モース10

藤谷 郁

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キス

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 広い駐車場は車も少なく、コンビニのガラス窓に映る人影もまばらだった。

 慧一は、建物から離れた位置に車を停めた。
 辺りは暗くシンとして、店内から漏れる明かりもここまで届かない。


(さて……と)


 シートベルトを外すと、後部席に体ごと振り向き、峰子と顔を合わせた。


「あのっ、すみません。失礼なことを言ってしまって……」

「ん?」


 峰子は気まずそうな表情かおで、オドオドしている。

 あんなにきっぱり発言しながら、いまさら怖がる彼女を可笑しいと感じる。だが慧一は笑わなかった。


「いや、感心してるんだよ。君と俺はこれまで接点も無く過ごしてきた。ほとんど口も利いたことがない、それなのに」


 言いながら慧一は、不思議な思いにとらわれる。


(俺だってそうだ。このを認識したのはごく最近で、それこそ、いくらも喋っていない。それなのに、好きになったじゃないか。いきなり好きで堪らなくなった)


「滝口さん……」


 峰子は座る位置を前にずらし、座席に手を掛け、少し身を乗り出すようにした。眼鏡の奥の瞳は、なぜか潤んでいる。

 峰子の顔が近付き、慧一は危ない気分が持ち上がるのを堪えた。今はまだ、その段階ではない。


「ええと……じゃあ、質問に戻るよ。モースのことだ」

「はい」


 峰子の返事は素直だ。きちんと答えようとしている。


「『ケイ』の傲慢でドスケベな性格は、俺を参考にしてるのか?」

「それは……」


 峰子は明らかに狼狽し、言葉に窮した。

 だが慧一は追及を緩めるつもりはなく、彼女の世界へと挑み続ける。


「そのあたりも見抜いてるわけだ」

「うっ」


 慧一は座席の肩に顎を乗せ、峰子の困った顔を見据えた。


「いいえ、あの、それはその……何となく想像しただけで。もちろん、オーバーに書いたんですけど」

「ほう」


 しどろもどろの峰子が、潤んだ瞳で見返してくる。


「……ごめんなさい。想像、というより妄想です。あなたのことを知りもしないのに、勝手にキャラクターやストーリーを考えました」


 峰子は済まなそうにうなだれる。
 今度こそ慧一を不愉快にさせたと思い込んだらしい。

 車のライトは消えている。

 月明かりのもと、彼女の首筋が白く浮かび上がり、慧一の願望を強く揺さぶった。

 なんの計算もない、処女の誘い。


「いいよ。確かに俺は傲慢で、ドスケベな男だ」

「え……」


 顔を上げ、ぽかんとする峰子。可笑しくて、可愛くて、慧一は微笑んでしまう。


「ただし、相手は真介じゃないぞ」


 冗談っぽい口ぶりに、峰子も微笑む。
 慧一には、今日これまでの、どんな表情よりも艶めかしく映った。


「好きな女の子に対しては、そうなる。最近、分かったことだ」

「……」

「君のことだよ」


 波の音だけが聞こえる、海辺の駐車場。

 二人は動かず、長いこと見つめ合った。

 先に動いたのは慧一。

 視線を合わせたまま、峰子の眼鏡に指をかけると、そっと外した。

 顔の角度を傾け、淡い色の、柔らかな唇に近付く。


 彼女の息を感じる。

 あと少しで重なると思ったその時……


「きゃっ」


 か細い悲鳴とともに、彼女が後ろに下がった。


「……嫌か」


 慧一は落胆した様子もなく、普通に呟く。これは予想の範囲内で、当然の反応である。なにしろ相手は、まっさらの処女なのだから。

 峰子は後部座席の背もたれに体をくっつけ、微かに震えている。


「……ダ、ダメです。そんなっ」


 彼女は激しくかぶりを振り、上ずった声で抗議した。


(名前を呼び捨てにされるのはいいが、キスはダメ、か)


 ちょっとだけ期待した自分に、慧一は苦笑する。


「峰子」

「は、はいっ」

「俺は、さっき君が言ったように、束縛されるのが嫌いだが、するのはもっと嫌いだ」

「え……?」


 逃げ腰の峰子に、真面目に言って聞かせる。


「俺は君が好きだよ。無理やりにでも手に入れたいと思ってる。意味、分かるよな。でも、それは君を自分の言いなりにするのとは違う」


 峰子は黙っている。

 眼鏡無しの顔も可愛いじゃないかと内心満足しながら、慧一は続けた。


「お互いべったりせず、何の束縛も無い、自由な付き合いを一度やってみないか」


 彼女の世界に入れてほしい。

 奥の奥まで踏み込んでいくチャンス。ここは運命の分かれ道だ。


 真剣な態度に応じてか、峰子はこちらを見直すけれど、やはり目を逸らした。


「付き合うって、そんな……本気ですか。私なんかを、好きだなんて」


 自信なさげに俯く仕草に、慧一はふと、泉真介を思い出す。

 せっかく良い素材なのに、自信のなさが魅力を半減させている。峰子もまさに、そんなタイプだった。


「私は、あなたを勝手にネタにして本を書いてるような、変な人間ですよ」


 少々弱いが、これはこれで手応えだ。


「俺は面白いと思ってるよ、君のこと。好奇心を大いに刺激される」

「お、面白い……ですか?」

「うん。それに、可愛い」


 峰子は首を左右に振り、胸を押さえた。


「そんなこと言われたの初めてです。変わってるとはよく言われるけど。あと、地味だとか。それに、可愛いなんて……」


 暗い中でも頬が赤らむのが分かった。やはり女の子である。


「可愛いよ」


 思いを込めて、もう一度言う。

 峰子はいたたまれないのか、もじもじした。

 自分の魅力に気付かない女は損だ。歯がゆくてしょうがない。

 慧一は、ますます自分が何とかしてやらなくてはと焦り、体の芯が強く疼いた。


「でも……分かりました」


 やがて峰子は顔をゆっくりと上げて、慧一と向き合う。
 頬は赤らんだまま。


「えっ?」


 分かりましたと、確かに聞こえた。

 つまり、承諾したということ――

 彼女の返事がにわかには信じられず、慧一は真意をはかるために彼女を覗き込む。

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