ワイルド・プロポーズ

藤谷 郁

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揺れる心

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 海藤さんの口調は、思わず相談したくなってしまうほど優しい。
 でも、彼は甘えてはいけない人だ。絶対に。

「別に、何もありません。あの人とは、最初から何もなかったんです」
『どういうことですか』
 電話の向こうで、海藤さんが前のめりになるのが分かった。
「もう、嶺倉さんと私は他人です。あなたとも関係ありません」
『ちょっと待ってください。京史と他人って、まさか……』
 専務に責められ、ただでさえ参っているのだ。これ以上、誰にも責められたくない。早く電話を切らなければ――
「ごめんなさい。仕事に戻るので、これで失礼します。さよなら」

 強引に通話を切った。
 スマートフォンが何度か鳴動したけれど、それもいつしか止まる。
 これでいい。
 海藤さんも嶺倉さんも、じきに私を忘れるだろう。 
 枯れ女に訪れた奇跡のようなモテ期は、幻のまま終わるのだ。


 午後7時5分前。
 専務が指定した『茶房・縁結び』に着いた。
 これから私は、嶺倉水産とのライセンス事業に関る偉い人達に、契約を台無しにしたことを謝り、言いわけしなければならない。

(ああ、憂鬱……)

 どんなに言葉を尽くしても、彼らは納得しないだろう。せっかくのビジネスチャンスを、私のわがままで潰してしまうのだから。
 だけど、もう後へは引けないのだ。とにかく謝り倒し、許してもらうほかない。

 石造りの階段を上がり、お城の門のような入口から店内に入る。
 店員に社名と名前を告げると、奥へ案内してくれた。広々とした喫茶スペースではなく、フロア奥の半個室を使うようだ。
「こちらでお待ちください」
 店員が去り、静かな部屋にぽつんと残される。私はいよいよ緊張してきて、胃も痛み始めた。
(許されなかったら、どうしよう。重いペナルティを与えられるかも)

 あれこれ考えていると、通路から足音が聞こえてきた。
 店員と、もう一人の足音だ。まずは専務の登場だろうか。私はドキドキしながら、大人しく待機する。
「こちらのお部屋です。お連れ様がお待ちでございます」
「ありがとう」

(えっ?)

 若い男の声。
 しかも、聞き覚えのある。

 私は目を見開き、部屋に現れたその人を見上げた。
「みっ、嶺倉さん!?」
「こんばんは、瑤子さん」

 プリントシャツにデニムパンツ。髪を軽く整えただけの、カジュアルな彼がそこにいた。
(ビジネスモードじゃない。ということは、仕事の話で来たのはなく……じゃなくて!)
「どうしてあなたが、ここに……?」
 嶺倉さんは答えず、店員に緑茶セットを頼んだ。
「縁結びのあんみつは絶品だそうだ。瑤子さんも、どう?」
「えっ? あ、はい。では私もそれで」

 店員が出て行くと、再び静かな空間に戻る。
 私はわけが分からず、目の前に座る彼をまじまじと眺めた。
「君と二人で話したいって、金田専務に頼んだんだ」
「はっ?」
 驚きのあまり変な声が出た。嶺倉さんは真顔である。
「正面から当たっても、君は逃げ回るだろう。だから、必ず二人きりになれるよう、段取りしてもらったのさ」

 つまり、専務と一緒に私を騙したのだ。
 私は椅子を立ちかけるが、彼の鼻先に小さな傷があるのを見て、座り直す。おそらく、私が殴った時についた傷だ。
「昨夜は、すみませんでした。痛かった……ですよね」
 嶺倉さんは苦笑し、頬を撫でる仕草をした。
「君に強烈なパンチを食らうのは二度目だな。でも、二度目はかなり痛かったよ」
「あ……」

 ――ばかっ、あんたなんて大ッ嫌い!!

