モース10

藤谷 郁

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夜へ

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 ペリエで喉を潤すと、峰子はグラスを置いて、慧一の姿をそっと窺ってくる。

 まぶしそうな目つきをして、ほんのりと頬を染めて。


「どうした?」


 まさか炭酸水で酔ったんじゃないだろうな。慧一は、峰子のグラスに目を当てた。


「スーツはオーダーメイドですね。すごく仕立てがいい。色もきれいで、本当に素敵」


 うっとりとした口調に、慧一は苦笑を浮かべる。


「おい、スーツだけ誉めるのか。俺はどうなんだよ」

「あ、もちろん滝口さんが着ているからこそ素敵で、カッコイイと思ってます。それに私、ストライプって好きなんです。着こなすのが難しいのに、センスがいいなって」

「ふうん、そう?」


 峰子の瞳はキラキラと輝く。まんざらお世辞でもないらしい。

「それと、いいですね、それ」


 峰子は慧一の左胸に注目した。

 上着の襟にラペルピンが飾ってある。太陽をモチーフにした、洒落たデザインのアクセサリーだ。


「ああ、これか。弟がハネムーンの土産にくれたんだ。真っ赤なルビーが俺のイメージなんだと。熱い男って意味かな」


 慧一はピンをはずすと、峰子に渡した。


「きれいですね。本当に燃えてるみたい」


 峰子はためつすがめつして、さまざまな角度からピンのデザインを堪能する。

 慧一は窓をちらりと見やった。
 陽が落ちて、景色はすっかり夜の中。沖を眺めれば、漁火が揺れている。


「どんどん食べろよ。足りなければ追加してもいいんだぞ」


 慧一は峰子に向き直り、彼女の小皿に、夏野菜と魚介のマリネを取り分けた。


「あっ、すみません」


 峰子は恐縮し、ぺこりと頭を下げる。


 彼女の堅苦しい態度は、デートという雰囲気には程遠い。傍から見れば、上司と部下の食事会といった光景だろう。


(……だんだんと、ほぐしてやらなきゃな。手間がかかるもんだ)


 だが、慧一は苦にならない。かえってウキウキするから不思議だった。

 むしろ楽しくさえあるのは、やはり恋情があるからだろう。

 慧一は考察する。

 子どもの頃、ずっと欲しかった玩具の包装を、わくわくしながら解いた。その気持ちと似ている。

 峰子と玩具。

 並べてみると、実にエロティックな例えである。だけど、それほどまでに、男としての好奇心を刺激されるのだ。


「ふう、汗が出てくる」


 食事の途中、慧一は上着を脱いでワイシャツを腕まくりした。

 峰子がそれを見て、可笑しそうに笑う。


「飯を食うと、体温が上がるんだよ」

「やっぱり熱い人ですね」


 テーブルに置かれたままのラペルピンを目で指す。慧一もぽんと手を打ち、明るく笑った。


「なるほど! 確かに熱い男だ」




 コースが一段落すると、峰子はあらためてラペルピンを手に取り、しげしげと眺めた。よほどアクセサリーが好きなのだろう。


「そういえば、ルビーは七月の誕生石じゃないか」


 慧一が何となく口にすると、峰子は目をみはった。


「はい、そのとおりです。すごい、よくご存知ですね」


 そういえば峰子はアクセサリーだけでなく、鉱物ファンだった。慧一も好きな分野なので、誕生石の知識がある。


 料理を楽しみながら、慧一はその方面へと話を向ける。彼女をリラックスさせるには、かっこうの話題だ。


「俺は五月だから、エメラルドか」

「そうです、そうです。あの、五月の何日ですか?」

「二十九日」

「あっ、私と同じですね」

「そうだな」


 こういった偶然に運命を感じる女性は多い。

 峰子もそうならありがたい。単なる偶然をロマンスに結び付けてくれるよう、慧一は願った。


「えっと、五月二十九日の誕生石は……何だったかしら」

「ん? 誕生石って月だけじゃないのか」

「日にちにも誕生石があります。事典を持ってるので、今度調べておきますね」


 さしもの峰子も366日分の誕生石は暗記していないらしい。


(女の子って、誕生石だの、誕生花だの、象徴的なアイテムが好きだよなぁ。無邪気なもんだ)


「ああ、頼むよ。楽しみにしてる」


 慧一は微笑ましくなり、嬉しそうな彼女に調査を依頼した。



 しばらくすると、次の皿が運ばれてきた。峰子はナイフとフォークを手に、意気込んだ顔になる。

 峰子の好物は肉料理らしいが、魚介もいけそうだ。野菜も、もりもり食べている。

 要するに好き嫌いがない。

 食欲旺盛なところも、慧一には好ましく映った。


 二人の相性は、かなり良いのではないか――そんな予感がして、悦びが湧き上がる。


「どの料理も新鮮で、美味しいです」


 峰子の笑顔を見て、慧一は微かに動揺した。

 差し向かいで食事する男が、どんな目で自分を見ているのか知りもせず、彼女は無邪気に笑う。

 ついこの間まで十代だった女の子に、慧一は何も言えず、ただ微笑を返すのみだった。



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