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腐女子峰子
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「今、ケイって言ったね?」
確認する慧一に、女性はぎこちなく首を横に振る。
「いや、言った。俺を見て、確かに言ったよ」
今度は断言し、彼女をじろりと見下ろす。
「うわあ、どうしよ……」
女性は明るく染めた短い髪を片手でかきむしった。目の前に立ちはだかる男をちらりと見上げ、困り果てた様子になる。
「モースの愛読者?」
慧一のストレートな問いに、彼女は「うわっ!」と声を上げた。
期待以上の反応だ。
「静かに」
慧一は口の前に指を立てた。人々の耳目がこちらに集まり、迷惑そうな空気がたちこめる。
二人は頷き合うと、揃って階段を上がった。
◇ ◇ ◇
喫茶室は階段を上って右手奥にあった。女性は勝手知ったるという調子で、慧一の先に立って歩く。
言葉を交わさずとも、こちらの求めるところを察してくれたようだ。勘の良い子だなと、慧一は面倒が省けたのを有難く思う。
喫茶室はテーブル席が五つほどの、簡素な空間だった。
二人ともサンドイッチと飲み物のセットを頼み、まずは黙々と食べる。何とも味気ないランチタイムだが、新鮮な食材を使ったサンドイッチとコーヒーの香り高さに、慧一はとりあえず満足した。
「あのう……」
アイスティーの残りを長いことかき混ぜていた女性が、やがておずおずと切り出す。もちろん、話題は一つだけ。
「やっぱり、峰子ちゃんの本を拾ったのは、あなただったのですね」
慧一は椅子の背にもたれ、雨に濡れた駐車場を窓越しに眺めている。
「峰子ちゃんが言ってました。あなたに拾われたと思うって」
峰子ちゃんという響きに、かなりの親しみが感じられる。彼女が三原峰子の友人であるのは間違いない。慧一は内心、ほくそ笑んだ。
「どうして俺が拾ったと思うのかな」
彼女に向き直り、分かりきったことを訊いてみる。
「会社の休憩室に『モース』の入った封筒を探しに行ったらあなたがいたので、もしかしたらと思ったらしいです。決定的だったのは、今までまともに口も利いたことが無いのに、あなたのほうから話しかけてきたこと。あれは絶対におかしいって、狼狽してました。これは先週、峰子ちゃんから聞いた話です」
そう、先週の食堂でのこと。
あの時の峰子を思い出し、慧一は一人で頷く。
「なるほどね。ところで、君は俺についてどのくらい知ってる? 三原さんと同じ会社で働く“モースのネタになった男”それ以上のことは?」
彼女はアイスティーをひと口含んでから答える。
「えっと、滝口慧一さん二十八歳、独身……って聞いています」
「あとは?」
峰子の意見が気になる。俺のことをどう見ているのか――そこのところが知りたい。
「うーん、どうだろう。峰子ちゃん、あまり言わないんですよね。あなたのことも、あと、もう一人のモデルさんのことも」
もう一人のモデルとは泉真介のことだ。
慧一は軽く落胆したが、それでもさらに追及する。
「どうしてだろうね。君……ええと」
「あ、申し遅れました。私、伊上京子といいます。峰子ちゃんより二つ年上の二十二歳で、書店員やってます」
「うん、伊上さん。どうして三原さんは、俺達のことを何も言わないんだと思う?」
京子は、今度は即答した。
「それはもちろん、慧一さんも真介さんも、峰子ちゃんにとって純粋なネタ以外の何者でもないからだと思います」
予期せぬ答えに、慧一は面食らった。
「純粋なネタ?」
「はい。腐女子として、あなたと真介さんのことを書きたい。ただ純粋にネタにしたいと思っているだけです。個人的に関心があるとか、そういった次元であなた達を見てはいないと、彼女の性格から私は推測します」
「ちょっと待ってくれよ」
今聞いたことを、急いで整理する。
(峰子は俺と真介に個人的な感情は無い。ただネタに使っただけだと、つまりはそういうことだ)
あと、気になる言葉が二つ出てきた。
「今、婦女子とか言ったけど、どうして婦女子として俺達を書きたいんだ? どういう意味か、よく分からんのだけど」
「あ、慧一さんは一般人ですもんね。すみません、説明します。ふじょしというのは、腐った女子と書いて腐女子なんです。私達のような、男同士の恋愛をテーマに漫画や小説を書いたり読んだりするのが好きで、はまっている女子を、腐女子というのです。同人なんかで使う俗称ですから……同人誌の世界については、何もご存知ありませんか」
京子は急に早口で喋りだした。
質問に頷きつつも、慧一はいきなり別世界に引っぱりこまれたような、奇妙な感覚に囚われている。
「しかし、腐った女子って……ずいぶん酷い当て字じゃないか」
「そうですか? 私も峰子ちゃんも気にしてませんよ。むしろ楽しんでるくらいです」
京子はにっこり笑い、胸を反らせた。
「楽しむ?」
好奇心がむくむくと湧いてきた。
