工場夜景

藤谷 郁

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16.春風

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「未樹、そろそろ夕飯にしようか」
「もうこんな時間。ごめんなさい、気が付かなくて」
 既に外は暗く、時計を見ると午後8時になっていた。私は引越しの荷物を解く作業をやめ、慌ててエプロンを外す。

 私と飯島佳史は、クリスマスのプロポーズから3か月後の春、入籍した。
 そして、結婚式を来週に控えた今日、4月5日に、新居となるアパートへと引越したのだ。佳史が住んでいた社員寮からほど近い場所にある。

「近くに美味い定食屋があるんだ。今ならピークを過ぎた頃だから、ちょうどいい」
 佳史のさり気ない優しさにジンとなる。
 ああ、本当に私は幸せだ。世界一の幸せ者だと実感した。

「どうしかした? どこか苦しい?」
 感涙する私を、佳史は心配そうに覗き込む。何と思いやりに満ちた、素敵な夫なのだろう。
 彼の傍にいると、冷静なはずの自分が、感情豊かな……と言えば聞こえはいいが、どうしようもない甘ったれになってしまう。
 この変りように、引越しを手伝ってくれた部下達も、目を丸くしていた。

『主任って、旦那さんの前では無邪気なんですねー』
『オフィスでもそうだと、リラックスムードになるんですがねー』

 皆の冷やかしを、佳史は笑って聞いていた。
「未樹って、職場で慕われてるんだね。いい上司だなって思うよ」
「佳史だけですよ、そんなふうに言ってくれるのは」
「そうかな。あの人だって、そうじゃないの」
「あの人?」
 佳史はふいに顔を近付けると、頬にキスした。
「よ、佳史……?」
「ぽわんとしたほっぺが、可愛い」
「ええっ?」

 話をはぐらかされてしまった。
 それは多分、以前から気になっていたこと……
 彼が話してくれるのを、ずっと待っていたことだ。


「はい、お待たせしました。本日のお魚定食でございますう」
「ありがとう、おばさん。今日も美味そうだなあ」
 定食屋のおかみさんと佳史は、親しそうに言葉を交わす。ここは寮から近く、彼は毎日のように食べに来ているとのこと。家庭的で素朴な味を求める独身社員に人気の店だそうだ。

「今日はお引越しだったのねえ。荷物の整理は済んだ?」
 おかみさんは私と佳史を交互に見て、にこやかに話しかける。親しみのこもる笑顔に、私もすぐに打ち解けることができた。
「家具なんかは揃ってるけど、まだまだですね」
「そうかあ。これからもよろしくね、新婚さん」
 冷やかされ、佳史は照れている。そんな彼を見て、私はとても幸せな気持ちになった。


 定食屋を出ると、遠回りしてアパートに帰った。
 春の月がぼんやりと、空にかかっている。佳史は、ごく自然に私の手を握った。

 そして、彼のほうから教えてくれた。
 あの人について。

 殿村部長――佳史が私の傍に戻ったのは、やはり彼がきっかけだった。
 会社で殿村と顔を合わせた時、私はそれとなく尋ねてみた。でも彼は、『俺は何もしてない。本人に訊け、本人に』と、なぜか教えてくれなかった。
 佳史にもはぐらかされて、男同士の結託を感じた。私はそのうち諦めてしまったのだが……

 ようやく、知ることができた。

 あの日、夜のオフィスに私を訪ねた殿村は、その足で佳史の職場へ向かった。佳史は驚いたそうだが、共通の知人である技術者が間に入ったので、面会を断れなかったという。

「殿村さんは言いました。俺が仕事から奪えなかった女を、君はやすやすとさらった。どこをどう取っても俺のほうが優れているのに、なぜ彼女は君を選んだのかな……と」
 殿村の自信に満ちた声が聞こえるようだ。
「僕はうまく答えられず、正直困惑した……でも、変に持ち上げられるより、小気味良かったよ。そんな彼だから、胸に刺さったのかもしれない。きついひと言だった」

『プライドなんてものを保つために、君は女を泣かせた。随分とけちな男なんだな』

「部長が、そんなことを……」
「うん」
 佳史は深く頷く。
「一気に目が覚めたよ。本当の意味で、母親の言葉を理解した瞬間だった。金をばーんと相手に渡すばかりが甲斐性じゃない。自分のありったけすべてで、愛する人を包み込む。そして幸せにするのが男だと、お袋は言いたかったんだ。殿村さんが、それをはっきり解らせてくれた。俺が未樹を遠ざけたのは、お為ごかしだと彼は見抜いていたのさ」

 佳史は自信が持てなかったのだ。
 殿村という、完成された大人の男を目の当たりにして、動揺した。彼のほうがきっと、彼女を幸せに出来るのだと無理やり思い込み、身を引いた。
「自分が傷付くのが怖かっただけ。本当に、済まなかった」
 私は佳史の手を握りしめ、身体ごともたれた。
「もう、いいんです。あなたも苦しんだのだから」
「未樹……」
 月に照らされる二人の上を、優しい風が吹き抜ける。春と、海の香りがした。


 アパートの部屋に戻ると、解きかけの荷物を整理した。
 ふと、手を止める。思い出が、私の手を止めさせたのだ。
「佳史、見て」
 手の平に乗せたそれに、彼は目をみはる。
 雪だるまのスノードーム。添えられたメッセージを彼は読んだ。

 夢をありがとう――

 冷たい雪に濡れた彼の背中を思い出し、私は切なくなる。
「未樹」
 佳史の大きな手が、私の頬を包んだ。睫毛が触れそうな距離で、彼は囁く。
 私の望んでいること、求めていること。それは、彼の想いと重なっていた。

「今年も、来年も、その先もずっとずっと、見に行こうな」
「は……い」
 私とあなたの、夢の夜景。でも決して夢じゃない、あの素晴らしい光景を見に行こう。
 二人、手を繋いで。

「どんな佳史でも私は大好き。昼も夜も大好きで、大好きで、堪らないのです!」
「未樹、俺も」
 彼の腕が私の腰に回り、ぎゅっと抱き寄せられる。
「えっ!?」
「……片付けはそれくらいにして、そろそろ休もう」
「あ、は、はい。そう、ですね」
 濡れた眼差しが色っぽい。彼の情熱が、私を誘っている。

 ただ私は、ここからが分からないのだ。なぜなら32年間、男女交際の手順を知らずにきたのだから。

 佳史もそのはずである。だって、最初の印象どおり、

 飯島佳史 29歳 多分童貞

 で、あるはず――

「ベッドは使えるよ」
「ええ、でも……」
「往生際が悪いね」
「は、はあ」
 結婚式を挙げて、住まいが整うまで我慢すると、この人は宣言した。未樹を大事にしたいからと。それなのに、なぜいきなり迫ってくるのか。
 よく分からない。よく……

「けっ、結婚式は来週ですが!?」
 ささやかな抵抗を試みるが、佳史は軽く笑って受け流す。それどころか、さらに私を引き寄せ腰を密着させた。
「あ、だっ、そんっ……な」
「さあ、行きましょうか」
 見たこともないスケベ顔。なぜこのように余裕なのか、なぜ、なぜ?
「未樹」
「は、はいっ?」

 そんなの、簡単。強引な男が答えをくれた。

「愛してるよ」

 続きは素敵な未知の世界。
 大好きな彼に抱かれ、私は柔らかな女になる――



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