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自由な風
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唯の呪わしげな声を慧一は背中で聞き、再び歩き出すと、つまらなそうに告げた。
「別れるも何も、君と恋人だった覚えはないよ」
相手を意地にさせるだけだと分かっているが、もはやこの女にかける情けは一分もない。彼自身、自分がこれほど冷淡な態度を取り得る人間だとは思ってもみず、少々驚いている。
通りに出る手前まで来ると、麦藁帽を目深に被った人間が一人立っていた。道のど真ん中で一体誰だとよく見たら、ついさっきスイカ畑で会ったばかりの、石田の爺である。
「なんだ爺ちゃんか。何やってるんだよ、こんなところで」
慧一が近付くと、爺はゆっくりと顔を上げ、後ろから付いてくる唯に目をやりつつ小指を立てた。
「やっぱりお前のコレだったのかい」
「違うよ」
ムスッとする慧一だが、爺は聞いているのかいないのか、追い付いてきた唯を斜交いに覗き、「ええ女じゃ」と、にんまり笑う。
「ウォッホン!」
爺はわざとらしく咳払いすると、ここで突っ立っているわけを教えた。
「今しがた、お前のお袋さんから電話をもらってな、伝言を頼まれたんじゃ。お客さんに手土産を渡すのを忘れたから、取りに帰るよう慧一に言ってくれとな。てっきり車だと思ったから、道の真ん中で待っておったんじゃ」
「はあ? また家に戻れってのかよ。まったくもう、お袋め!」
慧一はしかめっ面をし、腹立たし気に地面を蹴った。
「はい、戻った戻った。親の言うことは聞くもんじゃ。はよ行け」
爺は手で追い払う仕草をし、慧一に家に戻るよう促した。
「分かったよ。じゃあ、君はここで待っててくれよな」
唯は、今来た道を駆け戻る慧一を見送ってから、遠慮もなくこちらをじろじろと眺め回している、腰の曲がった老人にとりあえず挨拶をした。
爺は、ヒ、ヒ、ヒと、妙な笑い方をする。
「あんた、慧一の恋人?」
ずばりと訊いてきた。
唯は微かに顔をしかめるが、「ええ」と、短く返事をする。積極的に会話を楽しみたい相手とは思わなかった。
「ふう~ん、物好きだね。まさか結婚を考えているんじゃあるまいね」
ぶしつけな質問にムッとする唯だが、引っ掛かる言い方なので、思わず問い返した。
「考えては、いけません?」
爺はあれあれと言う風に、頭を振った。
「あんた、何も知らんのだなあ。やめときなさい、あいつの嫁になどなったら一生笑いもんだ」
「笑い……もの?」
「わしはアイツがガキの頃からよく知っておるが、生粋の女好きの女たらし、もうどうしようもない女狂いよ」
「……どういう意味でしょう?」
爺はあたりを見回してから、唯に近くに寄るよう手招きした。
唯は気が進まなかったが、慧一をよく知るという老人から情報を聞き出したくて、耳を寄せた。
「あのな、つまりここ界隈であやつの手が付いていない若い娘を探すのは、難しいってことじゃ」
「……」
遠まわしな言い方は、かえって隠微である。
爺は、絶句する唯の耳元に、一息ふっと吹きかけた。
「ひゃあっ!」
飛び退く唯を見て、爺は腹を抱えて笑った。
唯は信じられないという表情で、息のかかった耳を激しく擦る。
「このわしも、若い頃はあやつに負けんぐらいあちこちの娘と睦み合うたものじゃ。ゆえに婆さんは……つまりわしの女房は、死ぬまで村中の女どもから蔑まれ、男衆には好奇な目で見られとった。かわいそうだが、この癖は直らんからのお」
「け……慧一さんも、そうだって言うの?」
「付き合ってみて分からんか? 大体、あんな男振りのいい奴があの年まで独身で、決まった女すらいないってのを、変だとは思わんの?」
爺の小ばかにした口調に唯はカッとなるが、思い当たる節がある。慧一の女慣れした態度、セックスの巧みさ、そして、あっけないほどの女の捨て方……
老人の言葉を裏打ちする要素が、いくらでも思い浮かぶ。
「まあ、アンタがよっぽどあいつに惚れてるってんなら、しょうがねえけど。浮気癖は直らんから、まあ、覚悟して嫁に来るんだなあ」
唯は動揺した。
何より引っ掛かったのが、慧一にとって自分が大勢関係した女の中の一人に過ぎないと言う事実だ。それは、いきなり捨てられるよりも酷い侮辱だった。
背後に足音が聞こえてきた。慧一のサンダル履きの、ペタペタと軽薄な音である。
「お、来た来た。アンタ、今のをわしが言ったってことは、内緒にしておいて下さいよ」
爺は早口で言うと、麦藁帽を目深に被り、とぼけた振りをした。
慧一が汗を拭いながら、唯の後ろまでたどり着いた。
「待たせたな、じゃあ行こう……」
振り向きざま、唯が平手打ちをかました。
母親に託された手土産を取り落とし、慧一はよろける。
「最低男!」
罵声を浴びせると、唯は老人を突き飛ばして憤然と歩み去った。慧一は突然の一撃に、ものも言えずに突っ立っている。
「ヒヒヒ……ふっははははは」
突き飛ばされて尻餅をついた石田の爺は、愉快この上ないといった風に笑い出す。
