36 / 82
峰子の望み
1
しおりを挟む
海沿いのホテルまでの距離は、車で二十分ほど。
慧一は信号に引っ掛かるたび、峰子のほうを何気なく見やった。
やはり後部席と助手席では存在感がまったく違う。とにかく距離が近い。すぐそばに彼女の横顔、そして身体がある。
女性を隣に乗せるのはもちろん初めてではない。それどころか、今までの相手なら気軽に手を握ったり、調子に乗って肩を抱いたりした。
しかし峰子に対しては何気なく盗み見るのがせいぜいで、満足に話すらできない。
堅苦しくてしょうがない。
慧一にはこの至近距離が、嬉しいと同時に窮屈だった。峰子のほうも緊張しているのか、視線がぶつかると曖昧に笑い、すぐに前を向いてしまう。
(困ったもんだ)
ただ慧一には、峰子のはにかむ表情が新鮮だった。これまで、困惑の顔ばかり見てきたから。
(うん、峰子はどんな表情でもかわいい)
好きな顔立ちというのが、人それぞれにある。
朝から晩まで眺めても飽きることがない。うっとりと見惚れ、骨抜きにされる、絶妙な目鼻立ちのバランス。
日暮らしの顔とでも言うのか。慧一にとって、峰子の顔がまさにそれであった。
美人というタイプではない。可愛いけれど、芸能人とかモデル並みというわけでもないのに、とても不思議な感覚だ。
顔立ちばかりではない。
慧一はどちらかというと肉体――特に、バストが豊かな女性と縁があり、今まで付き合ってきた。自分の体格が良いので、バランスが取れている。そう思い込んでいたのだが、関係なかったようだ。
なぜなら、峰子のさして大きくも無い(と思われる)胸のあたりが気になって仕方がない。なぜか魅力に感じてしまう。
(手に余るような巨乳より、ずっと愛しいぜ……)
思わず知らず、熱いため息が漏れる。
峰子が不思議そうな顔でこちらを見た。スケベ面をしていたのではと慧一は焦り、不自然に頬を引き締める。
が、峰子はまだじっと見つめている。めずらしく無遠慮な視線だ。頭の中を覗かれたんじゃないかと、本気で心配になってきた。
「滝口さん、変なことをお訊きしますが」
突然喋りだした峰子にどきっとする。
「何だ」
ついぶっきら棒になるが、彼女は気にする様子もない。慧一はこんなタイプだと、認識しているのだろう。
「毎日、髭を剃るのですか」
「髭?」
「はい」
慧一は顎の辺りを撫ぜてみた。別に剃り残しはない。クリームも付けてあるし、ツルツルしている。
「もちろん。どうして?」
「あの、滝口さんって髭が伸びないような気がしたので……すみません」
声が小さくなり、彼女は気まずそうに下を向いた。
(髭が伸びない? そりゃあどういう意味だ)
慧一は首を傾げる。
(伸びるに決まってるだろう、男なんだから。つまり、ホルモン的なイメージか? 俺は女のように髭が伸びない……そう思えると、そういう意味で言ったのか?)
質問の意図が分かり、持ち前のおふざけ精神がムクムクと持ち上がってきた。
(なんて失礼なやつなんだ!)
だが峰子はいたって真面目であり、だからこそ生まれるおかしさだ。慧一は呆れながらも、楽しくてしょうがない。
(そうか、俺はそんな風に見えるのか。しかしストレートに口に出すとは……)
海岸線に沿って大きくカーブする道の先に、ホテルが見えてきた。
建物の前に広がる砂浜はホテルのプライベートビーチだ。こんな時間になっても海水浴を楽しむ男女が散見される。
(それなら、こっちもお返ししてやろう)
慧一はにやりとした。
「なあ、峰子」
「はい」
「俺の髭が伸びるかどうか、見たいか」
「えっ?」
車はホテルの地下駐車場に入った。
狭い空間を慧一の車は器用に進み、スムーズにバック駐車する。
慧一はエンジンを切り、そしてハンドルに体をもたせかけて、峰子のほうを向いた。
「明日の朝まで付き合えば、確かめられるぜ」
峰子はきょとんとした。
まさに、鳩が豆鉄砲を食らった顔だ。
ますます楽しくなる慧一だが、楽しすぎて、彼はすっかり忘れている。こういった悪ふざけが原因で女性を怒らせ、何度も振られているという、過去の"実績"を。
それを思い出したのは、峰子の顔がみるみるうちに紅潮し、困惑の表情へと変化してからだった。
(しまった……!)
