モース10

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
31 / 82
調査報告

しおりを挟む
 真介と短く言葉を交わし、立ち去ろうとした峰子は、黙ったままの慧一をちらりと見上げた。

 それは一瞬のことだが、慧一は反射的に横を向き、怒ったように口を引き結んだ。

 峰子は会釈をすると、足早に歩いていった。


 慧一はパンプスの音を耳にしつつ、彼女に何も悟られなかっただろうかと心配した。

 まだどきどきしている。

 認めたくはないが、体は正直だ。


「いいよな、あの子。清潔な感じがして、今時珍しいよな」


 峰子の後姿をいつまでも見送る真介に、慧一は複雑な思いだった。

 全部話していいものかどうか。

 こんなに心も頭も乱される経験はかつて無い。

 恋という感情は、実にやっかいでしんどいものだと、慧一は今頃になって学ぶのだった。


 ◇ ◇ ◇


 喫茶ロマンの片隅で、慧一はスマートフォンをいじりながら、真介を待っている。

 携帯に女の連絡先を登録したのはいつ以来だろう。

 今現在、アドレス帳に並ぶのは、女と言っても色気のない関係ばかりだ。母親と、弟の嫁、あとは会社関係の人間。

 俺も寂しい男だなあと、慧一はつくづく思う。

 女性だけでなく、男の友人も決して多くない。会えばワイワイやるような間柄でも、連絡先が分からない相手が殆どだった。

 昨夜、峰子の連絡先を登録した。

 彼女の端末にも、慧一のそれが同じく登録された。彼女のアドレスに「他の男」の名前があるのかどうか、気になった。

 彼女の場合、まず有り得ないだろうが、万が一ということもある。


 慧一は息をつくと、スマートフォンをポケットに仕舞う。
 約束の七時まで、あと十分。

 テーブルの上には例の本、モース4が置いてある。


(真介のやつ、どんな顔をするのやら)


 同人誌の作者名を知り、驚愕とする友人を想像した。


(あいつは峰子をまるで聖女のように見ている。聖女は聖女だが、かなり困ったタイプだぞ)


 慧一はふと考えた。考えたというより、それは妄想に近い。

 キスをしてくれと言ったら、キスをくれた。

 と言うことは、もしもエッチしてくれと言ったらどうするのか。


『エッチしてくれ』

『はい、します』


(俺にのしかかる峰子。奪われる俺……って、待てよ)


「俺が奪われてどうするんだ」


 慧一は苦笑した。いくらなんでも馬鹿げている。


「あるわけねえだろ、そんなこと」


 飛躍した想像に独り笑っていると、入り口のドアが開いて真介が現れた。

 バイトのおばちゃんにテーブルを教えられ、慧一のほうへ歩いてくる。緊張の面持ちで、だがスタスタと、彼らしい落ち着いた足取りだ。


「待ったか?」

「ううん、ちっとも」


 女のような声音で返す。


「……あのな」


 慧一のいつもの冗談口に呆れながら、真介はホッとした顔になる。朝、元気がないように見えたので、心配したのだろう。

 真介は椅子に座るとおばちゃんにブレンドを頼んだ。それから、厳しい目つきになって慧一と向き合う。


「それで? どうだったんだ、これは」


 テーブルの同人誌を指で叩き、調査報告を催促する。


「作者が誰か分かったんだろ?」

「うん」

「工場の人間か? 誰だったんだ」

「うん」


 頷くばかりの慧一に、真介は焦れた。

「煮えきらんなあ、早く言えよ」

「驚くなよ」


 慧一はカップを置くと、ゆっくり顔を上げ、前のめりの真介に忠告する。


「ちゃんと俺の言うことを信じろよ。怒るなよ」


 妙に前置きする慧一に、真介は変な顔をしたが、


「いいぞ、さあ言ってくれ」


 さらに前傾姿勢になり、身構えた。


「三原峰子だ」

「……」


 真介は無反応だ。

 頭の中で、今慧一が言った名前と、目の前にある “いかがわしい同人誌” を、懸命に結び付けようとしているのかもしれない。

 それにしても、反応がなさすぎる。


「真介?」


 慧一は心配になってきた。


「大丈夫か? おい」


 慧一は、微動だにしない友人の、テーブル上で握り締められた拳を掴んだ。


「ぎゃっ!」


 真介は叫ぶと、慌てて慧一の手を払う。我に返ったようだ。

 とりあえず慧一は安堵した。


「ショックで気を失ったかと思ったよ」

「本当なのか!?」


 やっと事態を飲み込めたらしい。


「ああ、本当だ」

「そんな……」


 真介は同人誌"モース"を、呆然と見下ろす。


「俺と慧一の、せ……性交場面を描いたのが、あの、三原峰子さん」

「おいおい、シンとケイだよ。変なこと言うな」


 慧一は本を取り上げると、ぱらぱらとめくった。


「ここを見ろ」


 挿絵のページを開き、隅を指差す。


「ここに小さくサインしてあるだろ。よく見ると他のページにも、この文字がある。これが彼女のペンネームだよ」


 真介は目を凝らし、『mie』と、控えめに綴られた文字に見入る。


「みー?」

「読者からはミイさんって呼ばれてるらしいよ。峰子のミイだ」


 真介は運ばれてきたブレンドに、震える手でクリームを入れる。スプーンでカチャカチャとかき混ぜ、そっと口に含んだ。

 ごくりと飲み込むと、多少落ち着いたのか、ふうっと息をついた。


「……どうやって調べたんだ。納得するよう聞かせてくれ」


 慧一は頷く。朝からあれこれと考え、全て話すことに決めていた。

 アンフェアなのは、結局自分を窮屈にする。また、自分らしくもないと思い至ったのだ。


 風通しをよくしてから、峰子との恋愛を進めていきたい。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

ホリカヨは俺様上司を癒したい!

森永 陽月
恋愛
堀井嘉与子(ホリイカヨコ)は、普段は『大奥』でオハシタとして働く冴えないOLだが、副業では自分のコンプレックスを生かして働こうとしていた。 そこにやってきたのは、憧れの郡司透吏部長。 『郡司部長、私はあなたを癒したいです』 ※他の投稿サイトにも載せています。

そこは優しい悪魔の腕の中

真木
恋愛
極道の義兄に引き取られ、守られて育った遥花。檻のような愛情に囲まれていても、彼女は恋をしてしまった。悪いひとたちだけの、恋物語。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~

伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華 結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空 幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。 割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。 思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。 二人の結婚生活は一体どうなる?

処理中です...