モース10

藤谷 郁

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地味な事務員

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「俺もついに、オッサンの仲間入りか」


 滝口たきぐち慧一けいいちは鏡の前で髪をかき上げた。

 当年とって二十八歳。男にしてはきれいな肌と整った顔立ちが若く見せるが、アラサーには違いない。

 染めた髪がぱらりと垂れるのを見て、深いため息をつく。

 入社以来続けてきた交代勤務を、この春解かれた。日勤の部署に異動するのは、若手を卒業した証ではないかと彼は考えている。


「いいかげん、決まった相手を見つけないとなァ」


 作業服に着替えて更衣室を出ると、配属されて三か月になる持ち場へと向かった。



 ◇ ◇ ◇



 三田村みたむら工業株式会社――

 広大な敷地にいくつもの工場棟を有するこの会社では、自動車のエンジンに使用される部品を製造している。

 日本の大手自動車メーカーはじめ、世界各国に取引先があり、経営規模は大きい。この頃は不景気で生産も縮小傾向だが、会社自体は実績ある安定企業と、世間には目されている。


 慧一は製造課に所属するエンジニアだ。

 現場仕事を主とするため、事務所に置かれたデスクはほとんど使われていない。
 広々とした事務所は部署ごとに区切られ、製造課のスペースは、生産管理課と隣合わせになっている。

 生産管理課に所属する同期のいずみ真介しんすけとは、大学以来の腐れ縁。四月の異動で、再び付き合いが頻繁になった。



 建物を出ると、七月半ばの強い日差しと、梅雨が明けていないこの時期特有の湿気が容赦なく襲ってきた。


「仕事の前にコーヒーでも飲むか」


 別棟の休憩室に入る直前、スマートフォンが鳴動した。


「何だ真介か、もしもし!」

『慧一、オレだ』

「どうした、わざわざ電話してくるなんて。まさか、カノジョが出来たって報告じゃないだろうな」


 生真面目なインテリ男の真介に、からかい口調でふざける。


『冗談言ってる場合じゃないんだよ! あのな、今朝へんなもの見つけちゃって大変なんだよ』


 いつもはつまらないくらい落ち着いた男が、随分と取り乱している。


「何だ、何を見つけたって?」

『俺とお前の……!』


 真介は勢いよく言いかけるが、何かに止められるように口ごもった。


「もしもし? どうしたんだよ。俺とお前のって、俺に関係あるのか」


 慧一の問いかけに、真介はあきらかに辺りをはばかるような小声になった。


『あるんだよ。卒倒しそうだよ、俺は』

「?」

『とにかく、仕事が終わってから話すよ。お前も残業はそれほど無いだろ。七時に“ロマン”で待ってる。じゃあな』


 唐突に通話は切れた。


「何言ってんだ、あいつ」


 会社帰りに男同士で、喫茶“ロマン”で待ち合わせかよ。慧一は渋面を作りながら、休憩室の扉を押した。


 中には誰もいない。社員達は既に持ち場へ散ったようで、コーヒーの残り香だけが、広くもない憩いの部屋に漂っている。

 空調の大きな音がうるさいが、流れてくる涼しい風が心地良い。慧一はほっとした顔で自販機に硬貨を入れた。

 腰を屈めてホットコーヒーの入った紙コップを取り出していると、ドアが勢いよく開く音がした。

 後ろを振り向くと、紺色の事務服を着た女性が、息を切らして立っている。

 そして、なぜか慧一の姿を認めたとたん、眼鏡の奥の目をこれ以上無いくらいに大きく見開き、「ひああっ!」と、変な叫び声を上げた。


 見覚えのある事務員だ。


 慧一は頭の中で思い出す作業をして、「そうか」とつぶやく。

 日勤の部署に異動して間もなくのこと。組合事務所に立ち寄った時、カウンターに座っていた女の子だ。

 今時めずらしい黒髪のお下げで、眼鏡をかけている。地味で大人しそうな、しかし愛想の良い笑顔が印象的だった。

 慧一はまた、彼女の眼鏡のフレームに特徴があったのを覚えている。

 薄緑色の石が付いた、きれいなデザインのフレームだ。あの透明感は、おそらく蛍石だろうと推測した。


 無言で胸を押さえているその事務員に、慧一は微笑んでみせた。どこか怖がっているように見える彼女に、わざと明るく問いかけてみる。


「誰か探してるのかな?」


 彼女はかぶりを振るが、会釈をしてから中に入って周囲を見渡すと、ベンチの下や自販機の裏側まで覗きこんで、何かを探し始めた。

 眉間にしわを寄せて、かなり険しい表情である。

 重要な書類でも失くしたのかな。
 慧一はコーヒーを啜りながら様子を見守った。


「あのっ」


 やがて、彼女は慧一に振り返り声をかけた。


「うん?」


 小動物的な怯えた瞳を慧一は見返し、一体どんな深刻な事を訊かれるのかと身構えた。


「……いえ、あの、何でもありません」


 彼女は拍子抜けするような元気のない声になって、睫毛を伏せた。


「何か探してるんだろ?」

「ええ、はい。でも……ああ、どうしよう」


 慧一を窺うようにするが、やはりすぐに俯いてしまう。


「すみません、失礼します」


 深々と頭を下げると、スーッと出て行ってしまった。


「えっ、おい?」


 慧一は呆気にとられ、しばし突っ立ったまま。

 窓の外を見ると、よろよろと頼りない足取りで歩く事務員の後姿が、陽炎の向こうに消えていく。


「おかしな子だなあ」


 彼女を見送りつつ、空の紙コップをゴミ箱に放り込んだ。

 まだ二十歳ハタチそこそこの、子どものような事務員。結局何しに来たのかよく分からないが、ちょっと興味が湧いた。


「処女かな」


 つい声に出し、自分でその口を塞ぐ。


「やっぱりオッサンだ」


 慧一は頭をかきながら、始業ベルに追い立てられるように、慌てて持ち場へと駆けて行った。


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