慧一は慌てた。
よりによって相手は峰子だ。この手の冗談が通じるはずもない。
「待て、今のはナシ。ちょっとからかっただけだろ、まともに取るなよ」
自分でも滑稽に思えるぐらい、大げさに取り繕った。
だが峰子は赤くなった顔を、さっと背けてしまう。
慧一は顔色を無くした。
峰子は沈黙し、耳たぶまで紅く染め、俯いたままバッグの留め金をいじっている。それは慧一にとってほとんど絶望的な、拒絶のポーズだった。
(あれほど焦るなと念じてきたのに、俺はどうしようもないバカヤロウだ!)
しくじった。これで何もかも台無しである。
心の底から悔やむが、もう遅い。無言の気まずさが、車の狭い空間を支配していた。
慧一が唇を噛みしめて途方に暮れていると、峰子が不意に顔を上げ、前を向く。
もう帰ります――
そんなことを言われるのを、慧一は覚悟した。
しょうがない。この先どう挽回するか、もう一度作戦を練り直そう。
慧一はあきらめ気分でエンジンをかけようとする。
だがその瞬間、峰子が口を切った。
「私も、それを望んでいました。でも、ごめんなさい。いざとなると、すごく恥ずかしくて……でも決めました。滝口さん」
「……?」
慧一は返事も出来ない。
どういう意味なのかまったく理解できず、ただ峰子を見つめる。
「教えてください、男の人を」
「……」
地下駐車場には海水浴客専用の通路がある。
水着姿の男女が何組か、慧一の視界をよぎっていく。若いカップル達だ。
今、峰子が口にしたのは、つまり、あのカップル達が今夜いたそうとする、それと同じ行為を指しているのか。
――教えてください、男の人を。
考えがまとまらないまま、慧一は車を降りた。恥ずかしそうに俯き、頬を染める峰子とともに。
慧一は信号に引っ掛かるたび、峰子のほうを何気なく見やった。
やはり後部席と助手席では存在感がまったく違う。とにかく距離が近い。すぐそばに彼女の横顔、そして身体がある。
女性を隣に乗せるのはもちろん初めてではない。それどころか、今までの相手なら気軽に手を握ったり、調子に乗って肩を抱いたりした。
しかし峰子に対しては何気なく盗み見るのがせいぜいで、満足に話すらできない。
堅苦しくてしょうがない。
慧一にはこの至近距離が、嬉しいと同時に窮屈だった。峰子のほうも緊張しているのか、視線がぶつかると曖昧に笑い、すぐに前を向いてしまう。
(困ったもんだ)
ただ慧一には、峰子のはにかむ表情が新鮮だった。これまで、困惑の顔ばかり見てきたから。
(うん、峰子はどんな表情でもかわいい)
好きな顔立ちというのが、人それぞれにある。
朝から晩まで眺めても飽きることがない。うっとりと見惚れ、骨抜きにされる、絶妙な目鼻立ちのバランス。
日暮らしの顔とでも言うのか。慧一にとって、峰子の顔がまさにそれであった。
美人というタイプではない。可愛いけれど、芸能人とかモデル並みというわけでもないのに、とても不思議な感覚だ。
顔立ちばかりではない。
慧一はどちらかというと肉体――特に、バストが豊かな女性と縁があり、今まで付き合ってきた。自分の体格が良いので、バランスが取れている。そう思い込んでいたのだが、関係なかったようだ。
