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峰子の望み
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慧一はフロントでチェックインを済ませ、それから峰子を伴いエレベーターに乗った。これから、九階の和食レストランへと向かうのだ。
ガラス張りの外、目の前に広がるのは太平洋。
雄大な光景を、二人は無言で見つめた。
慧一には、まるで現実感が無かった。
峰子が口にした言葉の意味も分かりかねている。
(この子は一体、何を考えてるんだ?)
彼女の言葉に度肝を抜かれた。
現状の何もかもを引っ繰り返すような、エキセントリックな発言だった。
ガラス張りの景色は、七階辺りでコンクリートの壁に変わった。
暗い壁はスマートフォンの真っ黒な画面を想起させる。
慧一との通話を未練なく切ってしまう峰子。その後に残る暗い闇。
(どういうつもりなんだ)
エレベーターが九階に到着し、扉が開く。
レストランが入るフロアは通路の片側がガラス張りになっており、海が見渡せる。
通路にはなぜか人影がなく、波の音が聞こえてきそうなほど静かだ。
その中に立つ男女も、押し黙っている。
これからのことを意識するあまり、何を言えば良いの分からず、考えることも出来ない。そんな緊張感が、二人の間を漂う。
慧一が先に立ち、硬い表情のまま歩きだした。すると、峰子も慌てて付いてきて隣に並ぶ。
予約した店は通路の奥にある。二人黙って歩いていると、手前の中華レストランから一組の親子連れが出てきた。子どもは小学生と思しき姉弟である。
慧一は男の子を見て、ふと、弟が小学生だった頃を思い出す。
地元の子かもしれない。海で毎日泳ぎまくっているのか、よく日焼けしている。そのやんちゃそうな様子に、思わず笑みを浮かべた。
男の子は視線に気付いたのか、慧一の顔をじっと見ながら通り過ぎて行く。そして、エレベーターに家族で乗り込んだとたん、はっきりと言い放ったのだ。
「今のイケメン、エッチぽくね?」
静かなフロアに、子どもの甲高い声が大きく響く。
慧一と峰子が思わず振り返ると、今しも扉が閉まるところだ。父母がばつが悪そうに頭を下げるのが見えた。男の子は姉に口を押さえられ、もがいている。
エレベーターの扉が閉まると、フロアは元どおり静かになった。その代わり、峰子がクスクスと笑う声が、妙に明るく響いた。
「まったく子どもってのは……峰子、何笑ってるんだよ」
慧一はすっかり肩の力が抜けて、いつもの口調で彼女を咎めた。
「す、すみません」
峰子は目尻を拭うと、笑うのを止めて真顔になる。
それから、スーツ姿の慧一を見上げ、まっすぐに伝えた。
「でも、イケメンは本当ですよ。そのスーツも……よく似合って、素敵です」
夕映えの海を背景に、二つのシルエットが向かい合う。
慧一は、今初めて峰子をしっかりと捉えた気がした。
惚れた女がすぐ目の前にいる。
ワンピースを透かし、彼女の肢体が鮮やかに現れる。そのほっそりとしたラインを、満たされた気持ちで眺めた。
(ボウズ、俺はエッチぽいんじゃない。ドスケベなんだ)
慧一の瞳に欲情の色が差すのを、峰子は知ってか知らずか、はにかんだ笑みを浮かべる。
心底可愛いと感じる、きれいな微笑みだ。
(何も考える必要はない。俺は今夜、惚れた女と一つになれる。この子が俺をどう思っているのか、どういうつもりかなんて、そんなのは後回しだ。望みどおり、男を教えてやるよ)
峰子の手を取り、二人きりの世界へ悠々と進んだ。
「やっと調子がついてきたぞ」
慧一は店員からメニューを受け取ると、飲み物のリストから目を通した。ワイン・ビール・日本酒・カクテル……何でもありだ。
峰子をちらりと見て、泊まるならアルコールでも構わないか――と、少し考えた。
「今夜のことは家の人に言ってある?」
峰子は窓の景色から視線を戻すと、こくりと頷く。
「はい。会社の人と食事すると、言ってきました」
「そうか」
慧一は飲み物のリストを峰子に渡した。
「何でも頼むといいよ」
イタリアンやフレンチも好きだが、今夜はさっぱりとした和食を選んだ。
このレストランはさほど気取った店ではないが、味は最高級。地元の漁港で水揚げされた魚介類を使い、素材を生かした創作料理を出してくれる。
とにかく新鮮で、旨いのだ。
ロケーションが良く、ホテルという場所だけに値は張るが、慧一は気に入っている。
「私、炭酸水にします」
峰子が返すメニューを受け取りながら、慧一は「やっぱりな」と思う。
「アルコールは苦手?」
「はい。あの……ハタチになったばかりなので」
「へえ、誕生日はいつ?」
「七月二十九日です」
「本当に最近だな。そうか……七月ね」
店員が来ると、慧一はペリエと、グラスを二つ頼む。それから、本日のおすすめ料理を適当に選んだ。
(泊まりなら日本酒といきたいが、朝帰りをさせるわけにはいかない)
慧一は慎重だった。ここへきて、峰子の両親を意識している。
責任とか信用とか、およそ色気とは程遠い言葉が頭にちらつく。こんなことは初めてであり、俺は本当に本気なのだと、己の気持ちを自覚した。
飲み物が注がれたグラスを手に、峰子は乾杯の仕草をした。
「何に乾杯するんだ?」
慧一も同じようにグラスを掲げ、からかうように訊ねる。
「そうですね……」
峰子は少し考えてから、明るく答えた。
「初めてのデートに、乾杯です」
「そうだな、今夜は初めてづくしだよ」
「え?」
「なんでもない。乾杯だ」
様々な意味を込めたのだが、今はいい。
慧一はグラスを傾け、透明で爽やかな液体を、渇いた喉に流し込んだ。
ガラス張りの外、目の前に広がるのは太平洋。
雄大な光景を、二人は無言で見つめた。
慧一には、まるで現実感が無かった。
峰子が口にした言葉の意味も分かりかねている。
(この子は一体、何を考えてるんだ?)