「一体何がどうしたってんだよ。おお、痛え!」
怒り心頭の女に一撃を食らい、女好き二人はそれぞれ痛めた尻と頬を撫でさするのだった。
「別れるも何も、君と恋人だった覚えはないよ」
相手を意地にさせるだけだと分かっているが、もはやこの女にかける情けは一分もない。彼自身、自分がこれほど冷淡な態度を取り得る人間だとは思ってもみず、少々驚いている。
通りに出る手前まで来ると、麦藁帽を目深に被った人間が一人立っていた。道のど真ん中で一体誰だとよく見たら、ついさっきスイカ畑で会ったばかりの、石田の爺である。
「なんだ爺ちゃんか。何やってるんだよ、こんなところで」
慧一が近付くと、爺はゆっくりと顔を上げ、後ろから付いてくる唯に目をやりつつ小指を立てた。
「やっぱりお前のコレだったのかい」
「違うよ」
ムスッとする慧一だが、爺は聞いているのかいないのか、追い付いてきた唯を斜交いに覗き、「ええ女じゃ」と、にんまり笑う。
「ウォッホン!」
爺はわざとらしく咳払いすると、ここで突っ立っているわけを教えた。
「今しがた、お前のお袋さんから電話をもらってな、伝言を頼まれたんじゃ。お客さんに手土産を渡すのを忘れたから、取りに帰るよう慧一に言ってくれとな。てっきり車だと思ったから、道の真ん中で待っておったんじゃ」
「はあ? また家に戻れってのかよ。まったくもう、お袋め!」
慧一はしかめっ面をし、腹立たし気に地面を蹴った。
「はい、戻った戻った。親の言うことは聞くもんじゃ。はよ行け」
爺は手で追い払う仕草をし、慧一に家に戻るよう促した。
「分かったよ。じゃあ、君はここで待っててくれよな」
唯は、今来た道を駆け戻る慧一を見送ってから、遠慮もなくこちらをじろじろと眺め回している、腰の曲がった老人にとりあえず挨拶をした。
爺は、ヒ、ヒ、ヒと、妙な笑い方をする。
「あんた、慧一の恋人?」
ずばりと訊いてきた。
唯は微かに顔をしかめるが、「ええ」と、短く返事をする。積極的に会話を楽しみたい相手とは思わなかった。
「ふう~ん、物好きだね。まさか結婚を考えているんじゃあるまいね」
ぶしつけな質問にムッとする唯だが、引っ掛かる言い方なので、思わず問い返した。
「考えては、いけません?」
爺はあれあれと言う風に、頭を振った。
「あんた、何も知らんのだなあ。やめときなさい、あいつの嫁になどなったら一生笑いもんだ」
「笑い……もの?」
「わしはアイツがガキの頃からよく知っておるが、生粋の女好きの女たらし、もうどうしようもない女狂いよ」
「……どういう意味でしょう?」
爺はあたりを見回してから、唯に近くに寄るよう手招きした。
唯は気が進まなかったが、慧一をよく知るという老人から情報を聞き出したくて、耳を寄せた。
「あのな、つまりここ界隈であやつの手が付いていない若い娘を探すのは、難しいってことじゃ」
「……」
遠まわしな言い方は、かえって隠微である。
爺は、絶句する唯の耳元に、一息ふっと吹きかけた。
「ひゃあっ!」
飛び退く唯を見て、爺は腹を抱えて笑った。
唯は信じられないという表情で、息のかかった耳を激しく擦る。
「このわしも、若い頃はあやつに負けんぐらいあちこちの娘と睦み合うたものじゃ。ゆえに婆さんは……つまりわしの女房は、死ぬまで村中の女どもから蔑まれ、男衆には好奇な目で見られとった。かわいそうだが、この癖は直らんからのお」
「け……慧一さんも、そうだって言うの?」
「付き合ってみて分からんか? 大体、あんな男振りのいい奴があの年まで独身で、決まった女すらいないってのを、変だとは思わんの?」
爺の小ばかにした口調に唯はカッとなるが、思い当たる節がある。慧一の女慣れした態度、セックスの巧みさ、そして、あっけないほどの女の捨て方……
老人の言葉を裏打ちする要素が、いくらでも思い浮かぶ。
「まあ、アンタがよっぽどあいつに惚れてるってんなら、しょうがねえけど。浮気癖は直らんから、まあ、覚悟して嫁に来るんだなあ」
唯は動揺した。
何より引っ掛かったのが、慧一にとって自分が大勢関係した女の中の一人に過ぎないと言う事実だ。それは、いきなり捨てられるよりも酷い侮辱だった。
背後に足音が聞こえてきた。慧一のサンダル履きの、ペタペタと軽薄な音である。
「お、来た来た。アンタ、今のをわしが言ったってことは、内緒にしておいて下さいよ」
爺は早口で言うと、麦藁帽を目深に被り、とぼけた振りをした。
慧一が汗を拭いながら、唯の後ろまでたどり着いた。
「待たせたな、じゃあ行こう……」
振り向きざま、唯が平手打ちをかました。
母親に託された手土産を取り落とし、慧一はよろける。
「最低男!」
罵声を浴びせると、唯は老人を突き飛ばして憤然と歩み去った。慧一は突然の一撃に、ものも言えずに突っ立っている。
「ヒヒヒ……ふっははははは」
突き飛ばされて尻餅をついた石田の爺は、愉快この上ないといった風に笑い出す。
「一体何がどうしたってんだよ。おお、痛え!」
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