モース10

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
37 / 82
峰子の望み

しおりを挟む
 慧一はフロントでチェックインを済ませ、それから峰子を伴いエレベーターに乗った。これから、九階の和食レストランへと向かうのだ。

 ガラス張りの外、目の前に広がるのは太平洋。

 雄大な光景を、二人は無言で見つめた。


 慧一には、まるで現実感が無かった。

 峰子が口にした言葉の意味も分かりかねている。


(この子は一体、何を考えてるんだ?)


 彼女の言葉に度肝を抜かれた。
 現状の何もかもを引っ繰り返すような、エキセントリックな発言だった。

 ガラス張りの景色は、七階辺りでコンクリートの壁に変わった。

 暗い壁はスマートフォンの真っ黒な画面を想起させる。

 慧一との通話を未練なく切ってしまう峰子。その後に残る暗い闇。


(どういうつもりなんだ)


 エレベーターが九階に到着し、扉が開く。

 レストランが入るフロアは通路の片側がガラス張りになっており、海が見渡せる。

 通路にはなぜか人影がなく、波の音が聞こえてきそうなほど静かだ。

 その中に立つ男女も、押し黙っている。

 これからのことを意識するあまり、何を言えば良いの分からず、考えることも出来ない。そんな緊張感が、二人の間を漂う。

 慧一が先に立ち、硬い表情のまま歩きだした。すると、峰子も慌てて付いてきて隣に並ぶ。

 予約した店は通路の奥にある。二人黙って歩いていると、手前の中華レストランから一組の親子連れが出てきた。子どもは小学生と思しき姉弟である。

 慧一は男の子を見て、ふと、弟が小学生だった頃を思い出す。

 地元の子かもしれない。海で毎日泳ぎまくっているのか、よく日焼けしている。そのやんちゃそうな様子に、思わず笑みを浮かべた。

 男の子は視線に気付いたのか、慧一の顔をじっと見ながら通り過ぎて行く。そして、エレベーターに家族で乗り込んだとたん、はっきりと言い放ったのだ。


「今のイケメン、エッチぽくね?」


 静かなフロアに、子どもの甲高い声が大きく響く。

 慧一と峰子が思わず振り返ると、今しも扉が閉まるところだ。父母がばつが悪そうに頭を下げるのが見えた。男の子は姉に口を押さえられ、もがいている。

 エレベーターの扉が閉まると、フロアは元どおり静かになった。その代わり、峰子がクスクスと笑う声が、妙に明るく響いた。


「まったく子どもってのは……峰子、何笑ってるんだよ」


 慧一はすっかり肩の力が抜けて、いつもの口調で彼女を咎めた。


「す、すみません」


 峰子は目尻を拭うと、笑うのを止めて真顔になる。

 それから、スーツ姿の慧一を見上げ、まっすぐに伝えた。


「でも、イケメンは本当ですよ。そのスーツも……よく似合って、素敵です」


 夕映えの海を背景に、二つのシルエットが向かい合う。

 慧一は、今初めて峰子をしっかりと捉えた気がした。

 惚れた女がすぐ目の前にいる。

 ワンピースを透かし、彼女の肢体が鮮やかに現れる。そのほっそりとしたラインを、満たされた気持ちで眺めた。


(ボウズ、俺はエッチぽいんじゃない。ドスケベなんだ)


 慧一の瞳に欲情の色が差すのを、峰子は知ってか知らずか、はにかんだ笑みを浮かべる。

 心底可愛いと感じる、きれいな微笑みだ。


(何も考える必要はない。俺は今夜、惚れた女と一つになれる。この子が俺をどう思っているのか、どういうつもりかなんて、そんなのは後回しだ。望みどおり、男を教えてやるよ)


 峰子の手を取り、二人きりの世界へ悠々と進んだ。





「やっと調子がついてきたぞ」


 慧一は店員からメニューを受け取ると、飲み物のリストから目を通した。ワイン・ビール・日本酒・カクテル……何でもありだ。

 峰子をちらりと見て、泊まるならアルコールでも構わないか――と、少し考えた。


「今夜のことは家の人に言ってある?」


 峰子は窓の景色から視線を戻すと、こくりと頷く。


「はい。会社の人と食事すると、言ってきました」

「そうか」


 慧一は飲み物のリストを峰子に渡した。


「何でも頼むといいよ」


 イタリアンやフレンチも好きだが、今夜はさっぱりとした和食を選んだ。

 このレストランはさほど気取った店ではないが、味は最高級。地元の漁港で水揚げされた魚介類を使い、素材を生かした創作料理を出してくれる。

 とにかく新鮮で、旨いのだ。

 ロケーションが良く、ホテルという場所だけに値は張るが、慧一は気に入っている。


「私、炭酸水にします」


 峰子が返すメニューを受け取りながら、慧一は「やっぱりな」と思う。


「アルコールは苦手?」

「はい。あの……ハタチになったばかりなので」

「へえ、誕生日はいつ?」

「七月二十九日です」

「本当に最近だな。そうか……七月ね」


 店員が来ると、慧一はペリエと、グラスを二つ頼む。それから、本日のおすすめ料理を適当に選んだ。


(泊まりなら日本酒といきたいが、朝帰りをさせるわけにはいかない)


 慧一は慎重だった。ここへきて、峰子の両親を意識している。

 責任とか信用とか、およそ色気とは程遠い言葉が頭にちらつく。こんなことは初めてであり、俺は本当に本気なのだと、己の気持ちを自覚した。

 飲み物が注がれたグラスを手に、峰子は乾杯の仕草をした。


「何に乾杯するんだ?」


 慧一も同じようにグラスを掲げ、からかうように訊ねる。


「そうですね……」


 峰子は少し考えてから、明るく答えた。


「初めてのデートに、乾杯です」

「そうだな、今夜は初めてづくしだよ」

「え?」

「なんでもない。乾杯だ」


 様々な意味を込めたのだが、今はいい。

 慧一はグラスを傾け、透明で爽やかな液体を、渇いた喉に流し込んだ。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ホリカヨは俺様上司を癒したい!

森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。 そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。 『郡司部長、私はあなたを癒したいです』 ※他の投稿サイトにも載せています。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

そこは優しい悪魔の腕の中

真木
恋愛
極道の義兄に引き取られ、守られて育った遥花。檻のような愛情に囲まれていても、彼女は恋をしてしまった。悪いひとたちだけの、恋物語。

トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~

日暮ミミ♪
恋愛
大財閥〈篠沢(しのざわ)グループ〉本社・篠沢商事に勤める25歳の桐島貢(きりしまみつぐ)。 彼は秋のある夜、上司の代理で出席した会社のパーティーで、会長令嬢で高校2年生の篠沢絢乃(しのざわあやの)に一目惚れ。 その三ヶ月後、会長・篠沢源一が末期ガンでこの世を去る。 葬儀の日、父の遺言により会長の後継者となった絢乃を支えるべく、秘書室へ転属する旨を彼女に伝える。 絢乃は無事、会長に就任。会長付秘書として働くことになった貢はある日、会社帰りの愛車の中で絢乃に衝動的にキスをしてしまい――!? 草食系男子の年上秘書×キュートな10代の大企業総帥による、年の差オフィスラブストーリーのヒーローサイド。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

処理中です...