彼女の言葉に度肝を抜かれた。
現状の何もかもを引っ繰り返すような、エキセントリックな発言だった。
ガラス張りの景色は、七階辺りでコンクリートの壁に変わった。
暗い壁はスマートフォンの真っ黒な画面を想起させる。
慧一との通話を未練なく切ってしまう峰子。その後に残る暗い闇。
(どういうつもりなんだ)
エレベーターが九階に到着し、扉が開く。
レストランが入るフロアは通路の片側がガラス張りになっており、海が見渡せる。
通路にはなぜか人影がなく、波の音が聞こえてきそうなほど静かだ。
その中に立つ男女も、押し黙っている。
これからのことを意識するあまり、何を言えば良いの分からず、考えることも出来ない。そんな緊張感が、二人の間を漂う。
慧一が先に立ち、硬い表情のまま歩きだした。すると、峰子も慌てて付いてきて隣に並ぶ。
予約した店は通路の奥にある。二人黙って歩いていると、手前の中華レストランから一組の親子連れが出てきた。子どもは小学生と思しき姉弟である。
慧一は男の子を見て、ふと、弟が小学生だった頃を思い出す。
地元の子かもしれない。海で毎日泳ぎまくっているのか、よく日焼けしている。そのやんちゃそうな様子に、思わず笑みを浮かべた。
男の子は視線に気付いたのか、慧一の顔をじっと見ながら通り過ぎて行く。そして、エレベーターに家族で乗り込んだとたん、はっきりと言い放ったのだ。
「今のイケメン、エッチぽくね?」
静かなフロアに、子どもの甲高い声が大きく響く。
慧一と峰子が思わず振り返ると、今しも扉が閉まるところだ。父母がばつが悪そうに頭を下げるのが見えた。男の子は姉に口を押さえられ、もがいている。
エレベーターの扉が閉まると、フロアは元どおり静かになった。その代わり、峰子がクスクスと笑う声が、妙に明るく響いた。
「まったく子どもってのは……峰子、何笑ってるんだよ」
慧一はすっかり肩の力が抜けて、いつもの口調で彼女を咎めた。
「す、すみません」
峰子は目尻を拭うと、笑うのを止めて真顔になる。
それから、スーツ姿の慧一を見上げ、まっすぐに伝えた。
「でも、イケメンは本当ですよ。そのスーツも……よく似合って、素敵です」
夕映えの海を背景に、二つのシルエットが向かい合う。
慧一は、今初めて峰子をしっかりと捉えた気がした。
惚れた女がすぐ目の前にいる。
ワンピースを透かし、彼女の肢体が鮮やかに現れる。そのほっそりとしたラインを、満たされた気持ちで眺めた。
(ボウズ、俺はエッチぽいんじゃない。ドスケベなんだ)
慧一の瞳に欲情の色が差すのを、峰子は知ってか知らずか、はにかんだ笑みを浮かべる。
心底可愛いと感じる、きれいな微笑みだ。
(何も考える必要はない。俺は今夜、惚れた女と一つになれる。この子が俺をどう思っているのか、どういうつもりかなんて、そんなのは後回しだ。望みどおり、男を教えてやるよ)
峰子の手を取り、二人きりの世界へ悠々と進んだ。
「やっと調子がついてきたぞ」
慧一は店員からメニューを受け取ると、飲み物のリストから目を通した。ワイン・ビール・日本酒・カクテル……何でもありだ。
峰子をちらりと見て、泊まるならアルコールでも構わないか――と、少し考えた。
「今夜のことは家の人に言ってある?」
峰子は窓の景色から視線を戻すと、こくりと頷く。
「はい。会社の人と食事すると、言ってきました」
「そうか」
慧一は飲み物のリストを峰子に渡した。
「何でも頼むといいよ」
イタリアンやフレンチも好きだが、今夜はさっぱりとした和食を選んだ。
このレストランはさほど気取った店ではないが、味は最高級。地元の漁港で水揚げされた魚介類を使い、素材を生かした創作料理を出してくれる。
とにかく新鮮で、旨いのだ。
ロケーションが良く、ホテルという場所だけに値は張るが、慧一は気に入っている。
「私、炭酸水にします」
峰子が返すメニューを受け取りながら、慧一は「やっぱりな」と思う。
「アルコールは苦手?」
「はい。あの……ハタチになったばかりなので」
「へえ、誕生日はいつ?」
「七月二十九日です」
「本当に最近だな。そうか……七月ね」
店員が来ると、慧一はペリエと、グラスを二つ頼む。それから、本日のおすすめ料理を適当に選んだ。
(泊まりなら日本酒といきたいが、朝帰りをさせるわけにはいかない)
慧一は慎重だった。ここへきて、峰子の両親を意識している。
責任とか信用とか、およそ色気とは程遠い言葉が頭にちらつく。こんなことは初めてであり、俺は本当に本気なのだと、己の気持ちを自覚した。
飲み物が注がれたグラスを手に、峰子は乾杯の仕草をした。
「何に乾杯するんだ?」
慧一も同じようにグラスを掲げ、からかうように訊ねる。
「そうですね……」
峰子は少し考えてから、明るく答えた。
「初めてのデートに、乾杯です」
「そうだな、今夜は初めてづくしだよ」
「え?」
「なんでもない。乾杯だ」
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慧一はグラスを傾け、透明で爽やかな液体を、渇いた喉に流し込んだ。
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