、峰子と会話できたことに気付く。しかも、すんなりとデートに誘い出せた。

 二人の距離がぐっと近付いたという手応えを感じる。

 慧一は笑顔になると、いそいそと準備を始めた。



 身支度を整えると慧一は車に乗り込み、峰子のもとへとひたすら走った。

 フロントガラスには、快晴の夏空が広がる。爽やかな景色の中、自然と気持ちが浮き立ってくる。


 それにしても……と、慧一は頬を緩めた。


 峰子には悪いが、彼女の筋肉痛が自分の仕業だと思うと妙に嬉しい。あの夜が夢ではなかったのだと、その証拠のように思える。

 ある意味、サディスティックな悦びだった。




 約束どおり、峰子の自宅前に車をつけた。

 慧一は門扉の前に立ち、深呼吸してからインターホンを鳴らす。

 ほどなくして玄関ドアが開き、峰子が現れた。


「やあ、お待たせ」


 にこりと笑い、峰子の後ろをそっと窺った。


「ご家族は?」

「父は町内会の用事で留守です。母は近所のお友達と買い物に出かけました。あと、弟はまだ寝ています」


 峰子は二階の窓を見上げながら言う。


「弟さんか。高校生?」

「はい。今、高校三年生です。今日は予備校が休みだから、朝寝してるんです」

「受験生なんだ」

「ええ」


 慧一は遠い昔を思い出す。

 高校三年生の夏、希望の大学に入りたくて、脇目も振らずに勉強した。ガールフレンドはいたが、デートなんてほとんど出来ず、自然解消した記憶がある。


「そうか。出かけることは、お母さんに言ってある?」

「はい。慧一さんと一緒にって伝えました」

「ふうん、そう……で、お母さんは何て?」


 それとなく訊くと、峰子は首を傾げる。


「それが……」

「うん?」


 彼女はなぜか、俯いてしまった。


「えっ? どうしたんだ。お母さんが何だって?」


 峰子の反応を見て不安になる。もしや、母親に良く思われていないのでは。

 だが、顔を上げた彼女の顔はどちらかと言うと嬉しそうで、しかも赤らんでいる。


「峰子?」

「あの人なら、安全ねって……」

「あんぜん?」

「はい」


 慧一は面食らった。まったくの誤解である。滝口慧一は、安全どころか危険極まりない男なのだ。

 そこまで信頼されると、逆に困ってしまう。
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