なぜなら、峰子のさして大きくも無い(と思われる)胸のあたりが気になって仕方がない。なぜか魅力に感じてしまう。
(手に余るような巨乳より、ずっと愛しいぜ……)
思わず知らず、熱いため息が漏れる。
峰子が不思議そうな顔でこちらを見た。スケベ面をしていたのではと慧一は焦り、不自然に頬を引き締める。
が、峰子はまだじっと見つめている。めずらしく無遠慮な視線だ。頭の中を覗かれたんじゃないかと、本気で心配になってきた。
「滝口さん、変なことをお訊きしますが」
突然喋りだした峰子にどきっとする。
「何だ」
ついぶっきら棒になるが、彼女は気にする様子もない。慧一はこんなタイプだと、認識しているのだろう。
「毎日、髭を剃るのですか」
「髭?」
「はい」
慧一は顎の辺りを撫ぜてみた。別に剃り残しはない。クリームも付けてあるし、ツルツルしている。
「もちろん。どうして?」
「あの、滝口さんって髭が伸びないような気がしたので……すみません」
声が小さくなり、彼女は気まずそうに下を向いた。
(髭が伸びない? そりゃあどういう意味だ)
慧一は首を傾げる。
(伸びるに決まってるだろう、男なんだから。つまり、ホルモン的なイメージか? 俺は女のように髭が伸びない……そう思えると、そういう意味で言ったのか?)
質問の意図が分かり、持ち前のおふざけ精神がムクムクと持ち上がってきた。
(なんて失礼なやつなんだ!)
だが峰子はいたって真面目であり、だからこそ生まれるおかしさだ。慧一は呆れながらも、楽しくてしょうがない。
(そうか、俺はそんな風に見えるのか。しかしストレートに口に出すとは……)
海岸線に沿って大きくカーブする道の先に、ホテルが見えてきた。
建物の前に広がる砂浜はホテルのプライベートビーチだ。こんな時間になっても海水浴を楽しむ男女が散見される。
(それなら、こっちもお返ししてやろう)
慧一はにやりとした。
「なあ、峰子」
「はい」
「俺の髭が伸びるかどうか、見たいか」
「えっ?」
車はホテルの地下駐車場に入った。
狭い空間を慧一の車は器用に進み、スムーズにバック駐車する。
慧一はエンジンを切り、そしてハンドルに体をもたせかけて、峰子のほうを向いた。
「明日の朝まで付き合えば、確かめられるぜ」
峰子はきょとんとした。
まさに、鳩が豆鉄砲を食らった顔だ。
ますます楽しくなる慧一だが、楽しすぎて、彼はすっかり忘れている。こういった悪ふざけが原因で女性を怒らせ、何度も振られているという、過去の"実績"を。
それを思い出したのは、峰子の顔がみるみるうちに紅潮し、困惑の表情へと変化してからだった。
(しまった……!)
慧一は慌てた。
よりによって相手は峰子だ。この手の冗談が通じるはずもない。
「待て、今のはナシ。ちょっとからかっただけだろ、まともに取るなよ」
自分でも滑稽に思えるぐらい、大げさに取り繕った。
だが峰子は赤くなった顔を、さっと背けてしまう。
慧一は顔色を無くした。
峰子は沈黙し、耳たぶまで紅く染め、俯いたままバッグの留め金をいじっている。それは慧一にとってほとんど絶望的な、拒絶のポーズだった。
(あれほど焦るなと念じてきたのに、俺はどうしようもないバカヤロウだ!)
