モース10

藤谷 郁

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悩ましい夜

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 峰子を送った後、慧一はまっすぐ家に戻り、自室でぼんやりした。

 時計を見れば日付が変わろうとしている。


 峰子が帰り際に寄越した紙袋には、『モース』の既刊本9冊が入っていた。薄い本だが、まとめて手に取ると結構なボリュームだ。

 これらは以前、目を通したことがある。京子も交えて三人で食事をしたあの日だ。

 しっかり読みたいところだが、今夜は遅いのでやめておく。

 とりあえずぱらぱらとめくって、挿絵だけは眺めておいた。

 どれもこれも、慧一と真介にそっくりな男二人の絡み合いで、苦笑するほかない。


「そろそろ寝るか」


 明かりを消してベッドに入ったものの、慧一はなかなか眠れない。

 正直、眠るどころではなかった。


「おっ、そういえば」


 慧一はふと、峰子がくれた“今夜の記念” を思い出す。

 がばりと起き上がると、部屋の明かりをつけてベッドから下り、かもいに吊るしたスーツのポケットからそれを取り出した。

 黒いナイロン製の小袋だ。何か、硬いものが入っている。

 金のシールを取り、封を開けた。


「これは、タイタック?」


 ネクタイを留めるアクセサリーである。

 スーツフェチの峰子らしい贈り物だと思いながら、リーフ型の細工をためつすがめつした。


(ラペルピンにも興味深げだったし、スーツ小物をコレクションしてるのかもな)


 それにしても、この鋸歯状の葉っぱの形には見覚えがある。


「ひょっとして……クヌギ?」


 社員食堂の窓辺に揺れる緑を思い浮かべる。

 そういえば、峰子も窓辺の席で昼食をとっていた。もしかしたら、彼女もクヌギを気に入っているのかもしれない。

 慧一はタイタックをもとどおり小袋に入れると、大事そうに箪笥の引き出しに仕舞った。


「今夜の記念、か……」


 ベッドに仰向けに倒れ、目を閉じた。瞼の裏に、彼女の姿が現れる。


「はあっ」


 ため息が漏れた。
 彼女の裸身を、どうしても思い出してしまう。

 峰子は処女だった。
 しかし彼は、自分自身が処女であるかのように錯覚した。

 初めての経験は、誰だって怖い。

 愛しい、可愛い、こんな女が存在したなんて――

 慧一は再び起き上がると、ベッドの上で胡坐をかいた。


「もう駄目だ」


 峰子がもっと欲しい。

 一度抱けば気が済むだろうと、どこかで甘く考えていた。

 とんでもない。さらに想いは深くなり、さらに奥へと突き進みたくなる。

 峰子の告白が、燃える欲望に油を注いでいた。


(あの子は、俺の好きな色を知っていた)


 彼女にはまだしっくりこない、煽情的なデザインの下着。慧一のために背伸びして選んだのだ。いじらしい気持ちが彼の心を鷲掴みにして離さない。


(まったく、本当に、どういうつもりなんだ)


 慧一は考える。
 峰子は男を教えて欲しいと言った。その相手が、なぜ俺なのか。

 結局、はっきりとは聞けなかった。

 顔や姿、スーツの似合う外見に関心があるだけで、俺自身を求めたわけではない。そんな答えが返るのを恐れ、訊こうと思わなかった。

 だが、何となくそれも違うような気がする。


(希望的観測だが、俺自身にも好意を抱いていると、そんな気がする。でなきゃ、わざわざ好きな色を知ってますなんて言わないだろ)


 慧一は悶々とした。いろいろ考えてみるが、どれもこれも推測の域を出ない。


「俺をどうしようってんだ」


 慧一は峰子を恨めしく思った。

 彼は翻弄されている。

 自分よりずっと年下の、少女のような面差しの峰子に、押されたり引かれたり、さんざん振り回されている。

 しかし、恨めしく思いながらも、その何百倍も何千倍も可愛いくて、好きで堪らないのだから仕方ない。


 彼女との約束は、あと八回。


「八回で、あっさり棄てられるのか俺は」


 女に棄てられる不安を持つなど初めてだ。情けない。


 だけど――


 今この時、峰子も眠れぬ夜を過ごしているのを慧一は知らない。

 この先二人がどこへ向かうのか分からず、ただ焦燥感に苛まれ、途方に暮れるしかなかった。

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