モース10

藤谷 郁

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眠れぬ夜

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 峰子はホテルでシャワーを浴びる時、ボディソープを使わなかった。

 家族に悟られたくなかった。

 あんなこと。

 あんな、凄いこと。



「慧一さん……」


 自室のベッドで仰向けになり、初めての男の名を口にした。


「ケイ……」


 今度は、本当に好きだと思う男の名を呟いてみる。


 好きな色は紫――


 峰子は昨日、デパートのランジェリーショップで下着を買った。

 普段は身に着けることのない大人びたデザイン。繊細なレースが女性の美しさを演出する、ブラとショーツのセット。

 紫を選んだのは初めてだった。

 ホテルのレストランで食事をしようと、慧一に誘われた瞬間、予感がした。

 それなのに、なぜか断ることができなかった。

 滝口慧一という男に対する好奇心が、冷静な判断を狂わせたのかもしれない。

 でも、大丈夫だと思った。
 滝口慧一はケイの原型。ケイに抱かれると思えばいいのだ。

 怖くない。

 そう、滝口さんなら……ケイみたいに。

 ケイへの恋慕が彼女に冒険をさせた。

 頬を染めながら、頭の冷めた部分で峰子は考える。

 他者と密接な関係になるのが苦手で、基本は一人で生きてきた。友達はいるけれど、同じタイプの子がほとんど。

 束縛をしない、されない。そんな淡白な関係。

 同性とでさえこれだから、男の人と付き合うなんて絶対にできない。ましてや結婚なんてしがらみだらけだろう。考えただけでぞっとする。できない。


(滝口さんの写真を見ながら思った。この人も私と同じではないか。そんな目をしている。風のように自由に生きる。その意味では滝口さんは特別な存在だ。男性として、すごく魅力的だと思う。だから、彼からケイをイメージした)


 モースを書き続けるうち、峰子はいつの間にか、深くケイにのめり込んでいた。


(自分の描くキャラクターにはまるって、珍しくないよね? 私の大切なケイ)


 海辺のコンビニ駐車場で、慧一にキスされそうになった時、峰子は驚いて拒絶した。しかし、すぐに身の内から湧き上がってきたのだ。


 好奇心が――


(ケイの原型である滝口さんとなら、キスしたり……セックスしても……大丈夫かもしれない。恋人のように付き合っても、平気かもしれない)


 ケイへの想いと、滝口慧一という男性への好奇心から、峰子は未知なる領域へと足を踏み入れる。


(ケイが大好きだから、いいと思った。でも……)


 峰子はタオルケットを抱きしめ、今夜あったことを順番に思い出す。

 慧一は完璧だった。

 ネイビーのストライプスーツに身を包んだ彼は、完璧に “モース” のケイ。

 美しい顔、こなれた仕草、そして……スーツを脱いだ肉体の逞しさまで、彼女が一途に思い描いた、シンを愛の虜にする最高の男、ケイだった。

 そして食事の後、二人は――


(滝口さんって、真剣になるとすごく男っぽい顔になるんだ……きれいなのに、男くさいっていうか……)


 まさにケイそのもの。
 思わずうっとりと見惚れてしまう。

 だけど、峰子はいざとなって怖気づいた。

 男同士の愛欲場面を一生懸命描いてきたが、そこには第三者としての余裕がある。でも、今夜は違う。他の誰でもない自分自身が、欲望の対象なのだ。

 ある程度の手順は、ぼんやりと思い描いていた。多少の知識もある。

 だけど実際のそれは、峰子の想像とかなり違っていた。

 慧一が上手なのかどうかまったく分からないけど、彼の情熱は困惑するほど伝わってきた。

 この人は、私を本当に愛しているのかもしれない。

 そう勘違いしそうなほどに。

 慧一の身体は強くて、しなやかで、美しい。

 あまりにも理想的すぎて、でもリアルすぎて、途中から、あの人が慧一なのかケイなのか、判らなくなった。

 峰子は混乱のるつぼに落ちた。



 終わったあと、彼は嘘のように穏やかな表情になり、優しく峰子の髪を撫で、それから抱きすくめ、何か話したそうだった。

 だが峰子は睦言を拒否してベッドを出ると、バスルームに駆け込んだ。

 いっぱいいっぱいだった。

 驚いて、恥ずかしくて、どうしようもなくて、初めて密接な関係を持った男性から逃げ出した。


 帰りのエレベーターの中で感想を訊かれたけれど、とても言い表せなかった。

 あんな凄いこと――

 その後、慧一は家まで送ってくれた。

 母親に手土産を渡し、きちんと挨拶をする彼を見ながら、心に何か、これまでにない感情があるのに気付いた。

「滝口さん」ではなく、「慧一さん」と呼びたい。また、彼を喜ばせたいという積極的な気持ちが湧き上がり、落ち着きを失くした。

 だから、あんなことを口にしたのだ。


 好きな色は紫ーー


 今夜の下着は、あなたのために選んだのだと告白したようなものだ。

 そもそもケイのためだったのに。

 峰子の中で、慧一とケイはいまや一体化している。


「ああ……」


 峰子は寝返りを繰り返す。
 女心は千々に乱れた。ベッドの上で気持ちが変わるなんて、不純だ。


「ケイと、慧一……」


 眠れない。

 スタンドの灯りをつけて、ベッドの上で正座する。エアコンの温度を下げるが、身体中が火照って熱い。

 ホテルでは、ボディソープの匂いをさせたくなくて、シャワーだけ浴びてきた。

 今夜のことを家族……特に、母親に勘付かれたらもうおしまいだ。

 鍵付きの引き出しに入った大量の女性向け同人誌を発見されるのと同じぐらいにまずい。破滅的な衝撃を与えるだろう!


(真面目一筋、地道に生きている私の家族。父と、母と、弟。彼らの中で、私は異端児なのかもしれない)


 峰子は座り直し、膝を抱えた。そしてまた、あれこれと考える。

 帰宅してからあらためて風呂に入り、シャンプーで髪を洗い、石鹸で身体を洗った。

 峰子はパジャマの袖をまくると、腕に鼻をくっつけてクンクンと嗅いでみた。いつもどおり、家の石鹸の香りがする。

 慧一は、微かな汗の匂いがした。
 男の人の汗の匂いなんて好きじゃないのに、なぜだか頭の芯がくらくらした。

 ああいうのをフェロモンと呼ぶのだろうか。

 峰子の生理に作用する特別な匂いを、慧一は持っているというのだろうか。


「ああっ、もう私、絶対に変……っ」


 ベッドに突っ伏した。

 瞼の裏に、ケイが浮かぶ。

 今夜デートしたのは慧一なのかケイなのか、彼女自身も判然としない。

 だけどやがて観念する。

 結局一晩中、慧一のことをグルグル考え続けて、峰子は眠れなかった。



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