しくじった。これで何もかも台無しである。
心の底から悔やむが、もう遅い。無言の気まずさが、車の狭い空間を支配していた。
慧一が唇を噛みしめて途方に暮れていると、峰子が不意に顔を上げ、前を向く。
もう帰ります――
そんなことを言われるのを、慧一は覚悟した。
しょうがない。この先どう挽回するか、もう一度作戦を練り直そう。
慧一はあきらめ気分でエンジンをかけようとする。
だがその瞬間、峰子が口を切った。
「私も、それを望んでいました。でも、ごめんなさい。いざとなると、すごく恥ずかしくて……でも決めました。滝口さん」
「……?」
慧一は返事も出来ない。
どういう意味なのかまったく理解できず、ただ峰子を見つめる。
「教えてください、男の人を」
「……」
地下駐車場には海水浴客専用の通路がある。
水着姿の男女が何組か、慧一の視界をよぎっていく。若いカップル達だ。
今、峰子が口にしたのは、つまり、あのカップル達が今夜いたそうとする、それと同じ行為を指しているのか。
――教えてください、男の人を。
考えがまとまらないまま、慧一は車を降りた。恥ずかしそうに俯き、頬を染める峰子とともに。
10
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
魔石と神器の物語 ~アイテムショップの美人姉妹は、史上最強の助っ人です!~
エール
ファンタジー
古代遺跡群攻略都市「イフカ」を訪れた新進気鋭の若き冒険者(ハンター)、ライナス。
彼が立ち寄った「魔法堂 白銀の翼」は、一風変わったアイテムを扱う魔道具専門店だった。
経営者は若い美人姉妹。
妹は自ら作成したアイテムを冒険の実践にて試用する、才能溢れる魔道具製作者。
そして姉の正体は、特定冒険者と契約を交わし、召喚獣として戦う闇の狂戦士だった。
最高純度の「超魔石」と「充魔石」を体内に埋め込まれた不死属性の彼女は、呪われし武具を纏い、補充用の魔石を求めて戦場に向かう。いつの日か、「人間」に戻ることを夢見て――。
夕陽を映すあなたの瞳
葉月 まい
恋愛
恋愛に興味のないサバサバ女の 心
バリバリの商社マンで優等生タイプの 昴
そんな二人が、
高校の同窓会の幹事をすることに…
意思疎通は上手くいくのか?
ちゃんと幹事は出来るのか?
まさか、恋に発展なんて…
しないですよね?…あれ?
思わぬ二人の恋の行方は??
*✻:::✻*✻:::✻* *✻:::✻*✻:::✻* *✻:::✻*✻:::✻
高校の同窓会の幹事をすることになった
心と昴。
8年ぶりに再会し、準備を進めるうちに
いつしか二人は距離を縮めていく…。
高校時代は
決して交わることのなかった二人。
ぎこちなく、でも少しずつ
お互いを想い始め…
☆*:.。. 登場人物 .。.:*☆
久住 心 (26歳)… 水族館の飼育員
Kuzumi Kokoro
伊吹 昴 (26歳)… 海外を飛び回る商社マン
Ibuki Subaru
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

秘密の恋
美希みなみ
恋愛
番外編更新はじめました(*ノωノ)
笠井瑞穂 25歳 東洋不動産 社長秘書
高倉由幸 31歳 東洋不動産 代表取締役社長
一途に由幸に思いをよせる、どこにでもいそうなOL瑞穂。
瑞穂は諦めるための最後の賭けに出た。
思いが届かなくても一度だけ…。
これで、あなたを諦めるから……。
短編ショートストーリーです。
番外編で由幸のお話を追加予定です。

Catch hold of your Love
天野斜己
恋愛
入社してからずっと片思いしていた男性(ひと)には、彼にお似合いの婚約者がいらっしゃる。あたしもそろそろ不毛な片思いから卒業して、親戚のオバサマの勧めるお見合いなんぞしてみようかな、うん、そうしよう。
決心して、お見合いに臨もうとしていた矢先。
当の上司から、よりにもよって職場で押し倒された。
なぜだ!?
あの美しいオジョーサマは、どーするの!?
※2016年01月08日 完結済。

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜
ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。
そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、
理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。
しかも理樹には婚約者がいたのである。
全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。
二人は結婚出来るのであろうか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる