モース10

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
36 / 82
峰子の望み

しおりを挟む
 海沿いのホテルまでの距離は、車で二十分ほど。

 慧一は信号に引っ掛かるたび、峰子のほうを何気なく見やった。

 やはり後部席と助手席では存在感がまったく違う。とにかく距離が近い。すぐそばに彼女の横顔、そして身体がある。

 女性を隣に乗せるのはもちろん初めてではない。それどころか、今までの相手なら気軽に手を握ったり、調子に乗って肩を抱いたりした。

 しかし峰子に対しては何気なく盗み見るのがせいぜいで、満足に話すらできない。

 堅苦しくてしょうがない。

 慧一にはこの至近距離が、嬉しいと同時に窮屈だった。峰子のほうも緊張しているのか、視線がぶつかると曖昧に笑い、すぐに前を向いてしまう。


(困ったもんだ)


 ただ慧一には、峰子のはにかむ表情が新鮮だった。これまで、困惑の顔ばかり見てきたから。


(うん、峰子はどんな表情でもかわいい)


 好きな顔立ちというのが、人それぞれにある。

 朝から晩まで眺めても飽きることがない。うっとりと見惚れ、骨抜きにされる、絶妙な目鼻立ちのバランス。

 日暮らしの顔とでも言うのか。慧一にとって、峰子の顔がまさにそれであった。

 美人というタイプではない。可愛いけれど、芸能人とかモデル並みというわけでもないのに、とても不思議な感覚だ。

 顔立ちばかりではない。

 慧一はどちらかというと肉体――特に、バストが豊かな女性と縁があり、今まで付き合ってきた。自分の体格が良いので、バランスが取れている。そう思い込んでいたのだが、関係なかったようだ。

 なぜなら、峰子のさして大きくも無い(と思われる)胸のあたりが気になって仕方がない。なぜか魅力に感じてしまう。


(手に余るような巨乳より、ずっと愛しいぜ……)


 思わず知らず、熱いため息が漏れる。

 峰子が不思議そうな顔でこちらを見た。スケベ面をしていたのではと慧一は焦り、不自然に頬を引き締める。

 が、峰子はまだじっと見つめている。めずらしく無遠慮な視線だ。頭の中を覗かれたんじゃないかと、本気で心配になってきた。


「滝口さん、変なことをお訊きしますが」


 突然喋りだした峰子にどきっとする。


「何だ」


 ついぶっきら棒になるが、彼女は気にする様子もない。慧一はこんなタイプだと、認識しているのだろう。


「毎日、髭を剃るのですか」

「髭?」

「はい」


 慧一は顎の辺りを撫ぜてみた。別に剃り残しはない。クリームも付けてあるし、ツルツルしている。


「もちろん。どうして?」

「あの、滝口さんって髭が伸びないような気がしたので……すみません」


 声が小さくなり、彼女は気まずそうに下を向いた。


(髭が伸びない? そりゃあどういう意味だ)


 慧一は首を傾げる。


(伸びるに決まってるだろう、男なんだから。つまり、ホルモン的なイメージか? 俺は女のように髭が伸びない……そう思えると、そういう意味で言ったのか?)


 質問の意図が分かり、持ち前のおふざけ精神がムクムクと持ち上がってきた。


(なんて失礼なやつなんだ!)


 だが峰子はいたって真面目であり、だからこそ生まれるおかしさだ。慧一は呆れながらも、楽しくてしょうがない。


(そうか、俺はそんな風に見えるのか。しかしストレートに口に出すとは……)


 海岸線に沿って大きくカーブする道の先に、ホテルが見えてきた。

 建物の前に広がる砂浜はホテルのプライベートビーチだ。こんな時間になっても海水浴を楽しむ男女が散見される。


(それなら、こっちもお返ししてやろう)


 慧一はにやりとした。


「なあ、峰子」

「はい」

「俺の髭が伸びるかどうか、見たいか」

「えっ?」


 車はホテルの地下駐車場に入った。

 狭い空間を慧一の車は器用に進み、スムーズにバック駐車する。

 慧一はエンジンを切り、そしてハンドルに体をもたせかけて、峰子のほうを向いた。


「明日の朝まで付き合えば、確かめられるぜ」


 峰子はきょとんとした。

 まさに、鳩が豆鉄砲を食らった顔だ。

 ますます楽しくなる慧一だが、楽しすぎて、彼はすっかり忘れている。こういった悪ふざけが原因で女性を怒らせ、何度も振られているという、過去の"実績"を。

 それを思い出したのは、峰子の顔がみるみるうちに紅潮し、困惑の表情へと変化してからだった。


(しまった……!)


 慧一は慌てた。

 よりによって相手は峰子だ。この手の冗談が通じるはずもない。


「待て、今のはナシ。ちょっとからかっただけだろ、まともに取るなよ」


 自分でも滑稽に思えるぐらい、大げさに取り繕った。

 だが峰子は赤くなった顔を、さっと背けてしまう。

 慧一は顔色を無くした。

 峰子は沈黙し、耳たぶまで紅く染め、俯いたままバッグの留め金をいじっている。それは慧一にとってほとんど絶望的な、拒絶のポーズだった。


(あれほど焦るなと念じてきたのに、俺はどうしようもないバカヤロウだ!)


 しくじった。これで何もかも台無しである。

 心の底から悔やむが、もう遅い。無言の気まずさが、車の狭い空間を支配していた。


 慧一が唇を噛みしめて途方に暮れていると、峰子が不意に顔を上げ、前を向く。


 もう帰ります――


 そんなことを言われるのを、慧一は覚悟した。


 しょうがない。この先どう挽回するか、もう一度作戦を練り直そう。

 慧一はあきらめ気分でエンジンをかけようとする。

 だがその瞬間、峰子が口を切った。


「私も、それを望んでいました。でも、ごめんなさい。いざとなると、すごく恥ずかしくて……でも決めました。滝口さん」

「……?」


 慧一は返事も出来ない。
 どういう意味なのかまったく理解できず、ただ峰子を見つめる。


「教えてください、男の人を」

「……」


 地下駐車場には海水浴客専用の通路がある。
 水着姿の男女が何組か、慧一の視界をよぎっていく。若いカップル達だ。

 今、峰子が口にしたのは、つまり、あのカップル達が今夜いたそうとする、それと同じ行為を指しているのか。


 ――教えてください、男の人を。


 考えがまとまらないまま、慧一は車を降りた。恥ずかしそうに俯き、頬を染める峰子とともに。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

ホリカヨは俺様上司を癒したい!

森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。 そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。 『郡司部長、私はあなたを癒したいです』 ※他の投稿サイトにも載せています。

そこは優しい悪魔の腕の中

真木
恋愛
極道の義兄に引き取られ、守られて育った遥花。檻のような愛情に囲まれていても、彼女は恋をしてしまった。悪いひとたちだけの、恋物語。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~

伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華 結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空 幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。 割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。 思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。 二人の結婚生活は一体どうなる?

処理中です...