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悩ましい夜
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峰子を送った後、慧一はまっすぐ家に戻り、自室でぼんやりした。
時計を見れば日付が変わろうとしている。
峰子が帰り際に寄越した紙袋には、『モース』の既刊本9冊が入っていた。薄い本だが、まとめて手に取ると結構なボリュームだ。
これらは以前、目を通したことがある。京子も交えて三人で食事をしたあの日だ。
しっかり読みたいところだが、今夜は遅いのでやめておく。
とりあえずぱらぱらとめくって、挿絵だけは眺めておいた。
どれもこれも、慧一と真介にそっくりな男二人の絡み合いで、苦笑するほかない。
「そろそろ寝るか」
明かりを消してベッドに入ったものの、慧一はなかなか眠れない。
正直、眠るどころではなかった。
「おっ、そういえば」
慧一はふと、峰子がくれた“今夜の記念” を思い出す。
がばりと起き上がると、部屋の明かりをつけてベッドから下り、かもいに吊るしたスーツのポケットからそれを取り出した。
黒いナイロン製の小袋だ。何か、硬いものが入っている。
金のシールを取り、封を開けた。
「これは、タイタック?」
ネクタイを留めるアクセサリーである。
スーツフェチの峰子らしい贈り物だと思いながら、リーフ型の細工をためつすがめつした。
(ラペルピンにも興味深げだったし、スーツ小物をコレクションしてるのかもな)
それにしても、この鋸歯状の葉っぱの形には見覚えがある。
「ひょっとして……クヌギ?」
社員食堂の窓辺に揺れる緑を思い浮かべる。
そういえば、峰子も窓辺の席で昼食をとっていた。もしかしたら、彼女もクヌギを気に入っているのかもしれない。
慧一はタイタックをもとどおり小袋に入れると、大事そうに箪笥の引き出しに仕舞った。
「今夜の記念、か……」
ベッドに仰向けに倒れ、目を閉じた。瞼の裏に、彼女の姿が現れる。
「はあっ」
ため息が漏れた。
彼女の裸身を、どうしても思い出してしまう。
峰子は処女だった。
しかし彼は、自分自身が処女であるかのように錯覚した。
初めての経験は、誰だって怖い。
愛しい、可愛い、こんな女が存在したなんて――
慧一は再び起き上がると、ベッドの上で胡坐をかいた。
「もう駄目だ」
峰子がもっと欲しい。
一度抱けば気が済むだろうと、どこかで甘く考えていた。
とんでもない。さらに想いは深くなり、さらに奥へと突き進みたくなる。
峰子の告白が、燃える欲望に油を注いでいた。
(あの子は、俺の好きな色を知っていた)
彼女にはまだしっくりこない、煽情的なデザインの下着。慧一のために背伸びして選んだのだ。いじらしい気持ちが彼の心を鷲掴みにして離さない。
(まったく、本当に、どういうつもりなんだ)
慧一は考える。
峰子は男を教えて欲しいと言った。その相手が、なぜ俺なのか。
結局、はっきりとは聞けなかった。
顔や姿、スーツの似合う外見に関心があるだけで、俺自身を求めたわけではない。そんな答えが返るのを恐れ、訊こうと思わなかった。
だが、何となくそれも違うような気がする。
(希望的観測だが、俺自身にも好意を抱いていると、そんな気がする。でなきゃ、わざわざ好きな色を知ってますなんて言わないだろ)
慧一は悶々とした。いろいろ考えてみるが、どれもこれも推測の域を出ない。
「俺をどうしようってんだ」
慧一は峰子を恨めしく思った。
彼は翻弄されている。
自分よりずっと年下の、少女のような面差しの峰子に、押されたり引かれたり、さんざん振り回されている。
しかし、恨めしく思いながらも、その何百倍も何千倍も可愛いくて、好きで堪らないのだから仕方ない。
彼女との約束は、あと八回。
「八回で、あっさり棄てられるのか俺は」
女に棄てられる不安を持つなど初めてだ。情けない。
だけど――
今この時、峰子も眠れぬ夜を過ごしているのを慧一は知らない。