 私の胸もズキズキと痛んだ。今さら、遅いけれど。

 緑茶セットが運ばれてきた。
 寒天や果物が彩りよく配置されたあんみつが、二人の空気を和ませる。
「可愛いですね」
「ああ」
 私達はもくもくと食べた。夕食の時間だけど、緊張のため食欲がない。お茶と甘味でじゅうぶんだし、美味しく感じられる。
 嶺倉さんのことだから、それも分かった上で、この店を選んだのだろう。

「瑤子さん」 
 嶺倉さんがテーブルに乗り出したのは、あんみつを食べ終え、お茶を飲んでから。
 私は、かなり落ち着いていた。
「はい」
「昨夜は俺も悪かった。焦って、短絡的な手段に出てしまったんだ。どうすればいいのか、混乱しちまって」
「え……?」

 焦る? 混乱?

「あなたが、どうして焦るの?」
 嶺倉さんはいつも余裕に見えた。
 そんな彼に対し、私が勝手に悩んだり卑屈になったりして、ダメになったのだ。
「だから、瑤子さんは分かってないんだ。俺以外にも君の魅力に気付く男がいて、もしかしたら言い寄られてるんじゃないかと、焦る気持ちを」
 赤くなり、ばつが悪そうにする嶺倉さん。
 信じられないけれど、彼は本気で言っている。

(それに、言い寄られてるって……まさか、海藤さんのこと)

 昨夜の、嶺倉さんの言葉を思い出した。

 ――蓮はいい男だよ。君と波長も合うだろう。それに俺と違って、お上品な紳士だからな。

 どうやら彼は、海藤さんと私の間に何があったのか、大体察している。
 皮肉な言い方は、それを黙っている私を責めていたのだ。

「君を早く抱いて、自分のものにしたかった。つまり、そんだけのこと」
 投げやりな口調は照れ隠しだ。女性にモテモテの王子様が、まるで恋愛初心者のように赤面している。こちらにまで恥ずかしさが伝染し、いたたまれない。
「デ、デリカシーがないんですよ。一発とか、ヤるとか……」
 私達は目を合わせ、ぷっと噴き出した。
 あの時は大真面目だけど、コメディドラマのようなやり取りだったと思う。

「それにしても蓮のやつ、どういうつもりなんだか。女の趣味は同じだから、もしやと思ったけど、まさか親友の俺から婚約者を奪おうなんて……」
 婚約者という言葉を聞き、私はふと現実に戻った。
 そういえば、私は嶺倉さんとケンカして、別れる決意をして、会社に退職届まで提出している。
「嶺倉さん。その……お見合いというか、婚約の話ですが、私は……」
「ちょっと待ってくれ」
 彼は手を振り、続きを遮った。

「君が不安なのは分かった。俺みたいな男が相手じゃ迷うこともあるだろ。でも、逃げるのはやめてくれよ」
「……あ」
 私は言いわけもできず、唇を噛んだ。事実、彼から逃げている。
 勇気もなく、戦いもせず、あきらめて――
「ごめんなさい。卑屈、でしたよね」
 嶺倉さんはふっと表情を緩め、私の顔を覗き込むようにした。

「瑤子さんって、すぐ顔や態度に出るんだよなあ。危ういっていうか、そんなところにそそられるんだけど」
「なっ……」
「ほら、すぐに反応する」
 ムキになる私に、微笑んだ。
 ドスケベのミイちゃんなのに、どうしてこんなに爽やかで、まぶしいの。初夏の青空のように、私を包み込んでしまう。
 この人には敵わない。私は覚悟を決めて、まっすぐに向き合った。

「嶺倉さん。私、あなたのことが……」
「失礼します。嶺倉様、秘書の方がお見えになっています。大至急、お話したいとのことで」
 見つめ合う二人に、店員の声が割って入った。
 嶺倉さんは聞く体勢を崩さなかったが、私が黙ってしまったので、仕方ないように席を立った。
「ごめん、瑤子さん。すぐに戻るから」
「え、ええ」

 足音が遠ざかり、私は再び一人きりになった。

 そして、ほどなくして店員が顔を出し、
「嶺倉様が、お帰りになられました。後日、ご連絡しますとのことです」
 気まずそうに伝える言葉だけが残された。
 
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