腐女子と呼ばれ、それを楽しむと言う彼女達の感性は普通じゃない。当たり前でない返事に、恵一は強い興味を覚える。
確認する慧一に、女性はぎこちなく首を横に振る。
「いや、言った。俺を見て、確かに言ったよ」
今度は断言し、彼女をじろりと見下ろす。
「うわあ、どうしよ……」
女性は明るく染めた短い髪を片手でかきむしった。目の前に立ちはだかる男をちらりと見上げ、困り果てた様子になる。
「モースの愛読者?」
慧一のストレートな問いに、彼女は「うわっ!」と声を上げた。
期待以上の反応だ。
「静かに」
慧一は口の前に指を立てた。人々の耳目がこちらに集まり、迷惑そうな空気がたちこめる。
二人は頷き合うと、揃って階段を上がった。
◇ ◇ ◇
喫茶室は階段を上って右手奥にあった。女性は勝手知ったるという調子で、慧一の先に立って歩く。
言葉を交わさずとも、こちらの求めるところを察してくれたようだ。勘の良い子だなと、慧一は面倒が省けたのを有難く思う。
喫茶室はテーブル席が五つほどの、簡素な空間だった。
二人ともサンドイッチと飲み物のセットを頼み、まずは黙々と食べる。何とも味気ないランチタイムだが、新鮮な食材を使ったサンドイッチとコーヒーの香り高さに、慧一はとりあえず満足した。
「あのう……」
アイスティーの残りを長いことかき混ぜていた女性が、やがておずおずと切り出す。もちろん、話題は一つだけ。
「やっぱり、峰子ちゃんの本を拾ったのは、あなただったのですね」
慧一は椅子の背にもたれ、雨に濡れた駐車場を窓越しに眺めている。
「峰子ちゃんが言ってました。あなたに拾われたと思うって」
峰子ちゃんという響きに、かなりの親しみが感じられる。彼女が三原峰子の友人であるのは間違いない。慧一は内心、ほくそ笑んだ。
「どうして俺が拾ったと思うのかな」
彼女に向き直り、分かりきったことを訊いてみる。
「会社の休憩室に『モース』の入った封筒を探しに行ったらあなたがいたので、もしかしたらと思ったらしいです。決定的だったのは、今までまともに口も利いたことが無いのに、あなたのほうから話しかけてきたこと。あれは絶対におかしいって、狼狽してました。これは先週、峰子ちゃんから聞いた話です」
そう、先週の食堂でのこと。
あの時の峰子を思い出し、慧一は一人で頷く。
「なるほどね。ところで、君は俺についてどのくらい知ってる? 三原さんと同じ会社で働く“モースのネタになった男”それ以上のことは?」
彼女はアイスティーをひと口含んでから答える。
「えっと、滝口慧一さん二十八歳、独身……って聞いています」
「あとは?」
峰子の意見が気になる。俺のことをどう見ているのか――そこのところが知りたい。
「うーん、どうだろう。峰子ちゃん、あまり言わないんですよね。あなたのことも、あと、もう一人のモデルさんのことも」
もう一人のモデルとは泉真介のことだ。
慧一は軽く落胆したが、それでもさらに追及する。
「どうしてだろうね。君……ええと」
「あ、申し遅れました。私、伊上京子といいます。峰子ちゃんより二つ年上の二十二歳で、書店員やってます」
「うん、伊上さん。どうして三原さんは、俺達のことを何も言わないんだと思う?」
京子は、今度は即答した。
「それはもちろん、慧一さんも真介さんも、峰子ちゃんにとって純粋なネタ以外の何者でもないからだと思います」
予期せぬ答えに、慧一は面食らった。
「純粋なネタ?」
「はい。腐女子として、あなたと真介さんのことを書きたい。ただ純粋にネタにしたいと思っているだけです。個人的に関心があるとか、そういった次元であなた達を見てはいないと、彼女の性格から私は推測します」
「ちょっと待ってくれよ」
今聞いたことを、急いで整理する。
(峰子は俺と真介に個人的な感情は無い。ただネタに使っただけだと、つまりはそういうことだ)
あと、気になる言葉が二つ出てきた。
「今、婦女子とか言ったけど、どうして婦女子として俺達を書きたいんだ? どういう意味か、よく分からんのだけど」
「あ、慧一さんは一般人ですもんね。すみません、説明します。ふじょしというのは、腐った女子と書いて腐女子なんです。私達のような、男同士の恋愛をテーマに漫画や小説を書いたり読んだりするのが好きで、はまっている女子を、腐女子というのです。同人なんかで使う俗称ですから……同人誌の世界については、何もご存知ありませんか」
京子は急に早口で喋りだした。
質問に頷きつつも、慧一はいきなり別世界に引っぱりこまれたような、奇妙な感覚に囚われている。
「しかし、腐った女子って……ずいぶん酷い当て字じゃないか」
「そうですか? 私も峰子ちゃんも気にしてませんよ。むしろ楽しんでるくらいです」
京子はにっこり笑い、胸を反らせた。
「楽しむ?」
好奇心がむくむくと湧いてきた。
腐女子と呼ばれ、それを楽しむと言う彼女達の感性は普通じゃない。当たり前でない返事に、恵一は強い興味を覚える。
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