この先二人がどこへ向かうのか分からず、ただ焦燥感に苛まれ、途方に暮れるしかなかった。
時計を見れば日付が変わろうとしている。
峰子が帰り際に寄越した紙袋には、『モース』の既刊本9冊が入っていた。薄い本だが、まとめて手に取ると結構なボリュームだ。
これらは以前、目を通したことがある。京子も交えて三人で食事をしたあの日だ。
しっかり読みたいところだが、今夜は遅いのでやめておく。
とりあえずぱらぱらとめくって、挿絵だけは眺めておいた。
どれもこれも、慧一と真介にそっくりな男二人の絡み合いで、苦笑するほかない。
「そろそろ寝るか」
明かりを消してベッドに入ったものの、慧一はなかなか眠れない。
正直、眠るどころではなかった。
「おっ、そういえば」
慧一はふと、峰子がくれた“今夜の記念” を思い出す。
がばりと起き上がると、部屋の明かりをつけてベッドから下り、かもいに吊るしたスーツのポケットからそれを取り出した。
黒いナイロン製の小袋だ。何か、硬いものが入っている。
金のシールを取り、封を開けた。
「これは、タイタック?」
ネクタイを留めるアクセサリーである。
スーツフェチの峰子らしい贈り物だと思いながら、リーフ型の細工をためつすがめつした。
(ラペルピンにも興味深げだったし、スーツ小物をコレクションしてるのかもな)
それにしても、この鋸歯状の葉っぱの形には見覚えがある。
「ひょっとして……クヌギ?」
社員食堂の窓辺に揺れる緑を思い浮かべる。
そういえば、峰子も窓辺の席で昼食をとっていた。もしかしたら、彼女もクヌギを気に入っているのかもしれない。
慧一はタイタックをもとどおり小袋に入れると、大事そうに箪笥の引き出しに仕舞った。
「今夜の記念、か……」
ベッドに仰向けに倒れ、目を閉じた。瞼の裏に、彼女の姿が現れる。
「はあっ」
ため息が漏れた。
彼女の裸身を、どうしても思い出してしまう。
峰子は処女だった。
しかし彼は、自分自身が処女であるかのように錯覚した。
初めての経験は、誰だって怖い。
愛しい、可愛い、こんな女が存在したなんて――
慧一は再び起き上がると、ベッドの上で胡坐をかいた。
「もう駄目だ」
峰子がもっと欲しい。
一度抱けば気が済むだろうと、どこかで甘く考えていた。
とんでもない。さらに想いは深くなり、さらに奥へと突き進みたくなる。
峰子の告白が、燃える欲望に油を注いでいた。
(あの子は、俺の好きな色を知っていた)
彼女にはまだしっくりこない、煽情的なデザインの下着。慧一のために背伸びして選んだのだ。いじらしい気持ちが彼の心を鷲掴みにして離さない。
(まったく、本当に、どういうつもりなんだ)
慧一は考える。
峰子は男を教えて欲しいと言った。その相手が、なぜ俺なのか。
結局、はっきりとは聞けなかった。
顔や姿、スーツの似合う外見に関心があるだけで、俺自身を求めたわけではない。そんな答えが返るのを恐れ、訊こうと思わなかった。
だが、何となくそれも違うような気がする。
(希望的観測だが、俺自身にも好意を抱いていると、そんな気がする。でなきゃ、わざわざ好きな色を知ってますなんて言わないだろ)
慧一は悶々とした。いろいろ考えてみるが、どれもこれも推測の域を出ない。
「俺をどうしようってんだ」
慧一は峰子を恨めしく思った。
彼は翻弄されている。
自分よりずっと年下の、少女のような面差しの峰子に、押されたり引かれたり、さんざん振り回されている。
しかし、恨めしく思いながらも、その何百倍も何千倍も可愛いくて、好きで堪らないのだから仕方ない。
彼女との約束は、あと八回。
「八回で、あっさり棄てられるのか俺は」
女に棄てられる不安を持つなど初めてだ。情けない。
だけど――
今この時、峰子も眠れぬ夜を過ごしているのを慧一は知らない。
この先二人がどこへ向かうのか分からず、ただ焦燥感に苛まれ、途方に暮れるしかなかった。
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