モース10

藤谷 郁

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紫の意味

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 楽しい――



 ホテルの敷地を出て、車は海岸沿いを走り始めた。

 夜中の道は空いている。

 慧一はスピードを抑えていたが、突如としてすっ飛ばしたい衝動に駆られた。


 いいじゃないか。

 何て素晴らしい夜なんだ!

 身も心も、これ以上無いくらい俺は満たされている。


 高まる気持ちを抑えながら、慧一は彼女の家に向かってひたすら走る。

 しかし走りながら、段々と現実に足が着いてきて、いつしか生真面目な顔になった。彼は、峰子の両親への挨拶を考え始めていた。



◇ ◇ ◇



 峰子の家は丘を切り開いて区画整理した住宅街にある。

 この前送った時は、彼女を降ろすとすぐに帰ってしまった。だけど今夜は会社の先輩としての責任もある。彼女の家に顔を出すと決めていた。


(あんなことをしておいて、責任もなにも無いけどな)


 慧一は、今夜の思わぬ展開に負い目を感じつつも、まっすぐに前を見る。


(とにかく挨拶だけはするぞ)


 築二十五年になるという三原家の居宅は、木造二階建ての簡素な造りであり、あちこち修繕のあとが見られる。

 周囲を見回せば、この辺りの住宅はどれも皆同じような状態だ。
 同じ頃に一斉に建てられたのだろう。

 慧一は用意しておいた手土産を片手に、峰子の後についてポーチまで上がった。


「少し待っていてくださいね」


 峰子は慧一に言うと、玄関のドアを開けて中に声を掛けた。

 暫く待つと、奥からスリッパの足音が聞こえてきた。


「あら峰子、お帰りなさい。食事会はどうだった、楽しかった?」


 玄関ドアの隙間から、彼女の母親らしき女性の穏やかな声が漏れてくる。


「会社の人に送ってもらったの」

「え? そうなの。まあ! どうも申しわけありません」


 慧一の姿に気付くと母親は恐縮し、頭を何度も下げた。

 きちんとした格好の、品の良さそうな人だ。顔立ちは、峰子とあまり似ていない。

 慧一は峰子に促されて玄関に入った。


「遅くなってしまい、こちらこそ申しわけありません。私は製造課に勤務する滝口慧一と申します」


 母親は改めてお辞儀をすると慧一を見上げ、「あらっ」と、少し驚いた顔になる。


「え?」


 慧一が見返すと、なんでもないと言うように首を横に振った。


「いいえ、ほほ……あの、よろしければお茶でも」

「ありがとうございます。でも今夜はこれで失礼します。あの……これは気持ちだけですけど、皆さんで召し上がって下さい」


 慧一が菓子折りを差し出すと、母親はさらに恐縮するが、遠慮がちに受け取ってくれた。

 どうやら父親は不在らしい。慧一は残念なようなほっとしたような、複雑な気持ちで三原家の玄関を後にした。

 母親が何か言いたげだったのは気になるが、特に失礼は無かったと思う。

 緊張が解けたためか、見送りに出てきた峰子を見て、ふと思い出した。


「そういえば、モースを返すのを忘れてたな」


 車の後部ドアを開けて茶封筒を取り出す。


「はい、大事な本」


 慧一が恭しく手渡すと、峰子もつられたのか丁寧に受け取った。


「あ、ありがとうございます」

「それじゃ、俺はこれで帰るよ」


 車に乗り込もうとすると、峰子が「そうだ……」と、慌てて後戻りをして家に入ってしまった。


「おい?」


 少しすると、バタバタと階段を下りる音が聞こえ、玄関から峰子が勢いよく飛び出してきた。腕に何か抱えている。

 いつになく俊敏な動きに、慧一は目を瞬かせた。


「これ、もしよろしければ……」


 峰子は抱えていたものを差し出す。見ると、デパートの紙袋だ。
 中身は――

 慧一はピンときた。


「例のアレか」

「はい、アレです」


 二人は目を合わせ、クスリと笑う。


「あと、これを」


 峰子は慧一のスーツのポケットに、そっと何かを入れた。


「ん?」

「今夜の記念に」

「記念?」

「はい。あの、後で見てください」


 俯いた顔が、少し赤らんでいるのが分かった。


「……ま、何だか知らないが貰っておくよ。サンキュ」


 車に乗るとエンジンをかけ、窓を開けた。

 峰子は腰をかがめて覗き込み、「おやすみなさい」と、小さく囁いた。


「ああ、おやすみ」

「……」


 なぜか車のそばを離れず、慧一の顔をじっと見つめている。


「どうした?」

「慧一さん」

「うん」


 下の名前で呼ばれ、慧一は微かに眉を動かすが自然に返事する。


「会社の広報誌の、新入社員紹介のページに、書いてあったんです」

「え?」

「好きな色は紫だって」

「……」


 峰子はそっと車から離れると、ぺこりと頭を下げて、そのまま走って玄関に入ってしまった。


(なんだ?)


 慧一は不思議顔で車を走らせながら、ハッと思い出した。

 新入社員紹介のページ――

 以前、広報誌のアンケートで、好きな色は紫と書いた記憶がある。

 紫は今でも一番好きな色だ。


「紫、紫って……ああっ!」


 慧一は叫んだ。

 ホテルでの、彼女との一場面を頭に浮かべる。

 峰子が身に着けていた下着が、紫だった。彼女にしては大人びた、セクシーなデザインなので、ちょっと驚いたのだ。

 慧一の全身は魔法をかけられたように、カーッと熱くなる。


 いきなり何を言い出すんだ!

 純情なのか大胆なのか、本当はどっちなんだ。

 エキセントリックにもほどがあるだろ。



「まったく、敵わないぜ……」


 慧一は劣情を刺激され、男心をかき乱され、またしても振り回される。

 車の中、峰子の残り香を感じながら、独り蕩けそうになった。
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