工場夜景

藤谷 郁

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6.ときめき

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 殿村は飯島と私の関係について『男女が逆転している』と言った。
 それならばなぜ、私は飯島という人に強く“男”を感じるのか。大きくて温かい手も、逞しい体躯も、控えめなようで率直な褒め言葉も、熱い眼差しも、すべて魅力的だ。

 それに、殿村のもう一つの見解、『男の甲斐性を喜ぶ女のようだ』というのも違和感がある。

 私のバッグにおさまっている飯島の財布は、ずしりと重い。
 彼はお金だけでなく、カードや免許証などプライバシーまで、まるごと預けたのだ。こんな豪胆な人がいるだろうか。私の甲斐性を当てにする人間の行為ではない。
 
(それに、なぜかこの人とはしっくりくる)

 手を握られても嫌じゃない。
 それどころか、彼の温もりは私の“女心”を刺激し、どきどきさせる――

  

 コーラルリーフで休憩したあと、私達は熱帯の海を見学した。
 コートを脱いで歩く私を、飯島は時々眺めている。気付かない振りをしたが、強烈な視線を身体中に感じてしまう。それはまぎれもなく“男”の視線だった。

(せめてワンピースの丈がもう少し長かったらいいのに)

 私は多分、一般的な成人女性の平均よりも脚が太い。スポーツなどで鍛えたわけではないが、こういった形状の脚になってしまった。だが、その脚に彼の視線は集中しているようだ。

 熱心に見つめられて、さすがに恥ずかしくなる。飯島に見向くと、びっくりした様子でサッと水槽へ顔をそむけた。やはり脚を見ていたらしく、彼は気まずそうに唇を引き結んだ。女性のように優しい顔立ちでも、顎の線はがっしりとして、彼が男性であることを教えている。

「飯島さん」
「えっ?」
 目の玉だけ動かして、彼は返事した。明らかに動揺している。

 私は、お返しのように彼の身体を観察した。横から見ると、胸板の厚さがよく分かる。どきどきしながら訊いてみた。
「飯島さんは、何かスポーツをおやりになっていたのですか」
「え……スポーツですか?」
 彼はきょとんとするが、やがて安心したように笑う。
「中学・高校と野球部でした。あと、今でも会社のチームに入って練習したり、試合に出たりしてますよ」
「そうなんですか」

 やはり、飯島はスポーツマンなのだ。
 私は特にスポーツマンを好きというわけではないが、彼に限っては、スポーツというアグレッシブな要素が魅力を倍加させている。
「趣味のところに書いてあったでしょう?」
「えっ」
 鋭い指摘が飛んできて、ぎくりとする。結婚相談所のデータのことだ。

 私はデータの中で、彼の顔写真しか見ていない。その他の項目は関係なかったから。
「ええ……いえ、その」
 うまい言いわけが思い付かず、しどろもどろになる。
「未樹さん?」
 訝しそうに覗き込まれ、背中に冷や汗が滲んだ。
 
(困ったわ。でも、正直に答えなきゃダメよね)

 現金もプライバシーもまるごと預けてくれる彼に隠しごとなど、卑怯な気がした。

「ごめんなさい。私、実は……あなたのことは写真で選びました。顔立ちだけで、会うことに決めたのです」
 飯島はぽかんとした。無理もない反応である。
「そう、だったんですか。僕のことを、顔立ちだけで……は、ははは」
 なぜか笑い始めた。呆れたのか、それともあまりにもいい加減な理由なので、笑うしかなかったのか。とにかく彼は、長いこと肩を揺らしていた。

「飯島さん、あの……ごめんなさい、本当に」
 深く頭を下げると、彼は目尻に滲んだ涙を手の甲で拭い、私を見た。笑いをおさめ、とても真面目な雰囲気になっている。
「未樹さん」
「は、はいっ」
 もしかしたら、怒ったのかもしれない。

 私は後悔した。たとえ本当のことでも言うべきではなかった。婚活に行き詰った瀬戸際女の、やけくその選択対象にされたなど、どう考えても気分の良いことではない。
「それって、最高ですよ」
 飯島はふいに近付き、低い声で囁いた。
「え……」
  今度は私がきょとんとする番だ。

(最高って、言った? なぜ……なぜ、最高なの?)

 飯島は嬉しそうにニコニコすると、私の手からコートを取り上げ、肩にふわりと着せ掛ける。
「そろそろ次のエリアに進みましょう。僕の、きれいな未樹さん」
 あんぐりと見上げる私の手を取り、ぐいっと引っ張った。さっきよりもずっと強引で、積極的な触れ合いである。胸が高鳴りはじめた。どうして彼が怒らないのか、考える余裕が持てない。


 ――キャリアウーマンの口説き方を心得た、如才のなさを感じるね。

 ふと、殿村の言葉が過ぎった。
 飯島は、私を口説くために、何度もきれいだと口にするのだろうか。見惚れてたとか、僕の未樹さん……だなんて。

 アクリルガラスのトンネルを、大きなエイが飛行する。飯島と一緒に見上げながら、「もう、いい」と、私は思った。
 彼がどんなつもりでもいい。このデートに挑んだ私の決意は、何も考えず、ただ、飯島佳史に会おう――と、そんなシンプルなものだった。他人が何を言おうが、私自身の心に従おう。
 私は、飯島佳史という青年に最初からときめいている。
 そして、どんどん惹かれている。

 今この時が楽しい。仕事では得られないようなワクワク感。リスクなど考えず、どこまでも突き進んで行きたいという気持ちで、身体じゅうがいっぱいになっている。

「飯島さん」
 繋がれた手を握り返すと、指先から彼の緊張が伝わってきた。
「……何ですか」
 上擦った声は、彼の純情だった。褒め言葉を素直に口にするのに、こんな何でもない場面で上がっている。飯島佳史は、殿村が推測するような人ではない、決して。

「私、飯島さんが……」
 言いかけた時、この水族館のメインエリアである、ペンギン広場に出た。
 南極をイメージしたガラス張りの水槽に、たくさんのペンギンが遊んでいる。岩の上をよちよち歩く姿が微笑ましい。

 飯島は告白の続きを待っている。
 だけど、私は止まってしまった。人垣の中に、思わぬ人を見つけたから。

(えっ、なぜ、このタイミングで?)

 目をこすり、よく確かめた。やはり間違いない。
 水槽を取り囲む観客の最後列に、殿村の後ろ姿があった。

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